彼の誕生日

今日は親友の50回目の誕生日。親友とは中3の11月頃友達になった。中学に入ってすぐ、同じ駅から通学していたので私は彼のことを知っていたし、彼も私のことを知っていたが、友達になったのは、中学生活もあと少しという冬の寒い日の夜、学校帰りの駅の電車を待っている時間のことだった。

初めて話した内容はたしか女の子のことだった。彼がそのとき好きだった女の子のことを話し始めたのがきっかけだったと思う。彼は学年の有名人で、生徒会長もしており、おまけに野球部で、野球部っていうのは学校でも一番デカい面をしているものだから、それがちょっとウザくてなんとなく今まで関わりがなかった。(学校で一番態度がデカいのは野球部、柔道部、ラグビー部だったろう)彼の話を聞きながら、へ〜コイツってこんな話せるヤツだったんだ、なんでコイツと今まで友達にならなかったのだろうと思った。若いときというのは仲良くなるのも早い。次の朝に駅で顔を合わせ、「おうっ」と声をかけあったときから、私達は友達になった。

卒業間近に「門出の集い」なる泊りの学校行事があった。卒業を控え、最後の思い出づくりのためのイベントだったのだと思う。色々楽しいことをしたのだが、その中で「人形劇」というのがあった。人形の作成からシナリオ作り、演技すべて自分達で行う即席発表会。たしか半日かそこら時間をかけていたと思う。即席のグループ割りで作られた同じ班の子らに、「これって、一人ひとりが演技して、それを練習する時間はちょっとないから、ナレーションも人形の声も全部一人でやったほうがいい」みたいなことを提案した。皆は誰がそんなことできるの?と問うてきたので、じゃあそれは俺がやるわ、と答え、シナリオ書きとナレーション役をすることになった(昔からそういう性格)。

皆が人形を作っている間、私は一人でシナリオを書いて、一人ナレーションの練習をした。分かりやすいのがいいということで、桃太郎を面白おかしくしたストーリーにすることにした。本番では大ウケで、他の班はというと、案の定時間が足りずにグダグダ気味だったものだから、私の班と私が、なんと「最優秀賞」「最優秀シナリオ賞」「最優秀演技賞」とあと一つか二つくらい賞を取ってしまった。「総ナメ」だったのである。中学生時分だとそんな器用な子もいないから、シナリオを書いたり、演技をしたりというのは私の力が一番発揮されるパターンではあったが、何分、私一人が目立ち過ぎた。当然これがオモシロくない奴もいて、けっこう大きなブーイングがとんだ。

そのときである。親友はそのブーイングをかき消すように「ええやんけ!ダントツで面白かったやんけ!そら総ナメやって!」と大きな声を上げた。彼は影響力のある生徒だったので、一気にそのブーイングをしぼませてしまった。ケチなブーイングを止めようとする真っ直ぐさも素敵だが、「そんなこと言うなや!」ではなく、「面白かったやんけ!」と言ってくれたのが何とも嬉しかった。こんな人形劇のことを覚えているのは絶対私だけだと思うが、それは私の人生の中の最も大切な「時」の一つだった。私の中で彼が「親友」となった瞬間だったからである。

中学の卒業式の日、生徒会長だった彼は「答辞」を読んだ。前のほうに座っていた私は彼の後ろ姿がよく見えた。巻紙に筆で書かれた答辞の文章までよく見えた。堅苦しいだけでなく、ユーモアも交え、素敵な答辞だったと思った。しかし、途中、彼の声がピタッと止まってしまった。何度も練習した朗読にはたまにあることだが、暗唱するくらい繰り返してしまったせいで原稿を見ずに読んでしまい、どこを読んでいるのか分からなくなったということがある。そうなったしまったのではないだろうかと思ったがそうではなかった。彼は涙をこらえていたのである。

いつまでも黙っているわけにもいかず、彼はあふれる涙を止めもせず、泣きながら答辞を読んだ。ほとんど声にならないような声で振り絞るように読んだ。彼の頭をよぎった中学生活の思い出が皆に伝播する。一気に体育館に鼻をすする音があちこちから聞こえてきた。ふと壇上の校長先生に目をやると、校長先生はあふれる涙を拭うことなく、直立不動で彼の答辞を受けておられた。彼の立派な答辞に、見事な姿勢で応えてらした。私は二人の姿があまりに感動的で息を飲むばかりで泣くことすらできなかった。

「見事な卒業式だった」と先生や父兄が仰っているのが式後あちこちから聞こえてきた。もちろんそれは彼の答辞の素晴らしさがそう言わせたのだと思う。彼は「スーパースター」だった。彼の友人であることが誇らしかった。

しかしその華やかな中学生活とは対照的に、高校生になって、詳しくは書かないが、私も彼もちょっとした「傷」を負ってしまっていて、それは今から思うと小さな「傷」だったかもしれないが、心の底がどんよりと重い高校時代を過ごした。それが学校の体制というのもあり、私達の不器用さもあったのだと思う。表面上はチャランポランでいいかげんに過ごしていたが、そのチャランポランの奥にそういう「傷」を隠していて、一人でいるときは人知れず、その「傷」にずっと耐えているような状態だった。彼が普段つきあっている連中と私のつきあっている連中があまり重なっていないこともあって、彼と私が仲がよいことを知らないヤツもいたと思う。それでも二人は親友だった。

私が塾講師をし始めて半年ほど経ったころ、この仕事は面白いと、彼に電話をかけ、説得し、同じ職場に引きずりこんだ。私なんかより彼の方がこの仕事に向いていると思ったのだ。今から思うと若さの勢いとしか言いようがない。実際、彼は素晴らしい先生だった。私が斬新なアイデアを出したり、「画期的」な方法を考えたがるのに対して、彼は石橋をコツコツ叩き続けるような指導を好んだ。細かく生徒のことを見、厳しく鍛え、泣きながら生徒に説教をし、生徒の学力を伸ばした。生徒達は皆彼のことを信頼し、愛した。私は傲慢な性格なので、彼が自分より腕のある、素晴らしい先生だとは言いたくないが、どう考えても勝っているとも思えない。

親友は親友であり、ライバルだった。私は彼に負けたくなかったし、彼も私に負けたくなかったろうと思う。何が勝つことで、何が負けることかは分からないが、とにかくそう思っていた。彼がいたからこそ、私は、私達は力をつけることができた。

勤めていた塾と自分達のやりたい教育とのズレを感じるようになり、私はその塾をやめ、SORAを作った。一年後、親友はDaichiという名前の塾を作った。空と大地である。いい年をして浪漫チックに過ぎた名前だが、新しい世界へ船出するときの高揚感の為せる技である。

彼の塾が開校したとき、私は、入塾説明会で喋らせろと押しかけ、彼がいかに素晴らしい先生かということを、説明会に参加された保護者の方々にまくし立てるように語った。まあそんなことをするまでもなく、彼の塾はあっという間に大人気となり、地域でDaichiの名を知らぬ人はいないというくらいの塾になった。

そんな彼が病いとなり、闘病生活に入り、仕事を休むことになった。中学から途切れずにつきあいのあった一番の親友がそんなことになり、その病名を聞き、なかなかそれを受け入れられずにいた。半年ほどして、彼は私の父の葬式に来てくれたが痩せてはいるものの顔色がいいと少しほっとした。安堵しながら、「お互いの父親の葬式に出ちまったな」という話をした。これなら何とかなるのではないかという希望の光が見えた気がした。

去年の春、彼は仕事に復帰した。後悔はしたくないので、と彼は言った。私はDaichiへ顔を出し、久しぶりに彼と顔を合わせて話をした。つまらない話をして笑いあった。「お前よお、老眼だからって眼鏡かけたまま上目使いでプリント読むのやめろよ。カッコ悪いよ、それ」と私。「そ、そうか。ほんならどうやって見たらええのよ」「いや、それはこうやって華麗に眼鏡を外してこう・・」「いやそれは気障すぎるやろ(笑)」そういうたわいもない話がとても嬉しかった。しかし、それが彼と顔を合わせて話をした最後だった。

「悪化した」それから数か月後、突然彼からかかってきた電話だった。しわがれた声。声帯をコントロールする神経がうまく使えなくなっているらしい。絞り出すような声だった。「俺の幸せの半分のお前のおかげやから」彼はそう言った。お前が引き込んでくれたから、嫁さんとも知り合えたし、自分の塾も持てた。だから俺の幸せの半分はお前のおかげ、みたいなことを絞り出すように私に伝えた。普通親友にそんな話はしないものだ。だからそれが何を前提に話をしているかを考えると何も言えなくなった。

闘病の末、昨年9月に彼は亡くなった。彼らしく律儀に、葬儀や何かで塾の授業を休みにする必要のない日程を選んだようなタイミングで息を引き取った。(最後まで気を遣いやがってバカヤロウ)奥様から彼の最後の数か月の話を聞かせていただいた。自分の姿を誰にも見せたくないと一切の見舞いを断り、彼は最後まで闘った。すべてが順風満帆、これからだというときに彼はこの世をさらなければならなかった。それはどれだけ悔しかったことだろうか。

私は自分の心を構成する何割かを失ってしまったような喪失感を今でも少し引きづっている。いい年してナンだと言われそうだがそうなのである。片肺飛行を続けながら、死んだヤツに負けずに頑張るというのはちょっとばかり大変だ。

思えば、彼が闘病生活に入ったときに、俺も何かチャレンジしなければ、と思い、高校生を指導することを思い立った。今から考えると、彼らに入れ込んだのはどこかに「祈り」のような思いもあったのだと思う。「俺も頑張るからお前も頑張れ」

Daichiは今、彼と共に塾を立ち上げた廣田先生が中心となり、彼の形見を大切に守っている。時は流れ、生きている者は失くした人を心に刻み、毎日を生きていく。

今日は彼が迎えることができなかった彼の50歳の誕生日。彼は空へと旅立ち、私はまだ少し大地に這いつくばりながら生きていく。毎年この日は彼のことを思い、祈り、心の中にある彼と語り合う日にしたい。



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2009.8.12 SORAとDaichiの合同夏期合宿にて 御杖村三季館



 
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  • 2015/10/29 17:51
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