「教科書で教える」というフレーズを疑う

「教科書(テキスト)教えるのではなくて、教科書(テキスト)教えるのだ」というような台詞を時々耳にすることがあるが、よほど腕のある人しかそんな台詞を言ってはいけないと私は思う。

元々、このフレーズは、よい授業を多くの先生が構築することを願って発信されたものなのだろう。しかしながら、この台詞は地道な授業を否定しているという一面も有している危うい台詞でもある。「教科書をきちんと教えること」は「基本」である。地道に基本を習得してこそ、自分自身の技も磨くことができるはずである。教科書(テキスト)の意図を汲み取り、きちんと教えきることもできもしないのに、かっこいい台詞に酔い、自分勝手な授業を組み立て、生徒に行ってはならない。

まずは与えられた教科書(テキスト・教材)を用いて、これをきちんと教え、最大限に生徒に力をつける方法を考え抜くべきである。教材を見抜く目を養うのであれば、まずは学校の教科書を勉強するのがいい。学校の教科書なんてと馬鹿にしてはいけない。

学校の教科書は完成度が高い。多くの優秀な頭脳が「何から教えるべきか」「どの順番で教えるべきか」などを徹底的に考え抜いているからである。(しかも相当に時間とコストをかけている)

複数の会社の学校の教科書を見比べるとさらによい。微妙な「ねらい」の違いが「導入」のスタンスの違いが見て取れる。そのあたりのトーンの違いを見るととても面白い。

100人に一人の天才というのは確かにいて、そういう訓練もなしに、凄い授業を作っていく人はいる。しかし、普通の人は地道な修業を重ねて腕を磨くべきだ。「かっこいい台詞」の上っ面だけを撫でて分かったようなつもりになってはいけないのである。

「磨きぬかれた凄み」以外にボンサイが花を咲かせる方法はないと凡才の私はそう思っている。



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