逆りんごアンテナ日記もしくはセミナーの件

りんごアンテナ日記
7月8日(日)に、私も懇意にさせて頂いている
学習塾経営研究会の河野先生のセミナーが大阪であります。
通称「100人会」と呼んでます。
ご興味のある方は、連絡お願いします。
あと1名くらいなら入れるかな、ってさっき言っておられました。
これから塾を始める方や、今の塾を辞めようと考えてる方や
独立して1,2年の方が対象だそうです。


この河野先生(超〜塾長先生)のセミナー、実は、私も参加される方々の前でお話させていただくことになっている。

大手塾を辞めて独立して小さな塾を開業した私が、同じような境遇の方や、これから志を立て、独立を目指す方の前でお話をさせていただく。

何だか「同志」の方の前でお話をさせていただく心境だ。

塾を開くにあたって、自分自身も「死んだ気になった」努力をしたつもりであるが、その過程で様々な方々のご助言やご協力をいただいた。

それがどれだけ大きな力になったことだろうか。

それなしでここまでたどり着くことはあり得なかったろう。

おかげさまで、我が塾は現在、ほぼ全学年定員を満たし、夏期講習会の開催もできない位の状況だ。

力になってくださった方々には心から感謝をしている。

であるから、私もこの一年で自分した経験を精一杯お伝えして、微力ながら、志ある方の力になれればと思う。

自分が主催のセミナーではないので、どこまで話せるかは分からないが、惜しみなくお話をさせていただこうと思っている。

一年前の自分が10万円払ってでも聞きたかったお話をするつもりだ。

さて、どんな方が参加するかはまったく聞いてはいないのですが、ところでりんご先生、これ参加するには、どうやって申し込むのですか?


素人の素朴な疑問(ピアノ編)

期末試験は副教科の試験もあり、時折音楽の質問も受けることがある。

「和音(コード)」や「音階(スケール)」が試験範囲に入ると大変だ。音楽の素養、ピアノを習っているとか、ギターが弾けるとか、がないと音楽の授業だけで理解するのはかなり難しい。授業時間に限りがあることもあって、教える方はよほど覚悟を決め、必死で取りくまないととてもじゃないが理解させられないだろう。

しかしながら、自分の中学生のころの記憶を辿れば、私の音楽の先生は、ご自分が音楽を小さいころから学ばれているためか、ドミソ、ドファラ、シレソが聞き分けられない生徒や、「ト長調」というのがいったい何を意味するのかということが理解できていない生徒のことを理解できないようであった。少なくとも一所懸命には教えてくれなかったし、何だか見下されているような気もした。

そんな経験があるものだから、音楽を生徒に教えるときには絶対に理解させてやろうとかなり力が入る。塾には家から持ってきたギターが一本置いてあるくらいだ。

ギターは「音階」を理解させるのにはピアノより都合がいいと素人は思う。というよりギター的な視点(うわ、とてもいい加減な言葉の使い方だ)に立つと、ピアノってどうよ、と思ってしまう。第一、鍵盤がハ長調を基に作ってあるではないか。

↓これ(kamiesu画)

(↑オーマイガッ!りんご先生に指摘されて発覚。鍵盤の絵が間違っている!自らを戒めるために訂正せずに放置することとする。)

↓こっちの方がよくないだろうか?白鍵が全音で、その間の黒鍵が半音。もちろんドレミファソラシドを弾こうとすれば、当然黒鍵も弾かなければならない。こうした場合、ギターのフレットの印のように、目印にどこかの音には印をつけておく必要がある。(瞬時に絶対音のドの位置が分からないから。)


こっちだと一つのスケールを手クセで覚えれば、全キーで弾けるようになる。移調が楽チンである。おまけにミとファの間が半音ということも練習の段階で理解できる。メジャースケールとマイナースケールを叩き込めば何でも弾ける。そ、それにもしかしたらコードを押さえるときはメジャーとマイナーのカタチを一つずつ覚えれば全てのコードが弾ける!(もちろんセブンスだとか、テンション系などは除く)

なぜこうなっていないのでしょうか?今のピアノの形はいびつではありませんか。昔々のカタチのまま、無理やり現代でもやりくりしているのではありませんか?今からこうはできないですか?私と同じことを考えた人はいませんか?もしかしてネットを調べたら分かることでしょうか?

イラストまでわざわざ描いた上に、せっかくここまで書いてしまったのでそのまま載せることにします(笑)なにぶん素人の戯言ゆえご勘弁ください。





「愛情」は昇華されなければならない

結局私が言いたかったことは猫ギター先生のブログのこの言葉に凝縮される。

生徒がかわいいから学力を伸ばしたい、学力を伸ばしたいから技術を上げるというベクトルこそが、教師としての正当な進化である。
良い先生の授業は突き詰めれば、蒸留水のようなピュアなものになる。素晴らしい映画の監督が、完全に裏方に徹しきるように、わかりやすい授業をする先生は、授業中に決して出しゃばらない。「技術」で「愛情」がナマの形で噴出するのを、理知的に防ぐ。


なんとも名文である。

私は1度、電車内で授業のリハを無意識にやっていて、大恥をかいたことがある。
ウォークマンを聞きながら、周りに乗客がいることをうっかり忘れ、地理の統計の授業のリハをやってしまったのだ。

カカオ豆の生産の1位はコートジボアールである。アフリカのギニア湾岸の国で、昔はフランスの植民地だった。コートジボアールという名はフランス語で、象牙海岸という意味だ。

コートジボアールという国名は覚えにくい。一発で頭に入らない。だから生徒に「コートジボアール」と発音させようと思った。声に出すと記憶が定着しやすい。
ただし、普通に棒読みで「コートジボアール」と発音しても面白くないので、フランス語的発音で"Cote d'Ivoire"と言ってもらうことにした。

私もフランス語なんて全く知らないから、手本はフランソワーズ=モレシャンしかいない。
電車の中で舌を巻き、口を尖らせ、喉を全開にし、普段使わない口の筋肉を駆使しながら「こ〜と、でぃ、ぼ、あ〜る」「こ〜と、でぃ、ぼ、あ〜る」「こ〜と、でぃ、ぼ、あ〜る」と、フランス人になりきり、モレシャン風に練習してみた。

我に返ると、周りの4〜5人の乗客が、私のことを凄い目で見つめていた。そして私と目が合うと、観客はみな瞬時に私から目を逸らした。


塾講師はこうでないといけないと思う。「コートジボアール」、何回もテストして覚えろ、ではない。それが覚えにくいなら何とか工夫をする。ピエロになっても、うっかり「変なヤツ」になっても智恵を出し、工夫をし、授業を練る。

これくらいの「狂気」があってこその塾講師である。まゆみ先生とまなみ先生にもぜひこのブログを読ませたい。私達は「狂気」と言っていいほどの「情熱」をもってして、「愛情」を「技術」に変換して生徒に提供するのである。だから「プロ」なのである。

ちなみに私は猫ギター先生のようなことをやることがあるが、大抵クルマの中でやるので先生ほどの問題は生まれない(笑)ちなみにもちろん安全運転である。




京都に行きたい

例によって忙しくなると精神が逃避して京都に行きたくなる。

大黒ラーメンもしくは新福菜館でラーメンを食べて、河原町をぶらぶら歩いて本屋へ寄ったり、三条サクラヤのカメラを見たり、新京極を抜けて、錦市場で美味しい漬物を選んだりしたい。

ただ、夏の京都は暑い。

死にそうに熱い。

だから夕方から夜にかけてがいい。

すると帰るのがめんどくさくなる。

そのまま泊まりたくなるが、それには京都は近すぎる。

そんなことをつらつら考え、脳内旅行を満喫(?)してしまう。

ああ、そういえば、伊勢にも行ってみたいぞ(笑)


「技術」がなければ「愛情」も存在しなくなってしまう

もし私が若い先生の研修を担当するならば、徹底的に「技術」を磨くことを要求するだろう。

黒板の使い方、発問の仕方、生徒のノートを使って一対一で説明するときの方法、叱り方、褒め方、そして話し方など、あらゆることに「技術」があり、それを徹底的に磨くべきだと懇々と語るだろう。

教育の中で「技術」の占める割合はそう多くない。多分10パーセントくらいのことだと思う。教育には「技術」以外の大切な要素が山ほどある。猫ギター先生の先日のブログでも「技術」以外の要素、たとえば「熱心さ」や「愛情豊かな」ことが評価され、歓迎されるということが書かれていた。誠にその通りで、教育は様々な要素で評価され、「技術」以外のことに目が向きやすい。

だからこそ話がややこしくなる。

「技術」だけで教育はできないが、「技術」がなければないほど、教育は「うまくいかない」リスクを負う。私はそう思っている。

親は子どもを愛している。しかし子どもを愛しているからといって「子育て」が必ずしも上手くいくとは限らない。

「愛情」は目に見えない。ということは、「愛情」が示されるときは、必ず「言葉」や「態度」などの「行為」に変換されるということだ。ならば、「愛情」を正しく「変換」できる「技術」がなければ、その人の内側にある「愛情」は正しく伝わらない。その人の愛情は「存在しないも同然」か「変質して存在」するかのどちらかということになる。

「先生はなあ!お前のことを考えて言ってるんだ!」

先生は熱く怒鳴っているが、生徒は怒りの滲んだ顔をで先生を見ている。そういうシーンは日本のあちこちで起こっていることだろう。そういう悲劇も、「生徒のことを思う」気持ちを上手く伝える「技術」があれば回避できたかも知れない。

「愛情」一つとってみても「技術」がなければ伝わらないのであるから、学習指導において「技術」が大切であるのは言うまでもない。

まあ、とにかく「技術」にはこだわっていきたいのである。