先生のことは大好きとは言ってくれないの?

最近やたらと小5の生徒になつかれる。

ちょっとやそっとではなく、思いっきりなつかれているので、少し戸惑ってしまう。

私はそういうキャラではなく、わりとぶっきらぼう(?)に授業をしているだけだ。

やたらと質問攻めにあったり、服を引っ張られたり、今日などは背中に飛び乗ってきた子もいる。



この間は授業中に生徒にこんなことを言われた。

「kamiesu先生の授業も大好きやしー、kamiesu先生の英語も大好きやしー、kamiesu先生もいい

まあなんというか感情がストレートだ。

「あれ、kamiesu先生も大好きとは言ってくれないの」とこっちも調子に乗ってちょっと意地悪をして言ってみた。

「だってkamiesu先生のこと好きっていったら男子が、kamiesu先生に恋してんねんやろって言うねんもん(-_-メ)」

と口を尖らせて言う。

ということは、どこか別のところでも言っていたのか(笑)


クラスの子の大半が半泣きになるまでお説教したことも何回かあるのに、こうまでなつかれる理由がまったくわからない(笑)

「小5の子達になつかれる私」、歴代の教え子が見たらさぞかし驚くことであろう。









とうとうユウタ(仮名)が…

私のブログに一番登場回数が多いユウタ(仮名)がとうとう400点越えを果たした。

ここまで来るのにほとんど1年かかった。

記録を確認してみると、彼は入塾したとき、学校の定期試験で277点しか取れなかったとある。

つまり入塾時には300点を取れなかった子が、1年かけて400点越えを果たしたのである。

この歩みを速いと見るか、遅いと見るか、それは様々だろうと思う。

何だkamiesuは普段あんなに偉そうに言いながら、生徒の成績を伸ばすのにそんなに時間がかかっているのかと仰る方もおられるかもしれない。

何と言われてもいい。

もちろん彼のゴールはここではないから、彼はこれからさらに頑張り、もっともっと点数を取っていくことだろう。

まあ、とにかくこんな嬉しいことはない。

とにかく書かずにはいられなかった。

ユウタ(仮名)、これからもガンガン行こうぜ!



話の腰を折るな

私は勉強もさることながら、社会人となって、あるいは学生であっても、世の中へ出て行ったときに、「間が読めない」「空気が読めない」「行間が読めない」ことは致命的なことだと思っている。

生徒の中にも「場が読めない」、あるいは「空気が読めない子」が時折いる。空気の読めないことを言い、あるはそういう振る舞いをして、回りの人間をゲンナリさせたり、カチンとさせたりする場面に出会う。

小学生や中学生だからいいようなものの、これがきっと大人になると大変だなと想像させたり、あるいは「こんなことばかり言っているとコイツ担任の先生には嫌われてるのだろうな」と、「平常点」なるものが存在すると聞く学校の通知表の評定まで心配になってくる子もいる。

そういう「場を読む」だとか「空気を読む」ということは一体誰が教えるべきなのかということを考えてみる。そういうことを長らく考えてきて、こういうことは親が教えてやるのはとても難しいことではないかという結論に至った。

「親子」は何と言っても「親子」なので、親子の日常で「場を読む」だの「空気を読む」だのは教えづらい。そういうことは、他人と共に過ごす「緊張感」の中でこそ必要なものであるから、親が子に教えるのは相当に難しい。

であるならば、それは他人が教えてやることなのだと思うが、じゃあどんな他人が教えるべきかというと、そういうことをきちんと言ってあげるのはやはり「先生」であるべきでないかと思う。

このような「教育実践」(?)は実践例がないので、追試もできなければ、系統だって学ぶこともできない。「空気を読め!」なんてセリフを子どもに言っても何も変わらない。抽象的すぎて子どもには理解できないからである。もっと具体的な動かし方をしてやらないと子どもは変わらない。

「先生が話しているときに口を挟むな」

私は話をしているときに突飛な質問をしたり、あるいは関係のある話でも、私の話の腰を折るようなことを言ってきたりすると結構厳しく叱る。

子どもは、自分が言いたいと思ったらそれをすぐに口にしてしまう。特に小学生がそうだ。「言いたいことがあるときは手を挙げて言いましょう」というルールが日本全国の教室には存在するだろうが、教室の運営としてはよいのだろうが、子どもの成長を促すという意味ではこのルールは少し物足りない。

「言いたいことがあるときは手を挙げて言いましょう」は「手を挙げたら言いたいことが言える」になりがちだ。指導力の低い先生だと、一瞬でそうなってしまうだろう。

「控える」ことを教えるのは大切なことだと思うが、現代教育では結構見逃されているポイントだと思う。それを「抑圧」だとし、教育の場からそういうことを切り捨てた先生も数多くいることだろう。

「先生が話しているときには口を挟まない」ということを教えるのは「控える」ことであり、それは「ブレーキ」である。「エンジンパワー」と「ブレーキ」はバランスよく鍛えなければならない。

「場を読む」「空気を読む」には自分のことばかりを考えていてはできない。「控える」ことによって、周りの状況を読む、あるいは話し相手のことを考慮することが、それができるようになるための第一歩だと私は思うのだ。

タイトルには「話の腰を折るな」とあるが、指導実践では「先生が話しているときには口を挟まない」である。「話の腰を折るな」は小学生には理解しにくい。これの具体的な行動の指示が「先生が〜」となる。指示を具体的にしても子供達にしてみれば「じゃあいつ言えばいいのですか」と混乱するだろう。その「混乱」が「空気を読む」「場を読む」訓練になっているわけである。(もちろん教師の方は「何か質問はありますか」という言葉を挟む習慣を持つべきである。)

そういえば「話の腰を折る」という言い回しを自分で書いていても久しぶりで、ついぞ聞かなくなったフレーズだなと思う。ということは、言葉だけでなく、価値観も含めて、現代では気をつける人が少なくなったということなのかもしれない。

理屈を言わせない

息子は毎朝幼稚園に行くときに、「お父さん行ってきます」と「神様行ってきます」と母親に必ず言わされている。「お父さん」とは言うまでもなく私のことだが、「神様」とは、家でお祀りしているお不動様のことである。家を出るときは神様にご挨拶をするように息子は躾けられている。

今朝、二階でいると、階下から母親と息子の声が聞こえてきた。

「お父さん、行ってきますっ!」(二階にいる私は今朝は布団の中。躾などと大層に言うも、夜中の商売とは言え、このていたらくである。)

「神様、行ってきますは?」

「だってな、神様に行っても、『いってらっしゃい』って言ってくれへん」

「理屈言わないの!ちゃんとご挨拶しなさい!」

家内はびしっとそれだけ言い、息子は神様にご挨拶をし、幼稚園に出かけていった。こういうとき、息子への話し方や諭し方は様々にあるだろうと思う。

「ごあいさつというのはね、相手からの返事を期待してするものではないよ」

という言い方もできよう。あるいは、

「あなたの人生をかけて神様からの声が聞けるようにするのよ」

なんていう宗教的な諭し方もできるだろう。

「教える」「諭す」はとても大切な子育てであるが、家内はそうしなかった。「理屈を言わない(言わせない)」という、これまた子育てにはとても重要なスタンスをとった。

自分の子どもの子育てなので、好き勝手にやっているが、私は「理屈を言わせる」ことを教えることも大切だと考えているが、子どもには「理屈を言ってはいけない」ということも教えなければならないことだと思っている。バランスのよい子育てというのはそういうことではないかと考えている。

時に理屈を要求され、時に理屈を戒められ、子どもが混乱するという考え方もあるだろう。確かに子どもは混乱する。幼い心には理解はできないであろう。なぜ?と当然思うだろうし、拗ねたりふくれたりするだろうとも思う。

当世の子育てや教育は、こういうことのないように、子どもを説得し、できる限り子どもに分からせようと苦心してきた。しかしながら、子どもには何も分からない。分からぬことだらけなのが子どもである。その子どもに一々全部説明して納得などさせることはできないし、理解できるのを待っていては成長の機会を逃すこともあるだろう。大切なのは「頃合」である。

野球のピッチャーが「走りこみ」の大切さを理解してから、「走りこみ」を始めていては一流選手にはなれない。強靭な下半身を作る「走りこみ」の大切さを理解する頃には強靭な下半身は出来上がっていなければならない。理屈など説明する前に鬼コーチが有無を言わさず走りこまさなければならないのである。

もちろん「理屈」を言わない、聞かないだけの子育てもいけない。それも「頃合」である。時に理屈を要求され、時に理屈を戒められ、子どもはきっと混乱するだろう。それでいいのだと思う。

人生とは複雑なものだ。片方でよいことが片方でよからぬときがあり、美しいものがあり、醜いものがある。年齢に応じ、そういうカオスの中でバランスを見つけ出していくようにしてやることが大切だと思う。豊かな子育てとはそういうものだと私は思っている。

このように高邁なことを言う人間が布団の中で幼稚園に行く息子を見送るなどという矛盾をも理解できる懐の広い人間に息子にはなってほしいと思う次第である。



必ずできるようにしてやるぞと心の中で念じながら説教をする痛み

早くに中間試験の終わった子の結果が返ってきている。

一人ひとりに点数を聞いてまわる。

中には結果が思わしくない子もいる。

以前に書いたことがある、Kという子もそうだ。

「結果」を出すには時間がかかるとは言いながらも、もう少し良い点を取らせたかった。

Kには昨日厳しい話もした。

「君が点数を取れなかったのは先生の責任だ。ごめんな」なんて彼に言っても仕方がないからだ。

けれど、Kへの厳しい話の数倍も自分自身を戒めながら、次回、彼がもっともっと良い点数を取って、彼に「努力が実る喜び」をいうものを感じさせてやりたいと思う。

彼にも私にも地道な努力と、途切れぬ「思い」が必要だ。