赤虎先生の塾を訪問 その2 〜飛び込み授業「日比谷高校英語解説」〜

10年以上ぶりの東京。
 
新幹線や電車やバスを乗り継いで赤虎先生の塾へたどり着く。(たどり着く前に三鷹の駅でそばを食った。駅のソバ屋は東京の方が美味い。ソバのつゆは東京式の黒くて濃い方が美味い)赤虎先生は、外見はドクターコトーの吉岡秀隆みたいな感じ。話し方もやはりドクターコトーがシャキッとした感じ。(声自体もそんな感じ。)ブログのイメージでは赤虎先生のイメージは厳しくて細やか。そしてユーモラス、そこへ毒気のフレーバーが少し、というところ。それがその通りかどうかを確かめたいと思った。
 
塾へ伺って先生とお話をしているときに、机の上に貼ってあったメモに気がついた。

                 返却   戻し
9/30 山田(仮名) ソク単CD  □    □

おおお、素晴しい。「返却」で☑チェックを入れるところまでなら分かる。なんと、ご自身が元ある場所にCDを戻したかどうかのチェック欄まで入っているのだ。私の周りにはこんな人はいなかった。これだけで赤虎先生がいかに細やかな方であるかということがわかる。塾の中をあちらこちらシゲシゲと観察させていただいたが、どこもかしこも先生の細やかさが垣間見える。こういうところは私はからきし駄目なものだから余計に素晴しく見える(笑)

先生はしきりにウチの塾は狭くて…と仰る。たしかに先生の塾は広くない。しかし一人の先生がやっている塾というのはこれくらいの方がよいのではないかと思った。たしかにスペースというのはあった方がよいに越したことはないのだろうが、隅々まで先生の思いが込められた空間を見ていると、それこそがよいのだと全てを肯定してしまいたくなる。

さて、私の授業は午後3:30からで、それまでは赤虎先生、そして、私の授業を見に来て下さった細川先生と三人で様々なことを話した。話の中には日比谷や国立の話も出てきて、やはり東京の塾にとって、日比谷を始めとする自校作成問題入試を行う学校の対策、そしてその合否はとても大切なことのようである。様々な塾が研究に研究を尽くした日比谷の問題を一発勝負で解説をするのである。緊張とワクワク感が同時に走る。

やがて生徒達が来始める。皆いい声で挨拶をする。初めて見る顔の私にもその挨拶は向けられる。挨拶というのはすればよいというものでもない。相手の顔を見て、できれば笑顔でするのがいい。先生の塾の生徒達は皆そういう挨拶をしてくれた。おまけに皆賢そう(笑)こういう子達相手に授業をして失敗ってことはないな、と少し安心をした。

つづく

 

言葉を削り、「ねらい」を絞る

授業がわかりにくいと言われている先生のほとんどは言葉が多すぎる、つまりしゃべりすぎているところに問題があると思う。

多くはこの二つのタイプだ。

自分の説明が生徒達にわかりにくかったらどうしようと思い、言葉を詰め込んでしまう。(キャリアの浅い先生に多い)

思いつくままに説明するので言葉がぶれ、それを修正しつつ話すので、次から次へとセンテンスが挿入されてわかりにくくなる。(ベテランと自分が授業が上手いと思っている人に多い)


多くの人は、詳しく丁寧に教えれば、わかりやすくなると思っているが、むしろ逆である。

言葉を吟味して、不必要な言葉を削りに削り、シナリオを練り、何度教えても、同じ言葉が出るようにした方が授業はずっと分かりやすくなる。

「えらいあっさりしとるな、この授業」と思われるくらいの授業の方が実は生徒にとって分かりやすい。

もちろん、いつもシナリオ通りというわけにもいかない。

授業は「ライブ」なので、そのときの生徒の理解の様子を掴み、即興で組み立てなおさなければならないときもある。

しかし、先生はまず言葉を削る訓練をしなければならない。

それが基本である。

言葉を制御することを覚えないといつまで経っても、分かりやすい授業はできるようにならない。

単元の導入しているときに、先生が30秒話し続けているなんていうのはもっての他。

勉強のできない子は先生の言葉をこぼし始めているはずだ。

一文をすっきりさせ、10秒以内に収めるくらいを目指すのがいい。



「はい、38ページの練習2、指で押さえて。」

「そこの1番、一緒に読むよ。 I like to play tennis.」

「この文をノートに写しなさい。」

「写した文の下に、この文の日本語訳を書いてもらいます。」

「訳は二つ書いてもらうよ。だからスペースはゆったり開けて。5行分取ろう。」

「一つは固い訳。もう一つは柔らかい訳。さっきやったね。はい、二つ書いて。」

「はい、固い訳の方、答言うよ。『私はテニスをすることを好む。』」

「柔らかい訳、『私はテニスをするのが好きです。』」

「はい、両方とも合った人(手を挙げて)?」




指示や作業をおりまぜながら、できるだけ、生徒達が「聞いているだけ」にならぬよう、テンポよくこのように進めていって、それでも「授業がわかりにくい」ということにはめったにない。

ただ、こんな授業だと「考える力がつかない」という人もいる。

しかし、授業には「ねらい」というものが存在する。

「理解させる」ことが「ねらい」なのか、「考えさせる」ことが「ねらい」なのか、それはその授業によって異なる。

「理解させる」ことも「考えさせる」こともごちゃまぜにして授業をしてしまうと、授業はわかりにくくなる可能性が高くなる。

「ねらい」はしぼった方が無難なのは言うまでもない。

このあたりを整理していない人の授業も分かりにくくなる場合が多い。(正直、これは塾の先生には多いのではないか。)

一部の生徒には受けがいいが、多くの生徒には不評という先生の授業にこんなのが多いように思う。

ちなみに、私はこういう授業は嫌いではないし、私自身、しないでもないが、よほどの腕の人でないかぎり、手を出さない方がよいと思う。

「考えさせる力」を身につけさせたいなら、そういう「ねらい」に絞った授業をまた別の機会にすればいい。

それで生徒の学力は十分伸ばせるのである。


R1001385
GXR+GR Lens A12 50mm F2.5 Macro



レコーダー購入

自分の授業をビデオで録画して振り返るのは教師修業として絶対にやっておきたいものの一つであるが、音声だけを記録するして聞きなおすのも大切なことだ。

映像があると色んなものに意識がいってしまう。声が不明確であったり、話がわかりやすいとかわかりにくいとかは音声だけの方が確認がしやすい。また音声だけだとクルマの運転をしながらでも確認ができるので非常に便利だ。

SORAができて以降、音声のチェックはしていなかったし、セミナーもあるので、これを期にICレコーダーを購入した。


R0012201
GR Digital

ビデオや録音はライブの授業より数段落ちる。ビデオで授業を見て、この人授業上手いなという場合、それはかなり上手で、自分と同じくらいかと思うときでも、それはそう思った人より大抵上である。映像授業などを見るときにはそういうことをふまえて見なければならない。

映像や音声での記録は「生」よりも劣るのだから、ビデオや録音で授業を残すときは、せめて出来る限り高品質の画や音で残すべきだと思っている。それで、ちょっとしっかりした機材を買った。しっかりした機材といっても携帯電話よりも二周りほど大きいだけのものである。技術の進歩は凄い。

ひょいと教室へ持っていき、スイッチ一つでSDカードに高音質で授業が記録できる。手軽さというのはかなりのアドバンテージだ。(手軽な機材はいくらでもあるが、教室の空気の感じをできるだけ記録したい。だからステレオだし、24ビットなのである。)

高性能、高音質ということはつまりこのレコーダーは音楽用なのである。当然色々試してしまうわけである。

これでギターの音を録ると非常にいい音なのだ。びっくりした。こんな簡単にこんな音が録れてもよいのか?しかも録音した音源に音が重ねられる。そしてさらにリバーブのかけ録りができる。おおおお、凄い!

で、あれこれいじくり回して今朝自宅の和室に篭って録ったのがこれ。→「サイモンとガーファンクル来日記念」。(一番高音質で録りましたので、読み込むのに時間がかかると思います。)

ギターを弾きながら歌って、その後、もう一声重ねて録った。アートガーファンクルぽく歌おうとして上手くいかなかったし、あんまりハモれていないし、起きぬけだったし(笑)もうちょっと練習してから録った方が上手かったと思うが、それでもよくなって一割り増しくらいだろう。こんなもんだ。(いや、機材に慣れたらもっといけるか。)




ここまでお読みいただいた方のほとんどが、結局こっちが目的なのだろうというところに落ち着いたところで筆を置くことにする。


大切な場所

畝傍高校の近く、交差点を越えたところに「ファミリーマート」がある。今から10年程前のこと。その年の入試、自分の受け持った生徒の中でたった一人だけ畝傍高校を合格させることができなかった子がいた。周りの子は皆合格だったのにその子一人が不合格。その子は泣きじゃくっていた。私にもう少し力があれば、その子を合格させられたかも…そう思うと、その子に申し訳ない気持ちでいっぱいになり、私もボロボロ涙が出てきた。もちろん言葉でいくら慰めてどうにもなるものではないが、それでも何とか「それから先」をしっかりとした歩みで進んでもらいたくて何とか言葉を紡いだ。大の大人が泣きながら話をした場所、それが「ファミリーマート」の前だったのである。(なぜ校内ではなく、その場所だったかはちょっと記憶がとんでいて覚えていない。)教え子の不合格に涙したことはそのときだけではないが、そのときのその子の表情、周りの光景、空気の温度やら何やらが強く記憶に残っていて、自分にとっては「特別」になっている。大の大人が涙を流したその場所は、時を経て「生徒達の学力を絶対に伸ばす」という思いを新たにし、自分の心の中に湧く「怠惰」を吹き飛ばしてくれる「大切な場所」となった。車でその前を通る度に「感情」が湧き上がってくる。教え子を合格させた「喜び」や不合格にさせてしまった「痛み」。これらはこの仕事をしていく上での気持ちのあり方の「原点」であるように思う。「原点」は何より大切にしたい。進学塾SORAを畝傍高校の近くに作ったのはそんな理由も少しある。今年も明日から「発表」が始まる。

存在価値が問われる夏

昨日遅くの日記で中3の「不定詞」のテストの出来の悪さを書き、彼らの勉強の足りなさとその姿勢の未熟さを嘆いた。

そういうことを書き連ねる指導者側も己の未熟さを世間様に大いに晒しているのであるが、生徒の未熟さは指導者の未熟さであり、私は自分自身の未熟さをあえて晒したつもりである。これはこの子らを必ずできるようにしてやるという私自身の不退転の決意の表明である。

おそらくこの中3は一筋縄ではいかないと思う。決して悪くはないが、よくもない。「飛躍」することが難しい中途半端な姿勢しか現段階では持ち合わせていない。こういうのが一番難しいともいえる。

過度のノルマで追うと、勉強に対する「覚悟」ができていないので、きっと手抜きが始まる。その量は慎重に決めていかねばならない。「自主性」には今のところとてもではないが任せられない。「どこの高校にも行けないぞ」などという著しく知性に欠けた「脅し」は言いたくはないが、そう言いたくなる子もいて、目眩がしそうになる。

今日、どういう姿勢(位)で構え、彼らの前に立つか。何を彼らに言うか。そして何をどう教えるか。この夏の道筋を示し、彼らが熱のこもった勉強をできるように精一杯のものを提示したいが、果たしてそれができるだろうか。

勉強は所詮本人のやる気次第である。とは言うものの、その「やる気」の種火を大きくする手助けができなければ、私の存在価値はない。自分自身の存在価値が問われる夏になりそうだ。



まなみ先生に授業をさせてみた

昨日、中1の社会の授業でまなみ先生に授業をさせてみた。

さすがに勉強がよくできた子だけあって、ポイントを押さえるのが上手い。

「教えなければいけないこと」の把握がしっかりしていて、よく気がつくのである。

生徒のテキストの線が引いてあるところやマーカーが入れてあるところを見ると、いいセンを突いていると思う。

慣れていないので、授業での「話し方」はもっともっと上達しなければならないが、これはあっという間に解決するだろう。

元々、まゆみ先生とまなみ先生は補習が必要な生徒の個別指導等に当たらせるために雇ったのであるが、やはり授業も少しはさせた方が成長が早い。

スタッフが多いと塾の活気が違ってくる。

ベテランとフレッシュな若いパワーの二本立てで、生徒達の学力を伸ばしていきたいと思う。

生徒を伸ばすのも生きがいだが、若い先生を伸ばすのも私の人生の大事な要素だ。

私はたいへん盛り上がっているのである。




『教育技術』について

赤虎塾長先生のブログで取り上げていただいた。

私はこういう『教育技術』に関して考えること、そしてそれを磨き上げることが大好きだ。「指導者の責任」として修行しているというより、それを磨くのが好きだからやっているという部分の方が大きいと思う。好きなのでいくら研究しても、修行しても苦にならないというのは、有難いことだと思っている。

「教務力」というのは、教師が持っている「学力」とイコールではない。自分が「分かっていること」を伝達し、理解させ、身につけさせるには、「学力」とは別のスキルが必要だ。「知っていること」と「教えること」は別のことなのである。

赤虎塾長先生のこのブログと、その3つ後の『授業の基本と「行動提起」』なんて読ませていただくと、先生が「教育技術」に関して勉強をし、尚且つ私と同種でそういうことを考えていくことがお好きなのではないかと推察してしまう。もうタイトルからしてそれっぽい。

こういう日記を読ませていただくと同志を得たようで、何だかとても嬉しい。私ももっともっとこういう日記を書いていきたい。

ところで、あまりに私と狙うところが一致するのですが、先生のルーツは何ですか?向山洋一氏あたりの著書などを貪るように読破されたということはありませんか?(笑)

これからもよろしくお願いします。

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