やらなきゃよかったか?KUMON式(10)

結論から言えば、私は息子のKUMONを今のところやめさせるつもりはない。あの教材を自分で色んなところから見繕ってそろえるのは大変である。だからKUMONの教材を使っていこうと考えている。

KUMONの批判を続けてきたが、KUMONにはよいところもある。何よりいいのは子ども自身が自分の成長を目に見える形で捉えることができるということである。そしてそこから成長の喜びや継続の大切さを学ぶことができる。そういう点は素晴らしく、だからこそあれだけKUMONが強く支持されたのだと思う。

よいところはよいで認め、足りない部分は親の勉強と働きかけで補うというやり方をするということである。といっても我が家の場合は家内が幼児教室のスタッフだったこともあり、私もこのような仕事をしているので、一般の方よりも大変ではないと思う。

現代の子育てにおいては、親は「子育てのメンター」ともいうべき人を持っておいた方がよい。昔と違って「子育て」は孤独な作業となってしまったからである。子育てについて相談したり、客観的な意見をしてくれる、教育の技術と力量を持った人がいれば親の負担は減り、良い子が数多く育っていくのではないだろうか。

そのような「メンター」の役割を、多くは幼児教室の先生や塾の先生が担っている。塾の先生は子育て相談を受ける機会がとても多いのである。(学校の先生は様々な理由で「メンター」になり得ていないのが現状だと思う。)

本来ならば、KUMONこそ地域社会の中で子育ての相談に乗り、親の子育てのサポートをなすべきだろうと思うのだが、そうなっていないところにちょっとばかり憤りを感じるのである。(むしろ子育ての悩みを大きくしてはいないか?)

このシリーズ、私は一貫して「公文」とは書かずに「KUMON」と表記してきた。それはまったく私の印象であるが、かつて「公文式」がスタートしたころの理念と「KUMON」の理念が違ってきているのではないのかという疑念が根底にあるからである。

さて、息子と家内のことを軽く見ていた先生のことであるが、当初は私がいっちょ乗り込んで話をしてやろうかなとも思っていた。しかし、家内はそうとうビシッと文句を言ったようで、先生の態度が変わったらしい。私の出る幕はなかった。母は強しである。

(おわり)
※長いこと読んでいただきありがとうございました。


やらなきゃよかったか?KUMON式(9)

幼児教育を行う場合、親をサポートすることは大切なことである。それをするべきは一般的には「先生」なのだが、KUMONは基本的に「先生」をあてにはしていない。どんな人でもKUMONの教室を開くことができるように教材を作成している。それはビジネスの視点から見た場合、数多くの教室を展開するならば当然のことだろう。

息子のKUMONの教室では息子が問題を解いているときもひっきりなしに電話がなる。生徒の親が終了時刻を尋ねるためにかけてくるのだ。そして生徒の中には騒がしかったり、ニンテンドーDSを持ってくるような子もいるらしい。

ときおり本部の先生がチェックに来ていることもあるらしいが、そういうチェックの後もさほど改善がないので、チェックに来た本部の先生も教室の状態を抜本的にカイゼンするつもりがないのか、するだけの力がないかのどちらかだろう。

ときおり、地域で評判になり、生徒があふれかえるKUMONの教室がある。例外なくそれはその教室を担当している先生がよいのである。そしてそういう先生のほとんどはどこかの学校、あるいは塾、幼児教室の経験をお持ちで、KUMONの教材を用いて、独自の教育を行っておられるのだろうと推測する。そういう教室が近隣にあればそれはとてもラッキーなことだ。

KUMONは教材を売っているのではない。教室へ生徒を通わせて月謝を取っている。であるならば指導者の質をそろえる努力をしなければならない。しかしそういう努力は結果となっては表れていないのが現状であろう。

KUMONのHPを見ると「教わるのではなく自ら学ぶ学習法です」と書いてある。なるほど、と思う。こう書けば「教えなくてもよい」のだ。

(つづく)

やらなきゃよかったか?KUMON式(8)

息子の「魔法のツール」である「おはじき」は息子の手助けとなるだけでなく、他にも色んなふうに使われる。「おはじき」の使い方は無限だ。

たとえば、おはじきを隠し、一瞬だけ見せて隠す。その数をあてさせる。それなりの意図はある。息子はもっとやってもっとやってというが長くはやらない。それも意図がある。

●●● ●

これはっ?

「4!」

●●● ●●

これはっ?

「5!」

●●● ●●
●●

これはっ?

「7!」


KUMONで学力を伸ばした多くの子は、親が多かれ少なかれこのような働きかけを行っているだろう。その手法やアプローチはKUMONから提供されたものではなく、親が自ら学び、勉強し、獲得したものをベースに行っているので、そういった意味では、その子の学力を伸ばしたのはKUMONではなく、親である。

KUMONは親に「KUMONをやらせるなら、親が頑張らないといけませんよ」とは言わない。そこのところを明確に言うなら私はもっとKUMONを評価するのにと思う。なんといってもKUMONは不誠実なのである。だからこそあれほどの「アンチ」を生むのだろう。

(つづく)

やらなきゃよかったか?KUMON式(7)

一般的に「幼児教育」の世界では子どもへの教育だけでなく、親へのフォローや、働きかけがあり、時には親に「幼児教育」を勉強するようプレッシャーをかけるときもある。私はそれは正しいことだと思う。

幼児を教育することに関しては、どんなに教育機関が頑張っても親の影響を超えることなどできない。だから子どもを伸ばそうとすれば、親へのアプローチが行われるのは当然である。

しかしKUMONにはそういう側面はない。もしくは限りなく少ない。ウチは息子を通わせているのでそう断言できる。そのくせ莫大になっていくプリントを親子はこなしていかなければならない。中にはその過程で歪んでいく場合もあるだろう。

「子どもが勉強嫌いになった」

「ウチの子は文章題が苦手です」

「算数を暗記でしか捉えられません」

KUMONの勉強の過程で、そうなってしまった子がいて、それは誰の責任なのだろうかと考えてみる。それはやはりKUMONの責任なのではないかというのが私の意見だ。

親は子どもの勉強をできるようにさせたくて、日々のプリントをさせていくのである。時にヒステリーを起こしながら、親子で泣きながらKUMONのプリントをやっている、そういうのは日本全国津々浦々数限りなくみられることだろう。すべては子を伸ばしたいと思う親の愛情なのである。それを「あれは馬鹿親なのだ」と責任を親の方に持っていってしまってはあまりに非道である。

親だって教育の知識を持っていたほうがよいし、そうするべきだとも思うが、あれだけのプリントをさせていくのだからKUMONからのフォローはあるべきだろう。フォローならありますと、KUMONにはKUMONの言い分があるだろうが、それは絶対的に足りない。

(ちょっと本筋から外れっぱなしですがまだ続きます)


やらなきゃよかったか?KUMON式(6)

KUMONには根強い批判がある。私のブログにも「公文の弊害」なんていうフレーズで検索してたどり着かれる方がちょくちょくおられる。以前にそのような内容で書いたブログにヒットするらしい。

そしてKUMONに関してブログを書くと、必ずといってよいほどKUMONへの「悩み」あるいは「批判」、そして「意見」を書き込んでくださる方がおられる。それは世間のKUMONに対する微妙な思いを反映しているようにも思われる。

そのようなKUMONへのネガティブな印象を持つ方が一定の割合で存在する一方、私が教えてきた生徒の中で、成績優秀だった生徒、それこそ東大寺学園なんかに合格する子の中に「公文経験者」は多かったのである。

はたしてKUMONはよいのか、悪いのか?

結論は簡単なことで、それは『使い方次第』なのである。世の中には完全なカリキュラムもなければ完全な教材も存在しない。つまり「これだけやっておけばどんな力もつきます」というシステムは存在しないのである。

息子の勉強用の机(といってもアンパンマンのテーブル)には「おはじき」が置いてある。その使い方を家内が息子に教えてやったとき、彼はこう驚きの声を上げた。

「これあったらどんな問題もできるやん!」



KUMONは他のシステムと同じく「オールマイティ」ではない。「欠けた部分」がある。それは補われなければならない。塾や学校の先生の多くは分かっていることだが、「親」である方の多くは分かっておられない(それは当然のことだ。親は教育の専門家ではない)。しかしそこをKUMONは明確にしていないと私は思っている。(意図的に?)「オールマイティ」のふりをしているのではないか。

そしてその「欠けた部分」を(実質は)親におんぶしてやりくりいることを明確にしておらず、「KUMONをやっていれば大丈夫です」という印象を世間に与えたままにしている。KUMONに対する批判は、そういうKUMONの「誠実さに欠けるところ」から起こっているのではないか。

(まだつづいてもいいですか)