「そのミスは俺のせいだ」

次の各組の文がほぼ同じ意味になるように、(    )に適する語を書きなさい。
This hat is so small that I cannot wear it.
This hat is ( ) small ( ) me to wear.


この問題は難しくない。よく見る問題である。どうということはない。どうということはないのだけれど、この問題は結構誤答が出てしまう。

何故か?

力量ある先生ならばきっとピンとこられるのではないかと思う。(分からない方はちょっと考えてみてください。)

何故、誤答が出てしまうのかというと、これの答えを、( too )( to )としてしまう子が後を絶たないからである。しかもこれが結構少なくなかったりする。(念のために言っておくと答えは( too )( for )である。)

こういうのは、本人のうっかりミスということになっていて、それは生徒自身の責任ということになっている。先生は「うっかりミスは駄目だぞ〜」なんて言いながら、軽く見ていることも少なくない。

でも、この手のミスは大きな問題をはらんでいる。先生の指導のせいで、こういうミスが頻発するようになっている場合も多いのである。

どういう指導をすると、こういうミスが出やすくなるのか。

「先生が大量の宿題を与え続ける」とクラス全体にこういうミスが出やすくなるのである。「大量課題」というのはとても難しい。軽く考え、安易に出してはいけないと私は思っている。

生徒は、大量の課題をこなさなければならないために、いちいち問題をじっくり読んでいるわけにはいかなくなる。そうして反射的に解答するクセがついてしまうのである。(人は自然と楽をしようとするものだ。×の不快より、課題をじっくりこなす苦しみと手間の不快が上回るのだ。)

「あっso that (の構文)だ。cannotがあるから、too to (の構文)だ」

と、問題文をろくすっぽ読みもせずにやってしまう。

先生が大量の課題を与え続けておいて、それで同時に「うっかりミス」を失くせと言う。口で言うだけでは指導者としてよい仕事をしているとは言えない。

「うっかりミスはいけないぞと何度も口酸っぱく言ってるんですがね〜」

ゆめゆめ先生はこういうセリフで指導したつもりになってはならない。そんなのはプロではない(と私は思う)。うっかりミスを失くすためには、失くさせるためのアプローチが必要なのである。そういう手が打ててこそ「プロ」である。

その「手法」は色々あるが、ここには書かない。大量に課題を出し続けることは、こういう問題を孕みやすいということを分かってさえいれば、指導の際に気をつけるべきことはおのずと見えてくるからである。

大量の課題をやらせることが必要な時期はもちろんある。「量」をこなすことは高い学力をつけるためには必要不可欠である。しかしながら、「たくさんやらせりゃいい」ってもんでもないということに気づけないと、愛する教え子の点数は伸び悩んでしまうことになる。

気づけるのは「そのミスは俺のせいなんだ」と思うことができる指導者だけである。


合格祈願祭

昨日は中3生の勉強会の合間に『合格祈願祭』を行った。

神職の方に来ていただいて、教室に祭壇を設け、正式な祭式を斉行していただいたのである。

ベテランの神職の方は祝詞奏上にも重みがあり、身が引き締まる感じでとても気合が入る。

神職の方にお言葉を頂いた後、私も生徒達に話をする。

「祈ることは自分に誓うこと。精一杯の努力を自分自身にも誓って後は天命を待つのみ。」

そんな内容のこと。

話しながら生徒達の顔つきを見る。

いい顔、いい顔、いい顔、いい顔、いい顔。

人は苦しみの中からしか学べない。

そして努力は人を美しくする。

それは本当に間違いないことだと改めて思った。


確信犯

「夜スペ」のネーミングにケチをつける人が山ほどいるが、あれは間違いなく「確信犯」だ。

あの校長はわざとやってる。

凄いなあ。



(「確信犯」という言葉の誤用のご指摘はカンベンしてください。私も「故意犯」です)





一年間ありがとう

『仮面ライダー電王』が終わった。親子でどれくらいこの一年間楽しんだことだろう。

『仮面ライダー電王』は時をかける電車、デンライナーに乗って敵と戦う。時間を旅しながら敵と戦う仮面ライダーとしては新しい設定の入ったライダーだった。

ネットで見ると、歴代の「仮面ライダー」は広げすぎたシナリオを最後にまとめることができず、最終回あたりでグダグダになることが多いらしいが、『電王』は最後までうまくまとまっていたと思う。

今、「仮面ライダー」を成功させるには、子供だけでなく、大人も引き込まなければならない。大人を意識し過ぎると、子供を楽しませることがおろそかになりやすいものであるが、「電王」は大人も子供も存分に楽しませてくれた。

親子で「電王ショー」にも行ったし、「ベルト」やら「武器」やらも買った。それで遊ぶ息子の姿を見るのも本当に楽しかった。それらは決して安くはなかったが、全然もったいなくなかった。

こんなの本当は最終回の放映された日に書きたかったのであるが、当日はセンター試験があり、そんな日にこんな呑気なことを書くわけにもいかず、一週間待ってこれを書いている。

電王ベルト
GR DIGITAL 『電王』に変身するには、このベルトのバックルに「パスケース」をかざす。

5歳の息子は大いに『電王』を楽しんだ。『電王』に夢中だった。何度も何度も「変身」を繰り返し、バックルのメッキはハゲハゲになってしまった。将来、私が息子の子供のころを思い出すとき、きっと「電王」になりきっている彼の姿を思い出すことだろう。

時は流れる。やがて息子はこのベルトに目もくれなくなる。でも私は「電王」を忘れない。息子がこのベルトを触りもしなくなった頃、私はこのベルトと、変身するのに使う「パスケース」を何か綺麗な布で作った袋にでも入れてずっとしまっておこう。そしてこの変身ベルトと共に私もゆっくりと時間の旅をすることにしよう。


残されたメッセージ

今日は塾の近くの「とりでん」という居酒屋のランチで昼食をすませた。濃い味付けのものを食べたかった私は鶏すき焼きうどんセットを注文した。すき焼きの濃い味付けでご飯をかきこむのは最高である。ところが、アツアツの土鍋に入って出てきたそのうどんはすき焼き風の味付けがされたうどんではなく、ただの出汁のうどんであったのだ。これはかなりのショックだった。

ご丁寧に生玉子までついているのだけれど、薄い出汁味のうどんを生玉子につけて食すわけにもいかず、どうにも困った。長いこと考えた末、出た結論は、これは店の人がレシピを間違え、メニューの隣にあった「豚バラとろろうどん」の出汁を「鶏すき焼きうどん」の材料で作ってしまったのだ、というものだった。

時間も無かったので、とりあえず生玉子はおいておいて、うどんを最後まで食し、店を出、レジでお金を払うときに、私はおねえさんにていねいに言った。

「あの、この鶏すき焼きうどん、レシピ間違ってませんか?どう考えてもすき焼きではないと思うんですけれど。ちょっと確かめておいてもらえませんか。ちょっと納得がいきません。よろしくお願いします。また食べに来ますので。」

そう言い残し、(もちろん)お金を払って店を出た。

この店は何度か通っていて、店の人が真面目なのは分かっている。店には自己啓発の本から引っ張ってきたような「ポジティブな言葉」が書かれた紙がきれいに貼ってあって、きっとそれ系の勉強を店長がしているのだろうなと想像させる。いい「空気」を店に流そうと色々工夫をしているのが分かる。

店の人が真面目なら、きっと私の土鍋を下げるときにチェックをするはずである。レジの女の子は店長に、あるいは責任者に報告をするだろうか。もし報告があったら、店長は私の土鍋をチェックするだろうか。

そういうときのために、私は土鍋の中に出汁をいくらかと、うどんを一本と焼き豆腐を一つ残しておいた。真っ白なうどんや焼き豆腐を見れば、もしレシピが間違っていたのなら絶対に気づくことだろう。レシピ通りであの味付けはないはずだ。メニューに写っている写真をみても、うどんは醤油色に染まっていたからである。

次はいつ行こうか。