ロカビリー先生の塾(礎義塾)を訪問(3)

ロカビリー先生が書いてくださっている私の授業に対する感想は私を本当に熱くしてくださった。力量ある先生は見るところが違う。

「授業を見る」というのは力量が要求される。「見る」という行為は「目」で行われるのではない。それは「脳」が行う。人は自分の脳に「あるもの」しか見ることができない。脳に情報がないと「あれども見えず」という状態になるのである。

若い連中が、「授業を見学させてください」なんていうものだから、見せてやって、授業後「どうだった?」と聞いてみると、「なんか、めっちゃわかりやすかったです!」などと言う。あるいは、すばらしい「発問」だとか授業の話をしていても、それの「ねらい」や「意図」を一から説明しないと分かってもらえない。こういうときは本当にがっかりするものだ。昔はそういうことがよくあった。私は授業を観る目で先生の力量というのはおおよそ測れるものだと思っている。

先生の書いてくださったブログの返信の意味も込めて、先生の文章を引用しながら、自分の授業を振り返りたい。(青字部引用)


さて、いよいよKamiesu先生の授業が始まった。猫ギター先生と俺は既に事務室に掛け、ガラス張りの間仕切り越しにKamiesu先生の姿を見ていた。授業開始数分後、猫ギター先生が俺の方を振り向いて仰られた。「これはすごい導入ですね。」俺も大きく頷きながら、まったく同感だと思った。驚いた。こんな関係代名詞の授業は見たことがないし、俺も結構これまで英語を教えた場数はある方だが、こんな授業はしたことがない。もっとも、こんな切り口に気づかないのだから、できるはずもない(笑)。第一、関係代名詞の授業なのに「関係代名詞」という用語が出てこないんだから。本当なら内容の詳細も書きたいが、Kamiesu先生の新しい試みを俺がここに書くのはちょっと控えたい。


今回の授業では、関係代名詞の節が形容詞節であることをしっかり理解させるために 「形容詞とは何か?」と確かめさせることから授業を始めた。

【板書】I bought a red hat yesterday.(He is a very good baseball player. の方が例文としてはよかったと思う。ここは少ししくじった)

【発問】形容詞はどれですか?(この発問は形容詞は何個ありますか?の方がよかった。そのほうがずっと考えさせる発問になったと思う。)

そして、さまざまな句が名詞を修飾していく例を示すために、the book on the desk や the book to read フレーズを訳させた。ロカビリー先生の生徒たちはとても優秀で、ためらうことなく、これらのフレーズを訳していった。


代わりに、先生の授業の様子を書かせていただく。先生は教室という場の空気を掴み、コントロール下におくスピードが速かった。テンポもよく、生徒をどんどん授業内容に引き込んでいく。15人いた中3に当てるとき、俺が事前に渡した座席表にほとんど目を落とすことなく、本人の方を真っ直ぐ向き、名前を呼ばれた。まさか・・・授業前の時間に生徒の名前を覚えていらっしゃったのか?後方座席の生徒を当てると、その生徒の側まで近づかれる。そして、その生徒が何か答えると肩を優しくポンと叩く。できない、できない、こんなこと(笑)。


「授業」に関しては塾の先生方にもいろいろな考え方がある。曰く、「塾は生徒の学力を伸ばしてナンボの世界、よい授業をしていても生徒の学力を伸ばせてなかったら意味がない。それよりも生徒に勉強させることの方が大事だ。」このような考え方の先生は実は少なくない。

しかし、それは私の考え方と大きく異なる。集団授業を行う教室というのは、生徒の力を引き上げる可能性を持った空間である。1対1での指導でやらせてもできないことが集団授業の教室ならできてしまうということがよくある。一人の生徒がこんなの無理、できないと思ったことを隣の生徒がやってしまうと、「そうか、できないということはないんだ」と気づくことができるのである。授業の場というのは個人の「できない」という思い込みを破壊し、可能性を引き伸ばすことのできる場所なのである。私はそのような「場」を最大限に活用したいのだ。


この授業の中で、私は口頭で言った文をリピートさせたり、言い換えさせたりと、けっこう生徒たちをイジメた。しかし生徒たちはしっかりとついてくる。皆いい目をしていた。普段のスタイルとちがう授業を初対面の先生が行っているのにもかかわらず、彼らは指示をよく聞き、大きな声で発音してくれた。ロカビリー先生の普段の指導のレベルの高さがひしひしと伝わってきた。

私は一時間の間に、一人の生徒を2〜3回は少なくとも指名した。ロカビリー先生がご指摘くださってるように、私はガラス越しの後ろから教室を見ていて、生徒たちの名前を頭に叩き込んでから授業に臨み、座席表を確認することなく生徒を指名した。座席表を見たのは確か2回だけだったと記憶している。ちなみに私は授業しながらけっこう教室を動く。先生が書かれているとおりである。私が後ろの席の生徒の方へ歩んでいっても、前の席の生徒が背中で私の気配をつかんでいるのがよく伝わってくる。本当にいい生徒達だった。

多くの人の授業を私は見てきた方だと思うが、生徒に言葉が届く話し方をする先生とそれが届かない先生というのがいる。どんなに理論的で、緻密な授業であっても、生徒が聞く気を起こすリズム、声量、テンポの話し方の授業と、そうではない話し方の授業がある。簡単に言うと、それは「つまんない話し方の授業」ということなのだが、そういう先生はそれを改善するべきだ。これを「聞く側」の問題にしてしまうことは論外で、あくまでも指導側が努力するべき点だと思う。

先生の声は決して大きな声ではなかった。デカイ声で聞かせる授業ではなかった。生徒全員の意識を束ね、次々と内容を変化させ、展開させながら、最終目標へ着実に誘う授業だった。話の内容も授業一本。雑談や小話のような「寝技」で生徒を惹き付けるのではなく、授業と言う立ち技で生徒を惹き付けている。最初はその変化と展開の速さについて行くのがやっとだった生徒たちも、先生のリピートの回転に誘導されるように、彼らの脳内の歯車が徐々に噛み合い回りだす。俺は指導する立場の人間なので、先生が段階をギアチェンジする音が聞こえた。俺は思わず猫ギター先生に「おお、だんだん本題に来てますね!」とボソッと言った。

私は授業中大きな声で話さない。しかし、学生時代、芝居を少しかじったせいか、届く声にはなっていると思う。雑談も私の授業では外せないが、雑談に頼らなければならないようなことではいけない。授業で生徒をひきつけ、授業で生徒達をできるようにしてあげたいと思っている。「考える力」も「集中力」も「指示を正確に受け取る力」も授業という場で大きく鍛えることができると私は思っている。

先生が仰る「ギアをチェンジする音が聞こえた」という箇所はおそらく私が「この子たちなら、斟酌なくガンガン進めてもついてこれるし、しっかり学べるだろう」と私が確信した瞬間のことを仰ってるのだろう。ロカビリー先生は私の授業のテンポの変化(というより「気」の変化)を察知してらっしゃった。

誤解のないように申し添えると、それはロカビリー先生の生徒達をなめていたとかそういうことではない。いつもと違う先生、いつもと違う授業スタイルをわずか1コマの授業の間で受け入れ、ついてくることは結構大変である。私も最初は目の前の生徒に合わせてよそ行きの授業をしようと思っていた。今教えている生徒の力量を量り、授業を調整するのも、先生の力量のひとつであろう。


【板書】
I met the boy yesteday.        私は昨日少年に会った。
the boy I met yesterday        私が昨日会った少年



英語の先生なら誰もが感じたことがあるだろうが、「私が昨日会った少年」を英語で書きなさいと指示を出すと、必ず「I met the boy yesterday.」と書いてしまう子がいる。この間違いは英語の学力の問題というより、むしろ日本語の力の問題で、「私が昨日会った少年」も「私は昨日少年に会った」という文も語順がちがっているだけという認識程度の子はけっこういるものである。だからこそ、指導する側としては非常にやっかいなのである。

そこで私は「私は昨日少年に会った」という文を「私が昨日会った少年」と日本語を「体言止め」に書き換える練習をはさみ、表現のちがいを認識しやすいようにしたのである。

たとえば、

「『私は昨日少年に会った』と『私が昨日会った少年』は表現が違うんだぞ。最初のは節になってるけど、後のはちがうだろ。しっかり見ろよ。」

と解説するのは間違ってはいない。わかったか?と聞けば、生徒は、はいわかりましたと言うだろう。けれど、そこがあいまいな子が、この説明を聞いて、「おお、なるほど片方は節じゃないな」とストンと落ちるだろうか。それだけの言葉で理解できるなら、そこまででも理解できているはずなのである。

そこをどうやって理解させるか。理解を深めるための「ほんのささやかな補助階段」こそが授業のキモなのであると私は思う。そんなことは常識だとか、分かっているとか、指導しているとか言う人は山ほどいるが、このような「補助階段」をきちんと授業の中に組み込めている人は少ない。

この授業をどう評価するかはお読みくださる方にお任せしたい。


【板書】
   英   文            和   文
(               )    彼は昨日サンドイッチを食べた。
(               ) (              )


上記のような板書で和文の体言止めの表現とそれぞれの英文を書く練習をさせた。何問か書かせた後は口頭でプラクティスさせた。

He read the book yesterday.

She lives in the house.

He ate something hot last night.

She takes care of the baby.

The boy is playing tennis.

She broke the window.

etc.

ロカビリー先生も仰って下さってるが、私は例文を出すスピードが速い。この日も言い淀むことなく、例文を出した。ロカビリー先生の生徒達はこれらの文をリピートし、日本語にし、関係代名詞を使った「体言止め」の形に変形し、それらを英作した。

上記の例文のところで気づかれた方もおられることだろうが、この形で関係代名詞(あるいは不定詞の形容詞的用法)を学んだ子は「なんでthe house she lives in なんて最後に in が入るんですか?」と聞く子は非常に少ないし、作文させてもinを落とす子が極めて少なくなる。(不定詞の場合だと後々意味上のVOだとか、SVだとか同格だとかの説明がしやすい)この日の授業ではinを落としたのはわずか一人だった。

生徒たちは私が発音した文を書き取らねばならないし、口頭で言い換えさせられるので、文を短期記憶しなければならないし、一瞬で組み替えなければならない。一回の授業に「読む・聞く・話す・書く」を全部盛り込める。英語の授業は本来そうあるべきだ。


ところで、俺の独断で「力量のある英語講師か否か」の判断材料がいくつかある。超基本的だが、たとえば、「発音がいいこと」。発音の悪い英語講師に習った生徒は耳(リスニング力)が例外なく悪くなる。先生の発音はとてもきれいだ。俺も発音はまあいい方だと思うが、Kamiesu先生の発音はものすごくいい。


自分で言うのも何だが、私はけっこう英語の発音がきれいな方だと思う。発音がいいのは英語教師の七難を隠す。以前勤めていた塾にカナダ人の先生がおられたが、近所のユニクロで声をかけたら、すごくギョッとされて振り返られた。その先生曰く、「近所にネイティブスピーカーの知り合いはいないはずなのに」と思ったとのことだった(笑)

先にも書いたように、私は、口頭で言った文を生徒にリピートさせる。これをやると、リスニングの力を伸ばし、脳の「ワーキング・メモリ」の容量をアップさせることができる。リスニングの力を伸ばすためには音声テープの問題を解かせる前にやっておかなかればならないことがあるのだ。


あと「例文が即興でスラスラ出てくること」。授業中の例文の連発は、生徒の理解を助けるのに重要な役割を果たす。いやあ、速かったなあ。例文が出てくるスピードが。


これはまったく同感だ。授業という「ライブ」の実力を左右する部分だと思う。


しかしね。驚いた。

キレのある授業だった。

静かに、奥の方に浸透するような授業だった。


自分が敬意を払い、尊敬している方に授業を評価していただくと嬉しいものである。しかし、ただ単に浮かれているだけではない。今回私はロカビリー先生の生徒達に授業をしながら、自分の指導で改善するべき点をいくつも見つけた。それは授業の範囲のこともそうであるが、塾作りという点でもいくつもの勉強をさせていただいた。また、自分の授業のよい点も再確認できた。

ロカビリー先生の生徒達はよい子ばかりだった。皆いい目をしていた。あのような生徒達を育み、鍛えているロカビリー先生はまちがいなく指導者として一流だと思う。私も負けずにあのような目をする生徒達を育てたいと心から思った。

ロカビリー先生のブログを読ませていただくと、先生はとても厳しい指導をされているようなので、もっと生徒達は大人しかったり、管理されているのかと思いきや、生徒達は屈託なく伸び伸びと過ごしていたし、愛想よく私や猫ギター先生に話しかけてくる生徒もいた。挨拶がきちんとできるし、礼儀も正しい。「生きる力」の基本となる部分がきちんとしている印象が強かった。

このような機会を与えてくださったロカビリー先生には心から感謝したい。

(つづく)












コメント

はじめまして。中高生に英語を教えている者です。
私は、関係代名詞の説明をする時
   『関係代名詞は名詞に文を張り付けるための“糊”だ』
と教えています。
更に、『“糊”は接着面についてなければ剥がれおちてしまう』
   『だから、先行詞とそれに張り付いている文の間に置くのだ』
という説明を加えています。
具体的な練習方法としては、2文を1文に合成し、1文を2文に分解する訓練に加え、
並び替え問題を利用して、まず書いてある和訳の中で
“先行詞に該当する部分”“それに張り付いている形容詞節”
をそれぞれマルと四角で囲ませ、それから英文を並び替えるという作業をさせています。
分詞や前置詞の後置修飾を教える際もこの方法をとっています。
この方法で教えて、理解してもらえなかったことは恐らくなかったと思います。

・・・と思っていたのですが、今年いよいよこの方法で教えても理解できない生徒が複数出てきてしまいました。

じつは4年前に7年間のブランクを経てこの業界に戻ってきたのですが、正直衝撃を受けました。
文字通り日本語そのものが通じてないな、と感じさせる生徒がかなりの数を占めている様な気がします。

先生はどう感じていらっしゃいますか?
私の教えている地域が特別なのでしょうか?

長々と失礼いたしました。

  • yama
  • 2009/11/22 03:02

yama先生

全国津々浦々、先生のような形で「関係代名詞」の導入、定着を図っておられる先生は多いと思います。もしかしたら塾の先生の教え方の一番ポピュラーな形かもしれませんね。

私の今回の授業は、そのような「定番」を突き破ろうとしてさまざまな試みを重ねていった結果のものです。

この「定番」かもしれない教え方は、先生の仰る「日本語そのものが通じていないな、と感じさせる生徒」に優しくないように思うのです。

くわえて、この「定番」の教え方は「言葉を習得する」という点ではあまりに不自然で、まるで「関係代名詞」の文法問題をできるようにするために教わっているようでもあります。(私の主観です。)

たしかに現在、日本語の力が弱いなと感じる生徒は少なくありませんし、全体的に下がっているようにも思います。(もっというなら精神的発達の未熟さもあるかもしれません)

だからこそ、もっとよい授業を練り、少しでも生徒達に力をつけてやりたいと日々考えています。この授業は微力かもしれませんが、そういう思いを込めた授業です。

  • kamiesu
  • 2009/11/23 10:29