赤虎先生の塾を訪問 その1 〜飛び込み授業「日比谷高校英語解説」〜

10月13、14日の連休を利用して赤虎先生の塾を訪問させていただいた。

赤虎先生は私よりずいぶんお若いが、日々、ツイッターやブログを拝読させていただいて感じる、その知識の量や、仕事への情熱、造詣の深さ、言葉の鋭さには圧倒されるばかりで、日本でも有数の力量をお持ちの塾講師だと心から尊敬している。かねてより赤虎先生の塾をぜひ拝見させていただきたいと思っており、スケジュールの調整もつけられそうだったので、赤虎先生にお電話で見学のお願いをした。先生は快諾くださり、おまけに先生の生徒さんに授業までさせていただけることになった。

授業に関しては赤虎先生の方から依頼されたのであるが、人の塾を見学させていただいて、授業をしてほしいという依頼を受けたならば、断ったりしてはいけない。もちろん「やります」と即答した。(ちょっとやりたいという思いもあった。自分で授業をした方が赤虎先生の生徒のことがよくわかるからだ。)

先生から、どのような授業をされますか、と尋ねられたとき、私は何も考えず、「日比谷高校の自校作成の問題でもやりましょうか」なんて軽く言ってしまった。(よい問題だとは聞いていたし、想像もついてはいたが)日比谷高校の問題なんて見たこともないくせに言っちゃったのである。数日後、授業の準備をしようと、日比谷高校のHPで問題を確認して吃驚仰天。なんと素晴らしい!そして、なんと大変な問題であろうか。考えもせず、日比谷高校の問題を、と言った自分に眩暈を覚えた。しかし、これだけの問題の解説を飛び込み授業でやれる、しかも赤虎先生の前でできるという機会など、めったにあるわけではない。気合が入ろうというものだ。

人間は生まれたその時から「死」に向かって進行している。肉体的にもそうだし、肉体がそうであるならば、精神もまたしかりである。人の精神は日々死に向かっている。だからこそ外部から刺激を受け、肉体がそうであるように、精神もまた、生き続けるための努力をしなければならない。肉体が栄養を補給するために飯を食らうように、精神もまたガツガツと日々何かを食らい続けなければならない。毎日、新しい自分への挑戦をし続けながら、精神の死を防がなければならない。つまりは、この赤虎先生の塾を見学すること、そして飛び込み授業を行うことは自分にとって、精神の特別料理、新しい自分への挑戦=精神が生き続けるための努力、なのである(えらく大層)

ちなみに私はこの日比谷高校の問題、このH25年度の問題きりしか見ていない。他年度の問題も、他の自校作成の問題も一切見ていない。様々な情報を集めることの大切さは分かっているつもりであるが、私は、このH25年度の問題に向き合い、それだけを分析して解説することにした。そして赤虎先生にもその旨申し上げた。たった一年分の入試から私が何を捉え、授業ができるか。そういう勝負を、あの都立自校作成問題に徹底的に取り組んでこられた赤虎先生の前で、しかも先生の生徒相手にするのである。

平成25年度日比谷高校自校作成問題は本当に素晴しい。(日比谷高校のHPから見ることができる)読み進めながら、解きながら、よくぞここまでと驚き、作成された先生に敬意を払わずにはいられない問題であった。共通問題を除く2番以降を40分で解かなければならないというその量の多さに圧倒されるが、そこに気をとられて、この問題の中にある大切なことを見逃してはいけない。ここを逃してしまっている塾の先生はきっと多いにちがいない。「それ」は分かる人にしか分からぬよう潜ませてある。さっと目を通し、一回解いただけでは、私も最初は「それ」に気づかなかった。しかしながら、きちんと解答を作成しようとすると、そこに気づかないと答えが作れないのである。

その証拠に、というわけではないが、日比谷高校の英語の問題は、自身で英文作成を必要とする「半」自由作文形式の問題がやたらと多いのだが、これらが軒並み「省略」となっているだから模範解答は「省略」だらけなのだ。出版社が出す過去問集には解答例が載っているかもしれないが、日比谷高校オフィシャルでは「省略」なのである。これには大きな意味がある(と私は睨んでいる。)この「省略」は思想なのである。日比谷高校が採りたい生徒を採るためには、模範解答例は出すわけにはいかないだろう。私がこの問題を仮に作ったとして、私なら絶対に模範解答例は出さない。そんなことをしたら台無しになってしまう。この入試、試されているのは生徒ではない。生徒達を教えている先生なのである
 
東京へ行く準備の段階から、もうえらいこと学びが始まってしまったのだった。

(つづく)





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  iPhone    行きの新幹線から撮った富士山。こんなに綺麗な富士山を見たのは初めて。

 

 
 

勉強ができるようになるための小さな訓練

ジャズを聴くとき、ジャズ好きはプレーヤーが次にフレーズやコードをどう持っていくか、無意識の内に予測をしながら聴く。あまりにも当たり前で、予想通りの演奏をされてしまうと、それを退屈な演奏と感じるし、いい形で予想を裏切られると、「名演奏」だと唸る。

勉強ができる子というのは、先生の話を聞くとき、常に話がどう進んでいくのかを予測しながら聞いているものである。話を聞きながら、話の先の予測を立て、先生が何かを問うたなら、無意識の内にその「答え」を考えている。ぼうっとしていても、頭のどこかで無意識の内に「答え」を探していたりする。勉強のできる子は先の見えにくい話をされるのを嫌がるが、そういうのは下手糞なジャズを聴かされているのに似ているのかもしれない。

勉強ができない子というのは、それとは逆に「話」に反応できていないことが多い。話の進む方向を予測しながら聞いてないので、大切なことが出てきても「センサー」が反応せず、「聞いているが聞いていない」状態になってしまっている。

『leave Tokyo は「東京を出発する」、leave for Osakaは「大阪へ向かってどこかを出発する」っていう意味。じゃあ、leave Tokyo for Osakaだとどういう意味になりますか?」

こういうのは知識を問うている発問ではない。別にleave A for B だなんて知らなくても、先に述べたような聞き方ができていれば答えられる。しかし、勉強ができない子、成績は悪くないけれど、伸び悩む子の中には、「わかりません」と即答してしまう子がいるのである。人の話を聞くとき、あるいは授業を聞いているとき、情報を「処理」をしながら聞けない(聞かない)ままだと、いくら勉強時間を増やしても、伸びていくのは難しい。

これは「能力」の問題というよりも、脳の使い方の「習慣」の問題である。先を読み、予測を立てる「習慣」を身につけていけば、覚える力や理解する力は大幅に伸ばすことができる。そういった意味で、頭はよくすることができるのだ。

『itが「それ」なんだから、「それら」っていうのはitsかな?えっ、ちがうの!theyっていうのかあ。へー。』

どの子にもこういう話の聞き方や、あるいは本の読み方、問題の解き方をしてほしい。もちろん、先生は話し方や説明の仕方を工夫するべきだが、先生がその工夫をするだけでそのような力がついていくかというとそれはかなり難しい。生徒達自身もそういう聞き方ができるようになる訓練や努力を自らやろうとしなければならない。「先生がさあ、楽しく面白く、興味を持てるように授業をしてくれれば俺だって勉強ができるのに」なんて言っている子は多分勉強ができるようにはならない。

では、習慣を変えるためにどこから努力すればよいか。極めてシンプルな方法がひとつある。それは授業中、先生の話が分かったら、フンフンと頷き、わからない、わかりにくいと思ったら眉間にシワを寄せ、首を捻るのである。勉強ができる子というのは授業中、必ず体が「反応」している。分かった瞬間に、大きく息を吸ったり、指先が動いたり、目が大きくなったりしているものなのである。意識が体に表出するならば、身体を動かして、意識を変えていけばいい。

頷いたり、首を捻ったりするためには、「自分が今、この説明を理解できたかどうか」ということを常に自分自身に問いかけ、確認しなければならない。授業を受けるときの集中力が増すことは言うまでもない。最初は意識してやっていても、ずっとそうしていればそれが段々と習慣になり、やがて意識せずともできるようになる。「勉強ができる子」と同じように。




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間違えたところをすぐに消しゴムで消してしまう子は伸びない

 授業中、問題を解かせているときに、間違いを見つけて、「ここ違うよ」という意味で、ノートをトントンと指で叩く。

すると、その部分をじっと見つめる子と、即座にその部分を消しゴムで消してしまう子がいる。

両者に内在する能力の差はとてつもなく大きい。

自分が間違えたという事実をなかったことにしたいという衝動で動いてしまう子は学力が伸びない。

先生はこういう場面を見かけたら、きちんと指導しなければならない。

言ってすぐはもちろん直らない。

こういうクセを消すには普通半年から一年かかる。(もっとかかる子、そして直らない子もいる)

こういう指導は実は「よく分かる授業」の何倍も大切なことなのだ。



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受験前の傾向対策

 受験直前の「傾向対策」というのにシャカリキになる塾も少なくないが、こういうのも程度の問題で、あまり「傾向、傾向」と言い過ぎる指導というのは正直よくないと私は思っている。

SORAでは「傾向対策」をやらないではないが、私立高校の場合、世間で言うほど、傾向対策が重要だとは私個人は思っていない。(対策をやりまくらないといけないほどの変な問題を出す高校はない。)

生徒や親を塾に頼らせておくためとか、対策講座をやって別料金を取れるからやっているというところも多いのではないかと思う。

何より、あまりに指導者が「傾向対策」に熱心になるのは弊害も多いのだ。

傾向対策の指導を受けた生徒達は「ああいう問題が出るはず」を予測をし、それを待つ。

これが過度になると、そこに「居着いて」しまい、囚われてしまう。

もし、自分が予測し、頭に描いた問題と実際の問題の「印象」がズレると、脳が混乱して焦ることになる。

実際には傾向が変わっていないのにもかかわらず、こういうことが起こってしまう。

(指導者側にしたら、こんなの全然傾向変わってないだろうという問題でも、生徒達が「傾向が変わった」とやたら騒いでいたというのを目にしたことがある先生もおられることでしょう。)

「傾向が変わった」→「勉強してきたことが無駄」→「解けない」→「落ちてしまう」というところへ考えが行き着き、焦ってしまう子なんて中学生くらいではいくらでもいる。

「傾向対策」はある程度やったら、生徒達に任せて、授業中の指導では、傾向と違う様々な問題も解かせ、「君達には色んな問題をやらせているから、傾向が変わっていたとしたら、君達に有利だね」と暗示をかけておくくらいがいい。

「傾向対策」というのは塾に通っている子だけのメリットとばかりに腕を見せたいところではあると思うが、先生が力まないのと、生徒を力ませないようできるだけ配慮するのがコツである。



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アルファベット小文字の練習

夏期講習会に来てくれている小6生、英語の授業は英語を初めて習うという子向きに授業を組んでいる。

学習の基本は「読み・書き・算」。

だからSORAの英語学習の初歩は、書かれた文を読み、文字や単語を書く練習をしっかり行うということを大切にしている。

(学習の基本は「読み・書き・算」と書いたが、これは「日本における学習の基本」と限定するのが正しい。それぞれの国にそれぞれの国の学習の基本がある。ついでにいうと、近年、進歩的なカリキュラムやメソッドがもてはやされるが、ろくでもないものも多い。「学習の基本を徹底する」というメソッドに勝てるものなどない。)

今日、小6の英語の授業ではアルファベットの小文字の練習を行った。

ノートに一行ずつそれぞれの文字を練習させたが、私はこんな指示を出した。



「aaa aaa aaa aaa」←板書

「こんなふうに3つ書いたら、一文字分空けてまた3つ書く。このくりかえしで練習しなさい。」



This is a pen. と英語を初めて習う子に書かせるとき、「(呼は大文字で」「∧犬虜埜紊砲魯團螢ド」「C姥譴斑姥譴隆屬楼貶源分空ける」と教師は指示を出す。

このとき、,鉢△傍い鯒曚覿技佞和燭い、のことに細かく気を配る教師は少ない。

,鉢△論気靴行わないとバツになるが、は多少甘くてもマルをもらえるからだろう。

しかし、英語を初めて習う子にとって、単語と単語の間を一文字分空けるというのは意外に難しい。

どこが単語の区切れ目なのかが分からないようになっている子、単語と単語の間が広すぎる子(特にこちらの子が多い。しかも多くの教師がこれを見逃してしまっている)など、最初からはなかなか上手くは書けない。

「分かりやすく教える」というのは大切なことであるが、「正しくできるまでうまく導く」ことはそれ以上に大切なことである。

「単語と単語の間は一文字分空けなさい」と言うだけでも、たしかにそれは「指導」であるが、そんなことは誰にでも言える。

できるようにするためにどうしたらよいのかをプロならば常に考えなければならない。

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このようにやらせると、小文字の練習もできる上、スペーシングの練習もできる。

同じ文字の練習でも一文字分空けるときに、一拍分手が止まる。

その方が頭がリセットされて、手を動かすだけの単純作業になってしまうのを防ぐ効果もある。(同じ文字を何度も練習していると、本当にその文字をそう読むのかと変な気分になったことはありませんか?あれです。)

おまけに「一行練習」と言うと、文字と文字の間をやたらと空けて「手抜き」をする子がいるが、それも
防ぐことができる。

いいことずくめの実践である。

単純な指示であるが、効果は高い。

プロならこういう技をきかせたいものである。(自戒の意味を込めて)






三単現のSの罠(笑)

大手塾に勤めていた頃、私は、自分の学年の主任をしながら、灘や東大寺を受験する最難関クラスの英語も担当していたので、世間からは「勉強ができる子を教えるのが得意な先生」と思われているふしがある。

そのせいかどうか、ウチの塾も、「勉強ができる子しか通えない塾」と思われていたりする。(実は全然そんなことはない。)

しかし、私はけっこう「勉強ができない子」を教えるのが得意だし、何より好きである。

できない子をできるようにしていくのは教師冥利につきる。



先日から、中1に、「一般動詞三単現のS」を教えている。

勉強ができる子はけっこうスイスイといくところだが、できない子はつまづきやすいところだ。

ここでつまづくと後が大変なことになるのでしっかり身につけさせておきたい。



He plays tennis.  →  He doesn't play tennis.



とするだけなのだが、これが中学生1年生には難しい。

「わかる」と「できる」はちがう。

三単現のSというやつは、「わかる」のは簡単だが「できる」はちょいと難しいというところなのである。

doesn't をつけて、一般動詞を原形に戻すことを念入りに伝える。

いくつかの文を板書し、書かせてみて、口頭で言わせてみる。

分かった気になっている生徒に念入りにもう一歩、二歩押していく。

そうやっているうちに、生徒達はだんだんできるようになっていくが、まだである。

あいまいに、あるいは単純化して理解し、表面的にできているだけの子を、教師はあぶりだしてあげなければいけない。

さらに一歩、念入りに押すのである。

ここができるかできないかが、「できる先生」と「できない先生」の違いだ。

問題演習へ入る前の最後の1問、私は次のセンテンスを板書し、「これを否定文に直しなさい」と言った。




Mary washes the dishes every day.




我ながらナイスな問いである。

先生の説明を適当に聞いていた子や、あやふやにしか理解していない子をあぶり出す一文であり、「もーわかってるよー、しつこいなあ」と言いながら、実はわかっていなかったという子に、ガーンと一発食らわす一文である。

こういう一文がスパッと「引出し」の中から出てくるのであるから、私ができない子を教えるのが好きだというのが嘘ではないということはお分かりいただけると思う。



心の作用

こないだの中間試験の後、生徒達に今回の試験をふりかえるための文章を書かせた。

その中にこういう文章があった。

「目標としていた430点は取れなかったけれど、400点を取れたのでよかったです。」

今回の中間試験は点数を伸ばした子がたくさんいて、これを書いた子もその中の一人だった。

得点が伸びたのはとてもよいことだけれど、この文章を読む限りでは、残念ながら、この子はまだ「430点を取る自分」をイメージができていない。

潜在意識の中にある「目標」は400点だったのだろう。

潜在意識が及ぼす影響はものすごく大きい。

心の奥底で「できない」と思ったことはできない。

心は現実に大きく作用するのである。

子供は特にそれに縛られてしまう。

「目標が400点じゃ、ちょっと低すぎるかな。ここは430点くらいを目指して・・・」

この子はこんなふうに思ったのかもしれない。

真面目でいい子なのは間違いない。

こういう頑張りを続けていけば、段々(潜在意識が)「430点を取る自分」がイメージできていくことだろうし、(430点という目標を持ち続ければ)実際に430点を取れるようになる。

カッコ書きで、目標を持ち続ければ、と書いたが、目標を持ち続けるのはたやすいことではない。

ぜひ頑張ってほしいと思う。

ところで、私は生徒達にこういう文章を時折書かせるが、その際はできるだけ長い文章を書かせるようにしている。

長く書くと、だんだん書くことが無くなってくる。

それでも無理して綴っていると、自然と潜在意識で思っていることが表出してくるのである。

生徒達に文章を書かせると、色々なことが分かっていい。