2008.02.29 Friday
2008.02.28 Thursday
皆頑張れ。俺も頑張る。
学校で公立の受験校を変えるように言われてきた子が何人かいる。実際に合格が難しい子なら仕方もないが、どう考えてもそうではない子も色々言われてきた。
よくよく話を聞くと、志望者が多い学校の「倍率」均しのような感じだ。確かに合格が厳しい子ならそういう話も必要であろうし、落ちる子を出したくないという気持ちも理解できる。
しかしながら、そういう話は、相手を一人格として敬意を払って話をしてあげてほしいと思う。頑張ろうという気持ちにさせてあげてほしいと思う。
色々言われた子は心が揺れる。
彼らが自己の存在を賭けて頑張っているのが分かるから、おいおいそりゃないだろうと正直腹が立つ。
「あんた、この子達に本気かい?」
俺は心の中で顔も知らない先生に思うのだ。
よくよく話を聞くと、志望者が多い学校の「倍率」均しのような感じだ。確かに合格が厳しい子ならそういう話も必要であろうし、落ちる子を出したくないという気持ちも理解できる。
しかしながら、そういう話は、相手を一人格として敬意を払って話をしてあげてほしいと思う。頑張ろうという気持ちにさせてあげてほしいと思う。
色々言われた子は心が揺れる。
彼らが自己の存在を賭けて頑張っているのが分かるから、おいおいそりゃないだろうと正直腹が立つ。
「あんた、この子達に本気かい?」
俺は心の中で顔も知らない先生に思うのだ。
2008.02.28 Thursday
朝の光
2008.02.27 Wednesday
出席簿3
「通知表の英語の評価が4から5になったね、よかったね。」という言い方は、正確に言うと、言葉の使い方が間違っている。
こういうときは「評価」ではなく、「評定」と言わねばならない。「評価」を数値化したものを「評定」というのである。
といっても私も、そういつも正確に使っているわけではないが。
私がこの話で違和感を感じたのはこういう場面で「評定」を用いることにある。
しかもそれが「2段階評定」。「がんばっている」か「がんばっていないか」のどちらかであり、「結果を出しているか」「結果を出していないか」のどちらか。
生徒達だけでなく、我々も含んだ人間というのはそんな単純な存在ではない。
スイッチがオンやオフになったりするように頑張ったり、頑張らなかったりというはない。
色んな「気持ち」を行ったり来たりしている複雑で豊かな存在だ。
それを理解するのに「二段階」の「評定」を使うのは私の哲学で言えば「間違い」なのだ。生徒をデジタルに評価し、それを評定にしていくことも嫌だし、そんなことを誰かにされることを考えるともっと嫌だ。
「評定」というのは元々仕方なく、お手軽に使われるものなのである。
何より「本質」を正確に表現するものではない。だから心ある学校教師は生徒達に「評定」をつけるときに絶対に悩んでいるはずである。
GR Digital
Photoshopで「二段階階調」に加工
生徒を知り、理解することは私達の仕事の大きな柱の一つのはず。そこはお手軽にしたり、形式的にしてはいけないと私は思っている。
生徒の情報を得たかったら、マメにスタッフ間で生徒の話をいっぱいすればいい。口角泡飛ばし、誰彼がこうだった、ああだったと言えばいい。飯を食いながら、酒を飲みながら、教育の話をしながら、馬鹿話をしながら、生徒の話もいっぱいする。そのほうが絶対に情報は共有できる。
それが時間的に、物理的に無理というなら、出席簿(名簿)には「評定」ではなく、「評価」を綴るべきだ。「評定」の何倍も生徒が分かるはずである。
今回、出席簿の大きさをB5からA4に変更した。サイズを一回り大きくしたのである。1クラスがせいぜい20人の塾であるからA4の出席簿には色々書き込める。
新しい年度に向け、大きいことから小さいことまで、よりよい塾を作るための努力はできるだけしておきたいのである。
こういうときは「評価」ではなく、「評定」と言わねばならない。「評価」を数値化したものを「評定」というのである。
といっても私も、そういつも正確に使っているわけではないが。
私がこの話で違和感を感じたのはこういう場面で「評定」を用いることにある。
しかもそれが「2段階評定」。「がんばっている」か「がんばっていないか」のどちらかであり、「結果を出しているか」「結果を出していないか」のどちらか。
生徒達だけでなく、我々も含んだ人間というのはそんな単純な存在ではない。
スイッチがオンやオフになったりするように頑張ったり、頑張らなかったりというはない。
色んな「気持ち」を行ったり来たりしている複雑で豊かな存在だ。
それを理解するのに「二段階」の「評定」を使うのは私の哲学で言えば「間違い」なのだ。生徒をデジタルに評価し、それを評定にしていくことも嫌だし、そんなことを誰かにされることを考えるともっと嫌だ。
「評定」というのは元々仕方なく、お手軽に使われるものなのである。
何より「本質」を正確に表現するものではない。だから心ある学校教師は生徒達に「評定」をつけるときに絶対に悩んでいるはずである。
GR Digital
Photoshopで「二段階階調」に加工
生徒を知り、理解することは私達の仕事の大きな柱の一つのはず。そこはお手軽にしたり、形式的にしてはいけないと私は思っている。
生徒の情報を得たかったら、マメにスタッフ間で生徒の話をいっぱいすればいい。口角泡飛ばし、誰彼がこうだった、ああだったと言えばいい。飯を食いながら、酒を飲みながら、教育の話をしながら、馬鹿話をしながら、生徒の話もいっぱいする。そのほうが絶対に情報は共有できる。
それが時間的に、物理的に無理というなら、出席簿(名簿)には「評定」ではなく、「評価」を綴るべきだ。「評定」の何倍も生徒が分かるはずである。
今回、出席簿の大きさをB5からA4に変更した。サイズを一回り大きくしたのである。1クラスがせいぜい20人の塾であるからA4の出席簿には色々書き込める。
新しい年度に向け、大きいことから小さいことまで、よりよい塾を作るための努力はできるだけしておきたいのである。
2008.02.25 Monday
無駄をすべて削ってしまうとそれはそれでよくない
昨日職員室のコンピューターの整理をし、仕事が快適なようにあれこれやっていたら、ネットにつながらなくなってしまった。一大事である。
あれやこれややってみたがまったく埒があかず、あげくは大学でコンピューターを教えている義兄にまで電話で尋ねる始末。それでもわからない。
二時間以上奮闘したあげく、奥にしまいこんでいた光ケーブルのルーターだかアダプターだかの電源が抜けていた。塾の電話を取ってもうんともすんとも言わないので気づいたのである。(義兄には悪いことをした。)
この忙しい時期にまったくの無駄な時間だったわけであるが、(これのおかげで今日しめきりのチラシの原稿の完成が遅れた。)メリットもないではない。義兄にいろいろ尋ねてコンピューターに詳しくなってしまった。おそらく今後コンピューターのトラブルを抱えたときにはうまい対処ができるかもしれない。
塾での授業時間はそう長くない。学校で習っていることを、より深く、しかもそれを学校よりも短い時間でこなさなければならない。どうしても授業の中から無駄を省く癖がつく。しかし「無駄」はそのすべてを削り取ってしまうと、それはそれでよくない。
一問の問題を解くのに一時間も二時間もかけたりすることも時には必要。合理的にはなかなかいかないし、完全なる合理的なものを目指すのもよくないと個人的には思う。
受験直前の中3ともなれば、点数を上げるために極力無駄を省かなければならないが、成長過程にある小学生や中1や中2の生徒達なら、「無駄な努力」あるいは「不器用な努力」を過ごす時間があってもいい。いや、あった方がいいのだ。
けっしてそれは昨日の二時間の苦労への負け惜しみではない。ふん。
GR Digital
ただ「無駄を削ぎ落としたもの」は美しい。機能を追求すると必ずすべてのものは美しくなっていく。上の写真もそう。眩暈を起こしそうなくらいの機能美。
GR Digital
ただし「無駄を削ぎ落とす」には、数限りない失敗や試行錯誤などの、「無駄」の轍を踏まなければならない。
やっぱり「無駄」は必要なのだ。私も数多くの無駄の轍を踏んでいつか美しくなりたい。
あれやこれややってみたがまったく埒があかず、あげくは大学でコンピューターを教えている義兄にまで電話で尋ねる始末。それでもわからない。
二時間以上奮闘したあげく、奥にしまいこんでいた光ケーブルのルーターだかアダプターだかの電源が抜けていた。塾の電話を取ってもうんともすんとも言わないので気づいたのである。(義兄には悪いことをした。)
この忙しい時期にまったくの無駄な時間だったわけであるが、(これのおかげで今日しめきりのチラシの原稿の完成が遅れた。)メリットもないではない。義兄にいろいろ尋ねてコンピューターに詳しくなってしまった。おそらく今後コンピューターのトラブルを抱えたときにはうまい対処ができるかもしれない。
塾での授業時間はそう長くない。学校で習っていることを、より深く、しかもそれを学校よりも短い時間でこなさなければならない。どうしても授業の中から無駄を省く癖がつく。しかし「無駄」はそのすべてを削り取ってしまうと、それはそれでよくない。
一問の問題を解くのに一時間も二時間もかけたりすることも時には必要。合理的にはなかなかいかないし、完全なる合理的なものを目指すのもよくないと個人的には思う。
受験直前の中3ともなれば、点数を上げるために極力無駄を省かなければならないが、成長過程にある小学生や中1や中2の生徒達なら、「無駄な努力」あるいは「不器用な努力」を過ごす時間があってもいい。いや、あった方がいいのだ。
けっしてそれは昨日の二時間の苦労への負け惜しみではない。ふん。
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ただ「無駄を削ぎ落としたもの」は美しい。機能を追求すると必ずすべてのものは美しくなっていく。上の写真もそう。眩暈を起こしそうなくらいの機能美。
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ただし「無駄を削ぎ落とす」には、数限りない失敗や試行錯誤などの、「無駄」の轍を踏まなければならない。
やっぱり「無駄」は必要なのだ。私も数多くの無駄の轍を踏んでいつか美しくなりたい。