夏休み一日何時間勉強するの?

 高3生が部屋を使わせてほしいというので、昨日も今日も朝から部屋を開放している。


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高3生の勉強計画ノートには夏休みの一日の勉強時間が10時間くらいになっている子が多い。もちろんそれは言うばかりの約束事ではない。実際にきっと彼らはそれだけの勉強時間を取るだろう。そういう勉強を彼らはやってきた。

大学受験の大変さは高校受験とはくらべものにならない。ちょろっと勉強して、ひょいっといい大学に行くことはできないのだ。

大学受験に比べれば、高校受験なんてずっと楽なものだが、中3生も、一日に5時間くらいは最低勉強してもらいたいものだ。やらなければならないことはたくさんある。それを一日2〜3時間の勉強でお茶を濁して、結果、成績が上がらないなんて嘆くことになっても、それは当然のことであって、「頑張ったのに(成績が)上がらない」なんて言ってはほしくない。

SORAの中3夏休み中の授業の宿題は、おそらく近隣の進学塾の中でもっとも少ない方だと思う。だからといって勉強時間が少なくていいというわけではない。授業の復習をし、自分の弱点を見つけ、それを補っていく勉強をしていかなければならない。それをやっていたら一日5時間くらいにはなるものなのである。

今日の君達の勉強は、高校入試につながっているのはもちろんのこと、さらに遠くの未来につながっている。今、高3生が一日10時間の勉強をひと夏しようとし、またそれができるのも過去の蓄積があってのことなのだ。

悔いのないよう、一日一日の勉強を大切にしてほしい。






小5の英語

 小5の英語。

ローマ字の学習を活かし、そのまま正しい英語の発音を身につけさせる。それはそのままつづりの練習にもつながっていく。
 
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高校生専門SORAJUKU

自分達が教えてきた子が大学入試でも目標を達成できるようにと始めた高2の指導も2年目になり、つまりは彼らもいよいよ高3になった。

ブログには料理を作ったりしている写真しか載せていなかったりするが、この一年は「公立高校に通う生徒が大学受験で勝てる方法」について語り続けた一年だったと言える。

「公立高校で部活をやってたら、週に3回も塾へ行ってたら大学受験の勉強できないでしょ」ここがスタート地点であり、「ああもう大学受験だから塾へ通わなきゃ」これがそもそも間違いだと説くところから彼らの指導を始めた。大学受験は、覚え、身につけなければならないことが山ほどある。「教えてもらう」だけではどうにもならない。まずは頭に叩き込まなければならないことをさっさと叩き込んでいくよう指示していった。

頑張らせてきた成果は、あちこちに少しずつ出始めているが、中学生と違い、高校生の成績を上げるのは至難の業だ。ゆっくり少しずつしか変わっていかない。辛抱しながらやっていくしかない。成果が出始めるのはむしろこれからだろう。辛抱のきかない子は大学受験では成果を出していくのが難しい。語り続けるということは、そういう辛抱をしなければならない彼らを支えるということでもある。量が少ないならもっとやれと言い、やり方が正しくなければ軌道修正をし、マンネリ化しているときは刺激を与え、腹が減っていれば飯を食わせてきた。それが私の役割だ。

成果はゆっくりと少しずつ、と言ったが、もちろん大きな成果も出ている。先月、生徒の一人が、畝傍高校の新学期最初の模擬試験(業者作成センター形式)で、英語学年一位を取った。畝傍高校で英語一位を取るのは至難の業である。学年には帰国子女の子が何人かに加え、一年海外に留学していた生徒などもいると聞いている。その中で一位なのだ。

本人も嬉しかったろうが、こちらとしても嬉しい。そういう子が出てくると、「ああ私達のやっていることは間違ってないのだな」と、こちらの指導への信も高まるからだ。何せ他所の塾と勉強へのアプローチが大きく違う上、大学受験生を指導するのが初めてである。彼らが不安を感じることだってあるかもしれない。この時期にこういう子が出てくれるのは、今後の指導を考えるとありがたい。何と言っても「一年で畝傍高校英語一位まで引っ張り上げた指導」なのだ(笑)

大小様々な塾が八木駅前にはあり、畝傍高校の生徒も数多く通っている。その中で一位である。痛快の一言につきる。そういった面「でも」嬉しい。断っておくが、この子は別に元々べらぼうに成績がいいとか、そういう生徒ではない。むしろ英語が難しくなってきたと、英語が下がり気味だったくらいである。それを一年でここまで持ってきたのだ。もちろん毎回一位なんてまだまだ無理。しかし一回でも一位を取れるくらいの実力はついてきたということだ。

巷の高校生の自習室はしゃべっている子や、スマホをいじっている子がいたり、音楽を聴きながら勉強している子がいたりと、緊張感が保たれていないところも多いと聞いている。三階の彼らの部屋はいい緊張感が保たれた空間になっていると思う。「場」を作ることは「分かりやすく教えること」よりもはるかに大切なことだ。しかもそれは指導者だけではできない。生徒達自身の自覚も必要だ。その意味では彼らは真面目に「場」を作ったと言える。私が見たところ、この部屋に通う頻度が高い子ほど力が安定してきたように見える。先の英語一位の子もその一人である。

どこの塾よりも緊張感と凄みのある勉強集団を作りたい。その意味ではまだまだ彼らは発展途上だ。イライラしたり腹の立つことも多い。(今日も仏頂面をしている。)どこまで夏までに彼らを鍛えることができるか。勝負の半分はそこで決まる、それくらいの気持ちで彼らと向き合っていきたい。

追記:私の塾は『進学塾SORA』だが、高校生の集団を『SORAJUKU』と呼ぶことにしようかな、なんて考えている。





 

公立高校入試合格発表

18日、奈良県公立高校の合格発表があり、平成26年度入試がすべて終了した。

全高校の発表が終わった後、できるだけ早く結果はHP上に載せることにしているので、今年もそれはすでにリリースしてある。

今年の入試に関して、問題の傾向や難易度がかなり変化したということは公立入試の日のブログで書いたが、私はこの変化は大変よいことだと思っている。中学生はもっと色んな問題を解き、考え、苦心して、高校生になるべきだと思うからだ。(中学生と高校生のカリキュラムのつながりの悪さと、学習の内容の差は今の日本の教育の問題点の一つだ。)誤解を恐れずに言えば、これまでの入試問題だと、定期試験の点数をしっかり取り、入試のための勉強はそこそこやれば、ちょっとばかり筋のいい生徒なら畝傍高校に入れてしまったのである。

公立入試がそういう状況だと、内申点を確保するために、塾は学校の定期試験の点数を取らせることに血道を上げる。「内申点確保メイン、入試に向けた実力養成は添え物」塾が増える。その方が塾も楽だし、生徒達も楽。誰しも楽な方に流れるので、そういう塾の方が流行りやすい。だからSORA程度の塾で「厳しい」なんて言われたりもするのだ。「楽」だということは「鍛え」が足りないことを意味する。高校入試のこと「だけ」を考えた指導と、「その先」を考えた指導は全く違う。多くの私立高校で「○○塾から来た子は伸びにくい。●●塾から来た子はよく伸びる」と密かに述べられていることは以前にも書いたとおりである。

公立入試の問題がヌルくても、かつて、私立入試の問題はなかなか厳しかった。私立は3年後にいい大学に入ってくれそうな子が欲しいから自然とそういう問題になる。昭和の終わりや平成一桁の頃の入試問題なんて見たら、今とはくらべものにならないくらい難しかった。公立高校の入試が易しくても、併願で受ける私立の入試が難しかったため、奈良県の中学生は畝傍高校に入るために、勉強を頑張らなければならなかった。そこでうまくバランスが取れていたと言える。しかし、時代の流れの中、子供達が軟弱化したのか、鍛えられる機会を持てなかったのか、難しい問題を課す高校を敬遠するようになった。そうすると背に腹は代えられない。私立高校の入試もほとんどが易しくなってしまった。ますます「実力養成は添え物」塾がやりやすくなっていったのである。

これもまた、一つ前のブログで書いたが、ある私立高校が入試問題の傾向を変え、難易度を上げたら、塾からクレームが入ったというエピソードは、まさに「実力養成は添え物」塾の仕事がやりにくくなるという事実を端的に表していると思う。(仕事がやりにくくなるのだから文句も言いたくなるだろう。)

中学受験で私立の中高一貫校へ行った子に負けない学力の土台を生徒達に築いてやりたいという思いがあって、私は塾を作った。
高校入試は「通過点」にすぎないと思い、日々指導をしている。もちろんSORAに通う子の学力は幅広いので、全員に同じだけのことを要求しているわけではないが、しかし、どの子にもそのスタンスでいることは忘れない。

だから、今年のような公立高校の入試の中ではSORAの生徒は強い。試験当日、生徒から入試問題を見せてもらったとき、私は心の中でガッツポーズをした。この問題では「ちょこざいな傾向対策」等は役に立たないからである。質の高い指導を受けてきた生徒や、実力のある生徒の順位が相対的に上がるのだ。
 
実際、SORAの生徒達は本当に強かった。奈良、畝傍、郡山では全員が合格してきたし(これらの学校は人気があるため、どうしてもギリギリの成績でも受けたいという生徒が毎年けっこういる)、それ以外の学校でも危ないところからの合格がたくさんあった。私達指導陣は、うれしかったというよりも、ひたすらホッとして力が抜けるのが精一杯、そんな合格がいくつもあった。

SORAは難関私立や、奈良、畝傍、郡山に合格していく子が多いため、最初から勉強ができる子が行く塾だと、世間では考えられている節もあるが、けっしてそんなことはない。たしかに、勉強ができる子も通っていないではないが、毎年、入塾してくる子の学力はそう高くない。毎年、多くの(失礼な言い方であるけれど)「どんくさい」子が勉強への意識を高め、勉強時間を確保するようになり、そして学力を伸ばしている。要は「鍛えられて」合格しているのである。

先に高校入試は「通過点」と書いたが、これは高校入試を軽視しているということではない。高校入試は大切な大切な「通過点」である。出来得るならば、「努力とは甲斐あるものだ」という「体験」と共に通過させてやりたいと思い、この「通過点」まで私達は彼らと共に走っている。しかし、今年の入試では、一人だけその体験をさせてあげることができなかった。

全高校の発表が終わり、森川先生と顔を合わせることができたのが午後6時半過ぎ。「一年間お疲れさん」と握手を求めると、彼の口からついて出てきたのはこの子のことだった。彼もずっとそのことが頭から離れなかったのだろう。しかし、いくら悔やんでもこの結果はひっくり返ることはない。私達がこの事実を昇華していく方法は「もっと腕を磨け」と自分自身に言い聞かせ、日々精進していくことしかないのだ。

ぬるま湯につかることなく、感覚を研ぎ澄まし、精進をして、生徒達をさらに鍛えていきたい。ちょっとばかり流行らぬ塾になろうとも、そのために塾を作ったのだから変節はしてはならない。この奈良県公立高校入試の新傾向の問題はそんな私達の思いからすると、ずっと願っていたことである。どんな問題がこようと勝負に勝ってくる強い子に鍛えていきたい。







 

塾長、歌う (2013進学塾SORA夏季合宿にて)

 

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2013夏季合宿にて。






言わずにはいられない

 昨日、高2生のクラスで話をした。話の内容は有体に言えば、勉強時間がとれていないことに対する説教である。

彼らの勉強時間は、普通の高校生の2年生の夏休みとしては少ないわけではないが、本人達が行きたいと思っている大学のことを考えるならば、そんな勉強ではとても行けないくらいのことしかやっていない。そんなことは本人達も十分分かっていると思うのだが、「ほんの少し真面目にやること」で自分の心を落ち着けてしまっている。厳しいことを言うが、彼らの勉強は「精神安定剤」程度のものでしかない。

私はこの夏休みに彼らをうんと勉強させるために、春から色んなことを仕掛けた。全部それは夏への「前フリ」といってもいいくらいのものだった。その仕掛けが機能していないと言えばそうなのだが、やらずに泣くのは彼らだ。だから授業後、30分くらいかけて話をした。

厳しいことを言ったが、怒鳴ったりはしていない。もう高校生なのだからということも頭の隅にあったからかもしれない。高校生の理解力を期待して話をしたが、話し終わった時点で、私はこの一回の説教で話は終わらないなと覚悟した。

たぶん、まだ何も伝わってないし、彼らは変わらないと思う。おそらく今日からバリバリと勉強時間を増やし、頑張った子は一人か二人のものだろうと思う。これは断言できる。ほとんどの子は今日は昨日と変わらぬ一日を過ごしているはずである。

彼らの勉強に対する一番の障害は何か。それは彼らの「青春病」なのではあるまいかと思っている。ほとんどの子が部活をし、文化祭の練習をし、友達としゃべり、別れても、LINEや何かでいつまでもコンタクトを取り続ける。そんなことで日常を埋め尽くして、残った時間で勉強をしようというのだ。それで勉強が進むわけがない。彼らは自分達は時間がないと思っている。高校生なのだから、部活も文化祭の練習も、友達とのコミュニケーションの時間をたっぷり取るのも当然だと思っている。

今の高校生は「青春」を本当にエンジョイしていると思う。彼らの青春は「友達」と「仲間」なしに成り立たない。ネットや何かで、高校生が、景色のいいところで仲間と横一列に並び、一斉にジャンプした瞬間の写真をよく見る。一種の企画写真だ。(試しにネットで「皆でジャンプ」というワードで画像検索したら、けっこう出てきた。)お互いの誕生日に物凄く労力のかかりそうなメッセージボードを皆で作って渡したりしている。あれはきっと一種の「青春増幅装置」なのだ。彼らの行動のそこここに「私達は友達だよね、仲間だよね」を確かめる作業が入る。「私達、楽しいよね!充実してるよね!」それを味わうように、慈しむようにしている作業のようにも見える。

こういう言い分は、いかにも頭の固くなったオッサンの戯言だ。しかし青春から遠く離れたオッサンだからこそ、客観的に見えるということだってある。大体、高校生は「青春」なんて言葉は使わない。当たり前だ。青春の最大の悲劇は「自分が青春の真っただ中にいることの自覚のないこと」だからだ。自覚がないから「青春」の華やかなるものを増幅させ、味わい尽くそうとして、心地のよいところに沈殿したっきりということになったりもするのだ。

理で考えれば分かることだが、自己の成長を願い、憧れ、努力していくことだって、「青春」の「柱」のはずだ。しかし自覚のない彼らはその華やかなるものの方にしか流れていかない。そう考えると本当に根が深い。

今年春の大学入試の結果を見ると、大学受験の結果のよくない高校が多かったように思う。失礼な言い方だが、中途半端な進学校が軒並みよくなかったような印象がある。よくなかったところがあれば、よかったところがあってもよさそうなものだが、よくなかったところの方が多い印象だ。何故だろう。

別に何の分析をしたわけではないが、学校や塾が外からの圧力で無理やり勉強させるような「規格品」の指導が通じなかったのではないかと私は思っている。勝ったのは、密かに牙を研ぎ続けた、あちこちにいる「個人」だったのではないか。

成績を上げるということは、横にいる仲間を追い抜くということなのだから、皆と同じように時間を過ごしていたら、それは無理というものだ。どこかでズバッと切って、孤独になって勉強をしなければならない。皆遊んでいるのに何で私だけ・・・と思うこともあるだろう。部活が本当に大変で時間が取れないということもあろう。しかし、自分自身の全力は尽くしてほしい。一人だけ悩み、苦しい思いをすることは孤独な戦いである。しかし「孤独」や「葛藤」とは青春の大切な要素なのだ。青春は光と影がセットである。光は影であり、影は光なのだ。

昨日私に色々言われて、悔しい思いをした子もいるだろうが、厳しいことをあえて言うと、彼らの「悔しい」なんてまったく持続しないことを私は知っている。今日あたりは何もなかったようにケロッとしていた子も多いことだろう。正直、悔しいのは私の方だ。彼らの「悔しい度」より私の「悔しい度」の方が絶対に高い。話をしてから24時間以上経っているのに、私はずっと「悔しい」し、激おこぷんぷん丸だ。あんまり腹が立つので、今日は休みの日だというのに、しかも明後日は親父の四十九日で、その翌日から合宿だというのに、君達の教材を作るのに時間を費やし、こういう文章を書いてしまうくらいなのだ。教師の熱と生徒の熱の温度差があることほど悲しいものはない。

10日から中3の夏季合宿があって、それにはこの高2生も参加するのだが、二泊三日、ちょっと勉強時間を取ったことくらいで、勉強をやった気になってしまうのなら、何もいいことはない。このギリギリになって、彼の参加は無しにした方がいいのかと考えてしまうくらいのことだと私が思っていることを明日は彼らに率直に話してみよう。



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人間はバカをやっていないとバカになる

 昨日チラシが入って、本日より夏期講習会の受講予約受付開始。

普段ブログで偉そうなことを書いてはいても、塾なんて生徒が来ないとどうにもならない.

だから予約受付初日というのは毎回ドキドキする。

桜井校はすでに中1〜中3の本科生がキャンセル待ちの状態で、今年も小6だけの講習会実施となっていたのだが、それも電話受付開始時間より1時間で定員。

八木校も、まだ期末試験も始まっていない時期というのに、ありがたいことに早いペースで電話が入っている。

ホッとひと安心、と言いたいところだが、先週末からチラシの入った日曜日にかけてバタバタとしまくっていたので、心配している暇もなかったというのが実のところだった。

金曜日は、小5と小6の保護者会があって、それだけでも準備やら何やらで忙しいのに、同時並行で高2生達の「泊まり勉強会」につきあっていた。

畝傍高校の子達が試験範囲が広すぎて半端ないので、泊まり込んで勉強したいと言いだしたのが事の発端だった。

畝傍高校は今年から、試験スケジュールが変わって、年間の試験の回数が減り、つまりは一回の試験範囲が広くなった。

試験勉強の最後の詰めを「合宿」でやってしまおうということらしい。

3階の部屋は宿泊の設備が整っている。

私は前からこの「泊り勉強会」をそそのかしていたくらいなので、二つ返事でOK。

「食事は俺が作ってやるから思う存分勉強しろ」

というわけで初の「泊まり勉強会」。

金曜日、彼女達は学校から急いで帰宅し、荷物を整えて塾へやってきた。

私は3時頃からその日の夕食のカレー作り。


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Nikon D800 AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR


カレーを作って、米を炊いておき、食事をするように生徒達に指示を出して、私はエプロンを外して保護者会。

一日の仕事が終わって、3階へ戻り、勉強の様子を見ながら、翌日の米を炊く準備(笑)

「泊まり勉強会」に参加したのは5名だったが、5名の食事の準備をするとなると、まあ一日中食事のことを考えることになる。

ビッグダディの大変さがよく分かった。(世の「お母さん」の大変さもよくわかった)

そういえばあの方、食事のことは大変マメにやっているように思える。

他のことはともかくも、食事だけはと、その一点に関してはいいかげんにしないと決めているようにちがいない。(あまりよく見ているわけではないけれど)

彼は「食事」というものが家族にとって大切なものだと直感的に悟っているのかもしれない。

それはたぶん間違っていない。



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Nikon D800 AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR


「お前たちは勉強してろ 俺は飯を作ってやるから」

頑張っている連中に「頑張れ」と言う必要はない。

黙って食い物でも用意してやればいい。

なんかもう凄い適当なことを言うけれど、そういうのも教育。

(考えれば、親はそうしてくれているのに、子供ってのはその有り難さを分かっていない。子供諸君は親に感謝するように。)

全然、合理的でも効率的でもないけれど、これもプリミティブな教育のあり方にちがいない。



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Nikon D800 AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR


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Nikon D800 AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR


ある子が「先生の食事の準備する音が心地よくてかえって集中できました」と言っていた。

一日の仕事が終わった先生が次々に3階へ様子を見に来て、声をかけたり、質問を聞いたり、はたまた夕食の残りのカレーを食っていったりする。

そしてちょいちょいと生徒達と他愛もない話をする。

支えてもらっている安心感、応援してもらっている充足感はそのまま勉強へのモチベーションになっていく。

たしかに、生徒達はこの二泊三日、物凄く勉強していた。

休憩時間の間のアイスクリームを食べているときでさえ、ブツブツ言って暗記物を繰っていたり、問題の出し合いをしていたりした。

片時も勉強のことを忘れない。

メシと風呂以外の時間はずっと勉強をしていた。


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この子らを見た後で、中学生の勉強の様子を見ていると愕然としたくらいだ。(まあ当たり前だ。鍛えに鍛えたその先にこの子らはいるのだ。)

「なんか、全然勉強飽きなかったなあ。」

一人の子のその呟きは皆の共通のものだったろう。



塾なんてものは生徒が来ないとどうにもならない。

だから、いかにして生徒を増やすかということについて皆考える。

しかし、そのことに囚われすぎてしまうと、「無駄」を排し、世間受けすることばかりを考え、平べったくて、奥行きのない、とても「わかりやすいこと」ばかりをしてしまうようになる。

「わかりやすい」ということは、ある意味、単純でつまらなく、浅く、深みのないことであり、無難でエネルギーが低いということである。

それではいつのまにか自塾の教育が死んでしまう。

私が塾の広告によくある「洗練されたカリキュラム」だの「生徒を伸ばす指導システム(図解つき)」みたいなものが好きではないのは自戒の意味でもある。

「人間はバカをやっていないとバカになるんですよ」とはネットのどこかで見た言葉だが、なるほど卓見だ。

もちろん生徒にもたくさん来てはもらいたいが、何より自分達がバカにならないために、これからも心を柔軟にバカをやらねばと思う。