家内の朝顔

今年、私の家内は庭のいたるところに朝顔の種を蒔いた。

そのお陰で最近は毎朝色んな種類の朝顔の花が咲いている。

毎朝庭へ出るのがちょっとした楽しみだ。

朝顔なんていうとついつい小学校のときの鉢植えを連想するが、朝顔は本当に色んな種類があって、あれでなかなか奥が深いらしい。

毎朝朝顔を見ていると、この花の儚さみたいなものに惹かれてしまう。

朝顔は、結構大きく咲くくせに、本当に自己主張が控えめな花だ。

「茶々丸」という品種の朝顔がとてもいい。

何と小豆色の花を咲かせる。

花の形も丸ではなく、多角形で可愛い。

こんなことまで書いて写真をアップしない自分を本当に物ぐさだと思う(笑)

その物ぐさの証拠に、我が家の庭は朝顔は奇麗なのだけれど、草がそれはもうボーボーに生えまくっていて、ところどころ飼い犬の通り道が「獣道」になっている。

朝顔は奇麗なのだが、そこのところは憂鬱の種である。











ヨシムラ8耐優勝

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ほんの少しだけ美しくなれるかもしれない

「不完全な」人間が「不完全な」人間を指導し、育てる。教育の本質はそういう「危うさ」を含んでいる。

それだからこそ私達は日々努力して研鑽し、自分を磨いておかなければならない。教える側が自分を磨く努力を怠れば、その人が放つオーラは淀み、力を失う。指導者が「力」を失えば、「言葉」は生徒に届かなくなる。

「自分磨き」は自己のためならず。「他者」のために自己を磨き、それが最終的に自己のためになる。自己救済のためにまず自己を捨てる。なにやら宗教みたいだが、そういう心構えでいることが大切だ。傲慢な人間である私はそう思っていないと道を踏み外すと思っているのだ。

「常識」や「権威」を常に疑い、子どもが変わっていく「事実」だけを見据える「力」を持つべく日々修業する。そういう心がけでいると、人間ができていない私は「似非」なものをどうしても憎んでしまう(口にはしないが)。ちょっとした「修業」の副作用か。

そういえば、「不完全な」人間が「不完全な」人間を指導し、育てる。だからこそ人間の素晴らしさが際立つ、そんな瞬間もある。そういうものを垣間見たときは、ほんの少し美しくなれたような気がしてしまう。だからこの仕事がやめられない。






それでもやっぱり

昨日のこと、ある中1生の女子が職員室へ来てこう言った。

「先生、この間の英語の授業を休んでしまったので、その分の授業のところ教えていただけますか。」

私はその子に返答した。

「休んだ分の補習は基本的にはやりません。今日の授業を聞いていたら、自分で勉強できると思います。わからないところがあったらまた聞いてください。」

正直心が少し痛むのであるが、休んだ授業の補習は「基本的には」行わない。もちろん分からないところを質問に来たのなら、いくらでも時間をかけて教える。しかし「休んだ分の引きかえ補習」は行わない。我が塾では「遅刻・欠席が原則禁止」だからだ。

とても冷たく聞こえるのは百も承知している。しかし、私にはどう考えても「休んだ分を後で補習します」というのが生徒のためにならないというのが私の考えだ。生徒のためにならないことをやるわけにはいかない。

休んだ子に補習を行うと、「休んでも補習をしてもらえる」ということを覚え、「補習をしてもらえるから今日は休もうか」と自分に言い聞かせる材料にし、時には親に休む言い訳、説得材料にしてしまう子も出てくる。どの子もそうなるわけではないが、そうなる子が必ずいて、そしてそういう子は中々成績が伸びないのである。

赤虎塾長が仰ってることは本当にその通りだと多くの塾の先生が思っておられるであろう。

一方、授業が面白く、しっかりしていれば生徒は必ず来るはずだという考えの方もおられるやもしれない。しかし人間というものは生来怠け者である。「補習をしてもられる」のならば、いくらでも自分自身を正当化し、「説得」できてしまうのである。それは教師がよい授業をすることとは別の問題であるように私は思う。

「大人の心の良心に従う」行為は必ずしも子どもの成長に繋がるわけではない。「良かれ」と思ってした行為が子どものためにならないことは少なくない。特に現代社会の少し温んだ「良心」は危うさを含んでいる。

「補習をしてあげる」というのは良心から出てきた行為(あるいは「商売」上のサービス)なのであろうが、それが子どもの成長に繋がらないのであれば理性でもって、彼らのためになる道を進めていくのが「プロ意識」である。

(もちろん原則を崩して、それが必要だと判断した場合は躊躇無く行動するのもプロ意識であり、休んだ子に補習を行う場合(特に長期欠席など)もあって、この夏もそういう事情が発生する。あらゆることに「こだわりこだわらず」頑固に、しなやかに、そういう姿勢でいたい。)




中3ようやく始動か

夏の気合の入らぬまま夏期特訓に入ってしまった中3。

ようやく力が入ってきた。

教室が少しだけ熱を帯びている。

まだまだ満足できるレベルではないが、「変化」があるということはとてもいいこと。

彼らがもっともっと熱を帯びられるように指導する側こそが熱を帯びたい。

夏は「汗」をかかなくてはね。