けっしてバイクの話ではない

BMW K1300シリーズは通常のバイクと違い、フロントフォークにテレスコピックサスペンションを採用していないため、コーナー進入時にフロントブレーキをかけてもサスペンションが縮まない。そのためテレスコピックサスペンションのバイクから乗り換えた場合にそこが大きな違和感となるのだが、一方で車体の姿勢変化が少ないため、どのような体勢からでも車体を曲げることができる。そういうK1300の特性が理解できると、扱いにくいと感じた車体が自分の意のままに扱えるフレンドリーなものになるのである。

また、K1300シリーズは直列四気筒のエンジンを前傾して搭載しているため、通常のマルチエンジンのバイクよりも重心が格段に低い。独自のテレレバーシステムサスは、この低重心を実現するためにも不可欠であったとも言える。(通常のサスシステムではこれほどまでに前傾してエンジンを搭載することは不可能だからだ。)


DP3M0099.JPG


バイク好きでない方は上記の文章を一読して、内容をすっと頭に入れ、理解することができるだろうか。バイク好きな方でもBMWのバイクに詳しくない方だと少し理解しにくいかもしれない。
上記の文章は「テレスコピックサスペンション」の意味や、なぜフロントブレーキをかけたときにフロントサスペンションが沈まないと違和感になるのかということ、なぜフロントエンジンを前傾させると重心が下がるのか、ということが分かっていないと、文章の内容を理解することは難しい。

文章というのは「語彙」と、読み手に期待された「共通認識」の上に成り立っているので、それらが足りない分だけ、文章を理解することはできなくなる。いくら解法のテクニックを学んでも「語彙」と読み手に期待されている「共通認識」を持てていない状態ではなかなか点数は上がっていかない。たくさんの文章を読み、様々な「語彙」や、前提とされた「共通認識」を大量に体の中にくぐらせないと「読む力」はつかないのである。

 


 

アオイソラノノート

以前勤めていた塾での最後の教え子だったTさんは奈良高校から現役で京都大学に進学し、この春から美味いウイスキーを作る会社で働いている。

先日、そんなTさんにSORAに訪問してくれた。高3生達に、公立高校からいかに受験に勝っていくかという話をしてもらうために来てもらったのだ。このノートはそのとき彼女が見せてくれたもの。受験直前の勉強計画ノートである。

このノートがあまりにも素晴らしかったので、私はどうしてもと頼み込んで、無期限でTさんから貸してもらった。

image


ノートの中身はここに載せるわけにはいかないのだけれど、ノートには毎日の自分がやらないといけないことや、やったこと、弱気になった自分への激や戒めの言葉などがたくさんたくさん、力強い字で、なかば書き殴るように綴られてあった。彼女がどれだけ真剣に受験勉強をやってきたかがどのページからも伝わってくる、そんな「オーラ」を発しているノートである。

指導者の言葉を真剣に受けとめ、行動に移し、それを続けることができる生徒というのは間違いなく強い。そういう子は指導者が5言った言葉を真剣に受けとめ、自らで考え、10にして吸収していく。伸びない子ほど、どこかに良いものはないかいなと、あれやこれやと色んなところに目移りしていたり、探し求めているくせに、誰の言葉も真正面には聞いていなかったりするものである。

そういう子は「芯」ができていないので、いつまでたっても「行動」に移れないし、動けたとしても継続がなかなかできない。「芯」を作るには「信」が必要なのだと思う。きっとTさんは巡り会ってきた多くの先生に「信」を置き、「芯」を育て、努力を継続してきたのだろう。(もちろん「信」は自分自身においてもいい。自分自身の夢や目標に「信」をおくならば努力はできるだろう)

Tさんのノートを何冊か見せてもらったが、写真のような「空」のデザインのノートが何冊もあった。彼女がそっと教えてくれた。私の作った塾が「SORA」というので、ずっとそういうデザインのノートを見つけてはこういうノートに使ってくれたというのだ。このノートの最後のページにも私の名前が書いてあった。なんという子だろう。私が彼女を教えたのは中学2年の一年間だけなのである。

誠に先生冥利に尽きる話だが、これは私が素晴らしい先生だということを示すエピソードではない。Tさんが素晴らしい生徒だったということを示すエピソードなのである。






 

覚えずにはいられない

 英単語を覚えるというのはなかなか面倒くさい。とかく逃げ腰になってしまいがち。しかし単語だけは覚えないとどうにもならない。「考える力」がいくら大切といっても、勉強の多くの部分はやはり「暗記」。わかりやすい授業を受けて、いくらたくさん「分かった」って、「できる」ようになることを目指していなければ力はつかない。

英単語というのは、やっていくうちに覚えやすくなる。英単語は最初の100の方が、1200語から1300語よりも難しい。やっていくうちに脳の中に「回路」ができて、覚えやすくなるのだろう。単語が一つも頭の中に入ってこないような、最初の苦しさはいつまでも続くわけではない。

ただ、生徒達を見ていると、単語がスムーズに入っていくようになっていった子らは、体質が変わって、覚えやすくなったというより、(まずは)覚えずにはいられない性質になってしまったという子が多いと思う。そこが暗記を苦にしなくなる第一歩なのだと思う。

まじめに単語学習に取り組むうち、「ああっ、3点落とした!あいつは満点とってやがる。ちくしょう。」くらいから始まって、電車に乗っているときも「あれ?declareって何だったっけ?あ、くそ。思い出せん!」などと考えたりするようになる。こうなってくるとしめたもので、こういうモードに入った子は勉強が進みやすくなる。


1375696876566
(だんだんそういうモードに入ってきたか?)



1375696905087
(計算用紙をビリビリと破り、簡易カードを作成してどうしても覚えられない単語を覚えにかかる高校生。いつの間にかゲーム化してる。)


単語は絶対忘れるので、忘れてしまうことにイライラする必要はない。一回しっかり覚えて、そのあとしっかり忘れて、また覚える。そのうちかっちりと入るようになる。忘れと覚えを繰り返しながら、暗記は進む。気にせずどんどん進めていくのがいい。

とにかく毎日単語学習の時間を取って、やり始めることだ。



『厳しい塾』の理由

 「厳しい塾の理由」というタイトルでブログを書きかけていたが、私が尊敬してやまない猫ギター先生が書かれたこの文章を目にしてしまい、書くのを途中でやめてしまった。この文章以上の文章は書けないと思ったからだ。「私以上に私の言いたいことが書いてある!」そんなことを思わせるのは力のある書き手にしかできないことだと思う。

先生の文章を全文引用させていただく。

アウトレイジ塾』(それにしても凄いタイトル)

いまどき厳しい塾がある。
個人塾に多い。
 
塾長が厳しくキャラが立っており、塾の外からも塾長が子供を叱る声が聞こえ、拘束時間が長く、猛特訓合宿まである。そんな塾は高度経済成長期の化石扱いされ、「魔王」「スパルタ塾」「ヨットスクール」「平成の人足寄場」「アウトレイジ塾」などと揶揄され、親は「勉強しないと○○塾に入れます」と子供を脅す。
 
では、塾長は何を理由に、子供を厳しく叱っているのだろうか?
塾長は塾生に対して、とてつもなく高いものを要求しているのだろうか?
 
塾長が子供を叱る理由は、当たり前のことが守られていないからである。叱る内容はたいてい、勉強の出来不出来ではなく、ささいな「勉強姿勢」によるものだ。
 
例に挙げると
「宿題をやってこない」
「宿題の解答を写す」
「忘れ物をする」
「挨拶をしない」
「カンニングする」
「遅刻をしても『遅れてすいません』の一言がない」
「無断で欠席・遅刻をする」
「学校でいま習っている内容が答えられない」
「定期試験の点数を忘れる」
「姿勢が悪い」
「反応が鈍い」
「目が死んでいる」
「背筋が伸びていない」
「机にひじをつく」
「授業中講師の方に目を向けていない」
「忘れ物が激しい」
「授業中当てられた時の声が小さい」
「指示されたノート作りをしない」
「計算の途中の式を書かない」
「文字が小さい」
「文字が汚い」
「文字が薄い」
「鉛筆を削っていない」
「赤で書くところを青で書いている」
「同じミスを繰り返す」
「3日前に教えたことをもう忘れている」・・・
 
これを読んだ人は、「それなら怒るのは仕方ない」という意見と、「細かいことにうるさくしないで、もっと大らかな気持ちで子供を見守ってあげたら」という意見に分かれるだろう。「子供だから仕方ない。いつか直るさ」という反論も生まれると思う。
 
たしかに上に羅列した欠点は、大人になったら大部分は自然消滅する。子供は「育てる」のではなく「育つ」ものなのだから、少々のことは見守ってやれという考えも納得できないことはない。
 
ただ、小さい頃から勉強姿勢が完成されている子がいることを忘れてはならない。そんな子は小さい時から正しい勉強姿勢で、眼を光らせ前を向きながら真正面から先生の話を吸収し、成長するに従って知識を加速度的に増やし、頭の芯から勉強を理解している。
一般に、教師は学習姿勢が素晴らしい子をかわいがるのは否定しがたい。話を聞かない人間より、聞く人間の方に好感を持つのは当然のことだ。教師から好意を持たれた子と、疎まれた子では、ますます学力に差がつく。
 
勉強姿勢が未熟な子が、やっと大人になって自分のまずさに気づいた時には、知識の貯蓄量は圧倒的な差がついている。先生から疎まれて大人不信にもなる。勉強姿勢を身につけるのは一刻も早いほうがいい。だから良心的な教師は子供に口うるさい。
勉強姿勢が悪い子は塾に来る前、人の話を聞く姿勢や、挨拶をする習慣が身についていなくても、親や学校から欠点をスルーされている。子供に嫌われたらいけないという、気の弱さがそうさせるのだろうか。
厳しい環境に身を置くチャンスがなく、悪い点を大人に指摘されずに生きていた子供は、知識を吸収できずに学力面で痛い目にあうどころか、就活でも相手にされない。学校や塾では姿勢の悪い子を怒って注意するが、企業は笑って避けるのである。
運良く就職できたとしても、勉強姿勢が出来てない子は、仕事に対する熱意と丁寧さに欠け、挨拶ができず笑顔がなく感じが悪いので、上司や取引先から嫌がられ、他の同僚より厳しく怒られる。
家庭や学校から無菌室で純粋培養され叱られた経験がなく、欠点を残したまま社会に出た子は、大人になって自分の至らなさで仕事ができないことを棚に上げ、怒った人間を恨むようになる。そうなると会社の厄介者として自分から職場を去るか、上司から引導を渡されるか、いずれにせよ社会人失格である。
欠点を矯正されないまま育った子供は「裸の王様」ならぬ「裸のお子様」として大恥をかく。子供の時は王族のようにちやほやされて、大人になったら厳しい一般社会に放り出され、子供時代の「ぬるさ」と社会に出てからの「冷たさ」のギャップにもだえ苦しむのだ。
 
厳しい塾は、子供に免疫をつけるため存在する。
大人社会の「リハーサル」を教育現場で行ってくれる、いまどき珍しく有難い存在だと思えばいい。
教師が細かい注意を怠り、いい加減な教え方をしていたらいい加減な人間しか作れない。形から入らなければ学力が伸びない。子供の細かい欠点を「見守る」ことは「見捨てる」ことでもある。塾は成績を上げるのが仕事であり、細かい腐食した部分が、子供の学力をシロアリのように蝕んでいるのを見過ごすわけにはいかない。
 
芸術でも音楽でも、細部にこだわる作品は支持される。たとえば山下達郎はレコーディングに多大な時間を使い、音の一つ一つにこだわるが、彼の音楽は時代の風化に耐え、老若男女問わず日常的に聴かれている。
また、宮崎駿アニメの大きな世界観は、細部の執拗な書き込みによって生まれる。宮崎駿が子供に支持されるのは、手抜きが一切ない映像だからである。子供こそ大人の手抜きを見破る。
 
とにかく、学力を伸ばすには細部がすべてである。子供の何気ない所作には、勉強が苦手な理由が詰め込まれている。慧眼な教師なら、子供の姿勢と物腰と眼力をチラと観察しただけで、勉強が得意か苦手か読み取ることができるのだ。
 
細かいことに気づいたら腹に溜めないで瞬時に直す。ただそれだけのことである。


いまどき厳しい塾がある。

一方、「ぬるさ」を「温かさ」のように示し、「甘さ」を「優しさ」のように示す塾もある。授業時間も短く、部活動との両立もしやすく、先生も口うるさくなく、厳しく言わない。そんな塾の方が流行ったりする現実もある。

それでも、厳しい塾をやっているのには理由がある。

それこそが、私達の「存在理由(レゾンデートル)」であるからだ。




DSC_1455.JPG









保護と過保護

 「保護」と「過保護」の線引きは難しい。

しかし保護と過保護の線引きができていないと、「過保護」を恐れる親はおっかなびっくりになり、どのように子供に接するべきかがわからなくなってしまう。

よい子育てを行うためにも、親が悩み、ストレスをためないためにも、「保護」とは何か、「過保護」とは何かということを理解しておいた方がよい。

「保護」というのは、簡単にいうと、「守り、与えること」である。

「守る」とは何を守ることをいうのか。

それは子供の「尊厳」と「生命」である。

「与える」とは何を与えることか。

それは「衣・食・住」「子どもにとって必要なもの」「子供が欲しているもの」を与えることである。

全力で子供の尊厳と命を守り、衣食住を整え、子供が生きていく上で必要なものと、彼が欲するものを与えることが「保護」なのである。

この中で一番大切なのは「子供が欲したものを与える」ことかもしれないと私は考えている。

子供に与えるものをすべてコントロールしたがる「教育熱心」な親がいるが、実はその姿勢は間違っている。

大人からみたら、しょうもない、何の値打ちのないものでも、子供にとっては宝物というものがある。

それを大人の価値観ですべて否定してはならない。

ちなみに「子供が欲したもの」とは「物質的なもの」だけではなく、「精神的なもの(愛情)」も含む。

親は、子供が欲した物質的なものや、愛情をしっかりと与えてやらねばならない。



さて、上記の内容が「保護」とするならば、「過保護」とは何か。

「過保護」とは「子供が欲した、モノや愛情」を、全部与えてしまうことだ。

この一点につきる。

たとえば、母親が家事に忙しくしているときに、小さな子どもが「遊んで〜」とニコニコやって来る。

お母さまが「今、ご用事をしているからひとりで遊んでてね。」と言うと、子どもが泣いてしまった。

子育ての中でよくあることだ。

こんなとき、真面目な母親は、「ああ、子どもにかまってあげられない」と自己嫌悪するが、このようなときに全部愛情を与えてしまうと、それは「過保護」なのだ。

時に我慢をさせ、辛抱をさせることは子どもをしっかり成長させるためには大切なことなのである。

だから母親はこのようなときに自己嫌悪する必要はない。

それはまったく正しい子育てだからだ。

大切なのは、どこまで与え、どこから与えないか。

その線引きがその家の「家庭の方針」ということになる。

この線引きが各家庭できちんと決められているということが大切なのだ。

この線引きは難しい。

しかし、それをしっかり考えていくことが、子供をまっすぐ育てる道なのだと思う。




これから ここから

今年入った中1生達は、素質や何かはいい線いっているのだけれど、勉強のお作法や何かの点で、できていないことが多すぎる、と今のところ私は思っている。

たとえば、今年の中1生の中には、人の話やこちらの指示をきちんと聞いていない子が少なくない。(特に男子)

だから、先生が指示を出したとき、聞いておらず、「えっ」と口に出すようなことがものすごく多くなる。

私はこれが大嫌いで、そんな子は「授業中、『え』と言ってはいけません」と厳しく言われることになる。

人の話を聞く姿勢ができておらず、聞き逃したときに、「えっ」と言うだけで、相手に言い直してもらおうとする緊張感のない姿勢というのはとても甘ったれているものだと言える。

今まで、彼らは、親や学校の先生に甘えたまま、それでよいのだと思ったまま、ここまで来てしまったのだ。

このような姿勢は、学力を伸ばすのに、あるいは人間的に成長するのに、大きな壁となる。

たくさん問題を解かせたり、課題をやらせたりすることも大切ではあるが、こういう「小さなところ」こそをきちんと厳しく指導しておきたい。

課題を大量に押しつけたり、先生が恐怖で生徒を抑えこんだとしても、意識の低い生徒はどうにかして手を抜こうとする。(手を抜こうとすることにだけはけっして手を抜かない)

いくら細やかに指導者がノートをチェックしたりしても、手を抜くことなどいくらでもできる。

だから、意識の向上無しに学力が上がることはない。

意識の向上をさせるには、その「小さなところ」をきちんとさせることがその第一歩だというのが私達の考えである。

やる気があるから行動ができるのではなく、正しい行動を淡々と積み重ねていけば、気持ちは育っていく。

「気持ち」を変えていくのは「行動」なのだ。

まだまだ未熟な中1生達だが、彼らはまだまだこれからだ。

「小さなところ」を大切にして、 これから ここから 大きく成長してほしい。





成長は突然訪れる

多くの中学校で期末試験が始まっている。

塾ではずっと期末試験の対策の授業や勉強会を行っていたので、生徒達の勉強の様子を見る機会が普段よりずっと増える。

中1の子らの勉強の様子を見ていると、学力を伸ばすのに時間がかかりそうだなという子が今年は多い。

勉強中のその子のささいな動きや、対応からそういうことが見えてくるのである。

たとえば、ノートを見ていて、その子の間違いに気づき、「ここ違うよ」と、とんとんと指を差す。

そういうときに消しゴムを持って、その答えをバッと消してしまおうとする。

そういう子がなかなか今年は減らない。

もちろん毎年、「間違いを消しゴムで消してはいけません」と口酸っぱく言うのであるが、例年に比べて、なかなかこれを「撲滅」できないのだ。

ほとんどが男子だ。

間違いを指摘され、なぜ間違ったのかを確認もせず、すぐに消そうとするのは、「間違い」をなかったことにしたいという意識がそうさせている。

こういう癖のある子は、伸ばすのに本当に時間がかかる。

間違いを見つめる習慣がついていないからである。

間違いを見つめる習慣がついていない子は、問題をじっくり読む習慣も、分かろうとじっくり考える習慣もついていないと考えていい。

そして、そういうことを先生に何度も指摘され、注意されているにもかかわらず、なかなか直せないというのは、先生の指導をストンと受け入れる癖がついていないということで、これまた伸びることへの阻害要因となる。

つまりダブルで問題なのである。

学力を伸ばすには勉強時間をしっかり確保することは大切であるが、勉強時間の確保よりも大切なことは実はたくさんある。

いいかげんな「型」を身につけたまま、稽古を増やせば、いいかげんなものが染みついてしまい、修正するのに大変時間がかかる。

焦りは禁物だが、このままにしていたら大変なことになるのは言うまでもない。

いいかげんなことを見逃さず、厳しく指導をし続けなければならない。

実は今の中3も一つ先輩の学年に比べると、かなり問題があったが、彼らは大きく成長した。(未熟なところもまだまだあるが)

成長は突然訪れる。

その時を信じて、粘り強く指導をするのが私達の仕事なのだ。