アイツ半端ないって

「大迫半端ないって」は言うまでもなく今年一番インパクトのあったフレーズの一つであった。基の映像は何度も色んなところで目にしたが、関西人らしく笑いとユーモアで自分の負けの悔しさを昇華しようとするあの選手の姿勢に、日本人の多くがシンパシーを感じたという面はきっとあっただろう。


「アイツ半端ないって」は、つまりは他者と自分、あるいは世間の常識と比較して言う台詞である。あまりにも自分とは次元の違う存在を見たとき、人はそのような台詞でしか昇華できない。


しかし、こんな素敵な言葉は、他人と比べての自分、自分と比べての他者に対して言うだけでなく、自分にも言ってやりたい言葉だとも思う。偏差値などの例を出すまでもなく、近頃は他人と自分との比較で物を見る癖が私達にはつき過ぎている。本当に見つめるべきは自分自身がどうかということのはずである。


自分自身が過去の自分に対して大きく成長できたとき、過去の自分を超えられたとき、「オレ(ワタシ)、半端ないって」と心の底から叫びたい。それはさらに大きく自分が飛躍するために必要な言葉であるし、自分のそこまでの苦労や辛さ、そういったものを癒すパワーワードだとも思う。


「オレ(ワタシ)半端ないって!と必ず言ってやる」、それはきっと原動力になりうる。人は自分の人生の主人公である。この言葉は主人公にこそ相応しい言葉だと思う。他人を賞賛するためにだけ言うのではあまりにも勿体ない言葉ではないか。ショボい自分にそんな台詞は似つかわしくない?もしそう思うならそれは何か世間のつまらない常識に塗れ過ぎている。昨日までの自分から前に進んだということは本当に凄いことなのだから。


人はなかなか成長しない

人はなかなか成長しない。成長したつもりがまったく成長なんてしてなくて、あれ?俺って何も成長してないじゃんということの方が多い。成長したなんてただの思い上がり、同じところをグルグル回っているだけだったりするものだ。

昨日親友の死のことを書いた。50にもなって青臭い文章を書いている自分もどうかと思いながら、まあそれも自分らしいかと思い、書いた。書きながら少し涙が出た。親友のことを思うということは自分のことを見つめることでもある。昔のことをあれこれ思い出すと、もう本当に何も成長していない自分にびっくりしてしまう。

50になってもハタチの自分の一部は自分の中にあるし、15の自分だっている。もしかしたら人は本質的には何も変わらなくて、自分の欠点を上手に隠しながら、目立たぬようにしながら、上手く生きているだけなのかもしれない。(←自分が成長していないからといって、人もそうだと思うところが未熟)もしかしたら、その上手な誤魔化し方を身につけることを成長というならば、私だってきっと成長しているにちがいない。

人は成長しない。ただ自分のでこぼこや傷をうまく隠しながら、隠しつつそれを認めながら、うまくつきあっていく。案外そんなものなのではないか。もちろんそれは簡単なことではない。傷ついて、努力をして、初めてそうできるのだ。

いや、案外その方がいいのかも。すっかり変わってしまうより、いつまでも変わらない十代や二十代の未熟な自分を抱えつつ生きていかなければならない業のようなものがある方が、すっかり変わってしまって別人になってしまうよりも前向きに生きていけそうだ。

 

やたらと他塾の話をする塾

自塾の生徒に、他の塾の話を、わざわざ塾名を出してまでする塾というのは、「よくない塾」だと私は思っている。

塾の先生が他の塾の話をするとき、「○○塾っていうのは素晴らしい塾だね〜」なんて言っていることはほとんどないだろうから、たいていは「悪口」を言っていることだろう。「悪口」なんていうのは指導にまったく関係のない話なのでそういうことを頻繁にやっているような塾はまあよくない。わざわざ「悪口」とカギカッコをつけて言っているが、「悪口」というのはたいてい巧妙にやっているからである。

例を挙げてみよう。たとえば、ある他所の塾が私の『進学塾SORA』のことをこんなふうに頻繁に話していたとする。

「いやあ、SORAっていうのは本当に勉強できる子ばかりが通っているよね。奈良や畝傍に行く子しか通えないらしいし、ずいぶんと厳しいらしいよ。君たちも頑張ろうね。」

一見悪口でも何でもなさそうだが、大っぴらに悪口を言うと格好悪いのでたいていはこんな感じに、狡猾な感じで「悪口」をまき散らすのである。

結局上記の言い分は「SORAっていうのは奈良や畝傍にたくさん生徒が進学しているけれど、それは最初から勉強できる子が行ってるだけだからね。SORAが生徒を伸ばしている塾というわけじゃないからね。」という「刷り込み」になっており、巧に生徒達を「誘導」して、他塾の評判が上がらないようにコントロールをしているのである。

また、日頃から「SORAは勉強できる子しかいけないし、厳しい」と誘導しておけば、自分の塾からSORAに移ろうとする生徒は止められるし、世間でそういう評判になれば、敬遠した生徒が自分の塾に来るという思惑もあるだろう。くりかえしなされる行為には必ず意味があるものだ。そうでなければ何で他塾の話を頻繁に自塾の生徒にするのかという話になる。

貴重な生徒の時間を使ってそんなことをやっている塾が良い塾のはずがない。それは自塾の指導に対する自信のなさの表れであるし、やり方が卑怯である。

一方、ストレートに他塾の悪口を言い、「○○塾のヤツに負けるな」とハッパをかける塾もある。こういう場合、その塾の先生はよほど○○塾に負けたくないと思っている。負けたくないと思うこと自体は間違っていないとは思うが、本来なら、先生の指導力や、様々な工夫で生徒の学力を伸ばし、点数を取らせなければならないところを「○○塾に負けるな!」と、策もなく、売り上げを伸ばそうとする無能経営者のように生徒を焚きつける。指導の手法としては三流以下だ。

実は、他塾の悪口を言い、生徒を誘導して、仮想敵を作り、「あいつらに負けるな!」とやるのは、意外なことにけっこう効果的なのである。人の心の「ダークサイド」のエネルギーを利用しているからだ。「ダークサイド」のエネルギーというのはとても強い。だから人を動かしやすいし、また頑張らせやすい。(もっと言うと、洗脳もしやすい。)しかし、この方法で生徒に勉強させると、憎しみや怒りの感情を使わないとモチベーションを上げられないという性分が生徒達についてしまう可能性も高いし、心が荒みやすい。このエネルギーを利用するのは教師の「禁じ手」にしておかなければならない。こういう塾に通っている子の中には、他所の塾の子にやたらと点数を聞いてきたり、「お前には負けないぞ!」と敵意むき出しに「宣戦布告」をしてくる子も少なくない。なんとなく感じがギスギスしてくるのである。子供を動かせるからと、この禁じ手を使う塾が良い塾のはずがない。

誰しも自塾の指導が一番だから塾をやっているわけで、他の塾のやり方がよくないと思うときもあろう。私だって既存の塾のあり方にカウンターパンチを浴びせるつもりで塾をやっている。けれど、そういうのは自塾の指導の在り方で示すべきものなのだ。

もしお子さんが通ってらっしゃる塾で他塾の話が頻繁に出るならば、それは「よくない塾」の可能性が高い。もしそういうことがあるなら、お子さんが機嫌よく通ってらっしゃるとしても、よくウォッチしておくべきであると思う。

 

「生徒のためにとことん」

こういうタイトルでブログを書くと、「生徒のためにとことん」頑張っているというような文章を期待されるかもしれないが、それとは逆で、「生徒のためにとことん」という塾のチラシやなんかによく出てくるこのフレーズが好きではないということについて書きたい。

誤解のないように先に言っておくと、「生徒の持ってきた質問にはわかるまでとことんつきあいます」とか「わからないことはわかるまでとことんやります」と、言葉を限定して使うなら十分理解できる。私もHPや何かのどこかに「とことん」という言葉を使っているかもしれない。しかし、「生徒のためにとことん」やるなんていう言い方はできない。「生徒のためにとことん」なんていうのはそうそうできることではないからだ。こういうコピーをチラシやHPに書く人は「とことん」の意味が相当軽いか(もしくは意味合いが違うか)、「とことん」をやったことがないのだと思う。

なぜ、「生徒のためにとことん」がそうそうできることではないのか。本当に生徒のために「とことん」なんてやってしまうと、ほとんどの生徒は逃げ出してしまうからである。「とことん」ができるのは、教わる生徒の方に、よほど成長したいという思いと、教える側の「とことん」につき合う覚悟があるときだけなのだ。

たとえば、学校の定期試験で300点くらいしか取れない生徒が、450点を取れるようになって、県で一番の公立進学校への進学を希望したとする。それには相当学力を伸ばさなければならない。先生が「とことん」やろうとしたら、こんなふうなことになる。

「よし、じゃあ今日から授業で扱った問題は次の授業までに少なくとも2回繰り返そう。専用のノートを作ってそこにやろうな。(バサッ。机の上にノートの束を置く)これ、お前にやるからさ。これにやりな。後、今までの勉強で遅れてる分も取り戻さないといけないから、一つ下の学年の単元からやり直そう。(バサッ。一つ下の学年の問題集を置く。)いつまでにやろうか。一年の遅れを一年かけて取り戻すなんてことを言ってたら、とてもじゃないけれど、間に合わないから、これは長くかけても三か月くらいでやってしまわないといけない。一つの単元が終わるごとにチェックテストをするから、進み具合は先生がチェックしよう。あ、そうそう。今、塾のある日以外で一日だけ補習に来てもらってるけれど、それだけじゃ足りないから、もっと日を増やしたいんだけれど、毎日塾で授業やら補習やらを受けてしまうと、家庭学習の時間が取れなくなる。それじゃあ学力を伸ばせないから、どうしようかなと、先生悩んでたんだけれど、いいこと思いついたんだ。あのさ、お前、いつも毎朝、学校何時頃に着いてる?え?8:20頃?よし!じゃあ明日から毎日朝7時から8時まで早朝学習しよう。先生朝から教えるから。絶対成績上がっていくぞ。頑張ろうな!」

「とことん」というのはこれくらいのことだと思うが、学力を伸ばしたいなと、ふと思った子の中で、この「とことん」につき合える子は一体どれくらいいるだろうか。一度でも生徒に「とことん」やってやろうと思った先生というのは、けっこう「とことん」の「入口」に入るか入らないかのところで、生徒に逃げられた経験があるのではないだろうか。(私もある。)

「とことん」なんて書く塾の先生はどれくらいのことを「とことん」と考えてらっしゃるのだろうか。たとえば、私は昨年から大学受験の指導を行っているが、高2生(現高3生)達に専用の勉強部屋を作り、調理道具一式と布団を持ち込み、飯を作り、食わせ、時には泊まりで勉強させたりもする。泊りのときは朝・昼・晩の食事を作る。親御さんから子供を預かって、酷いものは食べさせられないので美味いものを本気で作る。他人(家族ではない人)のために飯を作る、しかもそれが大人数分だったりすると相当疲れる。一日中食事のことを考えることになる。

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休みの日でも彼らの試験が近かったり、部屋を使いたいと、彼らが言えば、休みを潰してつき合っている。3か月休みなしということもある。添削やらテストやらをしつこくやり、勉強の進捗状況にあれこれ口を出したり、夜中に電話やLINEで説教をすることだってある。(高校生にここまで接近戦でつき合ってる塾の先生は少ないと思う。高校生相手にそれをするのは難しい。私は中学生にはそういうことをしていないが、今の高校生達にはそうすることが必要だと思ってやっている。)

おまけに、彼らが部活を引退して毎日たくさんの生徒が来るようになることを考え、この春からもう一室借りた。一緒にいる時間が長いと、彼らのことが色々見えてくる。長い時間を過ごすから気づけることがある。手間も金も相当かかっていて、どう考えても赤字なのだが、高校生達の本気度が高いから私もここまでのことができる。それでも、私は彼らのために「とことん」やってるなんて思っていない。

まあ、「とことん」なんて曖昧な言葉、解釈は人それぞれだからいいんじゃないのと言われればそれまでである。しかし…。

私の中では、生徒にとことんやってるというのはこういうことなのだ。(特に下の方にある『日本一素直な男コウタロウ』を全編お読みいただきたい。)

本当にとことんやっている人を知ってしまうと、「とことん」なんて言葉は軽々しく使えない。もちろん、生徒との付き合い方は先生の数だけ無限にある。このような付き合い方がベストであるというつもりもない。「私はプロですから、こういう生徒との付き合い方は好きではありません」という考え方もあるだろう。そういう先生がおられるのは当然だ。(どちらかというと私もそういうスタンスに近いかもしれない。)「とことん」やっているから偉いというわけでもない。教育には多様性があるべきだ。

ただ、「生徒のためにとことん」と宣伝文句に書くのなら、その言葉は相当の覚悟を持って使ってほしいと思うのである。
 

公立進学校への呟き 〜Twitterより〜

 朝からツイッターで呟いたものだが、今の公立進学校への私の思いや考えが素直に表せたので転載したい。実はブログで何度か書こうとしたのだけれど、うまく書けなかったのだ。勢いで書いていて、日本語がおかしいところもあるがご容赦いただきたい。
このツイートに対してFacebook経由で教え子のT君がコメントをくれた。「僕は空気が読めないのでよかったのかもしれません(笑)公立高校にいって一番困ったのは世の中の一番上がどんな風に生活しているか見えなかったことです。」たしかに彼は空気を読むような子ではない。彼は畝傍高校から現役で京大医学部に進学した子である。畝傍高校から京大医学部へ現役で合格したのは20年ぶりとか何とかいう話を伝え聞いた。(正確には知らないがたしかにめったに合格する子はいない。)
上のツイートを書き込んだら、これもまたFacebook経由で、りさこ先生が「いいね!」を押してくれた。私が書き込んで5分以内だった。りさこ先生はそういつもいつも私が何を書いても「いいね!」を押すような人ではない。彼女が押すにはそれだけの意味がある。りさこ先生は畝傍出身で、現役で阪大に合格できず、一年後京大に合格した女性である。京大では東大寺や西大和の学生と多数知り合いにちがいないし、またふりかえって畝傍高校がどんな学校かも分かっているにちがいない。
昨日、SORAのスタッフとDaichiのスタッフでお好み焼きを食いながら呑んだ。ウチのスタッフに畝傍出身のS君というのがいて、彼は同志社の学生なのだが、彼もその場にいて、私は、彼の高3のときの受験勉強のことを話題に挙げた。
 
「先生、ボク同志社に行きたいんですけれど、どんな勉強したらいいですか?」
 
S君は同志社に行きたいというのだが、いくつか彼の英語の質問を受けた私は愕然とした。とてもではないが、同志社に合格できるような学力ではなかったからだ。畝傍の中でも練習が厳しい部活をやっていて、勉強には全然手が回っていなかったのだ。

彼の話をふんふんと聞いていると、センター試験受験の話が出てきた。「え、え、ちょっと待って、君は同志社に行きたくて、私立しか受けないんだろう?なんでセンター受けるの?」と訊いたら、「いや、センターでも同志社は行けますよ」なんて言うのである。いや、お前それは京大とか阪大を受験するような子の話だろう。お前が(センター利用で)受かるわけないじゃんと返した。聞けば畝傍には何だかセンターを受けなければならないような不文律があるという。
 
私はS君に言った。「あ〜、先生のところに行ってさ、センター受けませんって言ってきな。先生と喧嘩してもいいからさ。同志社行きたいんならセンターの勉強なんてしてたら無理だから。最悪、勉強をまったくせず、当日欠席でもいいけど。私立行くって決めてんのにセンター受験はおかしい。」
 
S君は意を決したように「先生と喧嘩してきます!」と言った。曖昧に誤魔化したくないということだったのだろう。S君らしいと思ったが、彼は担任と本当に喧嘩してきた(笑)ともかく彼は畝傍に流れる「同調圧力」と戦い、人とは違う戦いに向かう決心をしたのである。
 
そこからは、先ほど出た、りさこ先生や、たかちゃん先生(今は医大でインターン)をフル動員してS君に勉強させた。貴ちゃん先生などは自分が勉強していたガストで、同じく勉強に来たS君と会い、そこでも質問を訊いていたのだという。で、彼は見事同志社大学に合格した(私が一番信じられなかったかもしれない)。
 
後で聞いたところによると、センター試験を受けないことで色々大変だったらしい。一番悔しかったのは、一緒に部活を頑張ってきた仲間が、S君に「お前、何でセンター受けないんだよ。(成績が悪いSのくせに)」と結構、嫌味を言ってきたことだったという。
 
「皆仲良く」というのは、裏を返せば人と違う道を行けば、足を引っ張られる可能性だってあるということだなと思った。S君はその悔しさもあって猛勉強をした。合格したときは「俺はやってやったぜー!!!」と拳を突き上げ喜んだらしい。彼に色々言ってきた子達がどういう結果だったかは、S君から聞いたが、ここには書かない。

たしかに、センター試験を切り捨てなければいけない状況にまでしたのは、S君自身の責任であるが、人は気づいたところからベストを尽くせばいい。彼のベストとは「センター試験を受けずに第一志望に全力を注ぎこむこと」だった。それが人とは違う道であっても、彼は一直線に走りぬいた。だから勝てた。
 
私は生徒達に奈良や畝傍や郡山のような進学校に通ってもらいたいと思っているが、そこで、仲良しこよし「だけ」をしてもらいたいとは思っていない。広い世界を見ようとする「高い意識」と、孤独に歩む「強さ」を持ってもらいたいと思っている。この文章を書いている間にも、一連のツイートがどんどんリツイートされて広がっている。それは共感してくださる方が多いということであろうし、畝傍出身のスタッフや教え子が反応してくれていることも併せ、私が主観だけで物を言っているのではないということを証明してくれていると思う。

実は、一番これを読ませたいSORAの高2生なのだが、彼らの中で、私のブログやツイッターを読んでいる子は正直少ない。私や猫ギター先生やロカビリー先生、赤虎先生、細川先生を始め、私がフォローしている方のツイッターやブログを読めば、世界が広がり、モチベーションも上がろうというものだが、彼らの世界は物凄く狭いのである。そんなものなのだ。(世の中には自分の受験勉強の進み具合を書くだけの別アカウントを作って、塾の先生や予備校の先生をフォローしてモチベーションを上げようとしている連中もいるのに!)

そんな彼らに広い世界を理解させ、自分達が過ごしている「空気」の温度というものがどんなものであるかを気づかせるのは本当に大変なのだ。







 

畝傍高校の文化祭に行ってきた

 昨日は朝から塾のスタッフ連中と高校の文化祭へ。

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この学校は一年が展示をやり、二年がダンスパフォーマンス、三年が模擬店をやるということになっていて、朝から高2生のダンスの写真でも撮ってやろうということで、朝一番から出かけていった。

事前にウチの生徒達の出番の時間と立ち位置なんかも紙に書いて提出させるという念の入り様で生徒達はさぞかし面倒くさかったろうと思う。おまけに学校で私に会ったら「せんせ〜!」と駆け寄ってきて、ちゃんと「ちやほや」するように言いつけておいた。ますます面倒くさい(笑)

生徒達は夏休みの間、特に盆が明けた頃から、朝から3Fの勉強部屋で勉強、昼から学校へ行き、文化祭のダンスの練習をして、また夕方から塾へ戻って勉強。頑張っている子はそんなスケジュールで動いていたので、だいたい彼らがどれくらいの練習時間を割いて、ダンスを仕上げたかは想像がつく。さすがは進学校だけあって、あれくらいの時間であれだけ仕上げたのなら大したもんだと思って見ていた。

塾生全員の写真を撮らないといけないものだから、ステージをずっと見ていたのだが、文化皆とても優しい。ダンスのMCがスベっても、バンドのボーカルのピッチがずっと不正確でも、皆「イエー!」と盛り上がってくれる。少なくとも私が中学や高校のとき、私の中学、高校ではそうではなかった。ちょっとでもつまらないことを言ったり、したりしたら、すぐに「ブーイング」の声が上がったものだった。そんなのに比べると本当に皆優しく、その代わり、少し甘くてヌルい、そんな気がした。


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お互いがお互いを気遣ってうまくやろうとする。仲良くやろうとする。それは素晴しいことなのだけれど、それでも私はこれでいいのだろうかと思った。皆が足並みを揃えて同じように歩いていく、今の高校生の「あの感じ」はこういう環境から生まれたものではあるまいか、と思ってしまうのである。

以前にも書いたが、青春というのは光と影があり、今の時代の青春には影の存在がないがごとくになってはいないだろうか。もちろんそれがないはずはない。たしかにそれはあるはずだが、「ないはず」のものに出会ったとき、彼らはそれをどう処理するのか。若者の成長には孤独と葛藤が不可欠だと私は思っているが、彼らの青春には「孤独になる覚悟」が生まれにくいのではなかろうか。

そんなことをチラリと思い、彼らの「青春の煌めき」を眺めさせてもらいながら、この子らがしっかり自らの「牙」を研げるよう、色んなものを仕込んでおかねばということを思った。


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大和軒のニラ炒めが美味かった話もしくは10と9の間

 この間、天理の大和軒(中華料理の方)へ行って食べたニラ炒めがやたらと美味かったので、ここ数日、家でニラ炒めばかり作って食べている。

大和軒は大衆中華料理屋で、値段は安いが味はとびきりいい。私が中学生の頃から通っている店だ。ちゃんぽんや中華丼、チャーハンの美味さったら言いようもない。この店の中華そばを食べてみてほしい。当たり前の中華そばがこんなに美味いのかと驚かれると思う。

私はけっこう料理上手な方なので、手を抜いたような店の料理より美味いものを作れるとうぬぼれているが、ニラ炒めを毎日作っていても、大和軒のそれにはとてもかなわない。大和軒の美味さを10としたら、私の作るニラ炒めは9くらいだ。

10と9じゃほとんど変わらないじゃないかと思われるかもしれないが、それはちょっと違う。10というのは完璧ということなのである。9というのはなかなか素晴しいが、それは完璧ではない。だから5と6や7と8の間と違って、10と9の間には途方もない差がある。9と10の間の距離は0から9までの間に等しい。ちょっとの差は途方もない差なのだ。

仕事でも勉強でも何でもそうだ。仕事を9割仕上げてから、そこから10にもっていくときの苦労は0から9割まで仕上げたときの苦労と同じくらいのものだと思うし、また仕事とはそうでなければならない類のものだと思う。勉強もまた同じで、試験範囲の9割をあらかた勉強してから完璧に仕上げるのが大変なのだ。

昨日、中1の生徒達、小学生のときから塾へ通っている子達のクラスで、中間試験の勉強が全体的に甘かったことを説教した。ある子に、勉強したのか?と問うと、その子は「しました」と答えた。私がそれに重ねて「じゃあお前の全力を100パーセントとして、何パーセントくらいやったって言うの?」と訊いたら、「7,80パーセントです」なんて答えるのである。

「皆が走るレースで、自分一人、8割の力で流してレースに勝てるわけないだろう。お前がやった、と言っているのは、走りました、と言っているだけで、勝とうとしました、ではないんだよ。試験勉強で、8割の力で、なんて言ってるのは、一応レースには出ますけれど、勝つつもりはまったくありません、って言ってるのと同じことなんだよ!お前そういうつもりで試験受けたの?」

そう訊くと、もちろんその子は首を振った。

9割仕上げて、そこから10割へ持っていくのも途方もないのに、8割程度で流していたのでは点数が取れるわけもない。よく考えてみてほしい。勉強がある程度できる子ならば、定期試験、500点満点中400点を取るのはそう難しいことではない。しかし450点から上は途方もない努力が必要になってくる。450点と470点の間の20点は350点と370点の間の20点とは別物なのである。

点数なんかはまず置いておいてもいいから、まずは生徒達に9割先を仕上げることが途方も無いことだということから学ばせなければならない。また、未熟な自分の「完璧」はせいぜい7割程度のことなんだということも学ばせなければならない。それを理解し、自覚しないかぎり本当の成長はない。

私のニラ炒めも、本人は9だなんて言っているが、当然、これもよくて7くらいのものに決まっている。だから、それを自覚しない限り、大和軒のニラ炒めには近づけるはずもない。そういう努力をする必要があるのかどうかは別として。(そんなことを書いていても本人は絶対に9と思っているところがタチの悪いところである。だからきっと生徒達もそうなのだろうと思っている。)