印象操作はされないよ

ブログを書くにあたって、自分で決めた「きまり」の中に、「政治ネタは書かない」というのが一応あったのだが、ちょっと書いてみる。

私は今の与党の政治を諸手をあげて支持するつもりはない。それは誤解のないように言っておかないといけない。しかし、今のマスコミの、あからさまに世論を民主党支持へ持って行こうとする印象操作しまくりの報道の仕方にはぞっとしてしまう。麻生総理の所信表明をノーカットで見てつくづくそう思った。







一文一文を短くして畳み掛けるようにして読むと迫力がある。いい演説だ。








こどものきもち

昨日は塾の皆んなでBBQ。家内と息子も一緒。地元で有名な肉屋さんで奮発して肉を買った。BBQで食べるだけでたいがい美味いのに、いい肉なのでさらに美味い。肉よりも魚の方が美味い年齢になってしまった私であるが、ここぞというときに食らう肉はいい。

アウトドアで遊び慣れていない私は、周りのグループの用意周到さに驚く。アウトドア用のターフやら、火を熾すときときの「フイゴ」やら、ピクニックテーブルやら、周りは気合が入りまくっていて凄かった。我々も見習って遊ぶときは、ああありたいと思った。

私達は食べるのが楽しいのだが、息子は、普段食い意地がはっているくせに、昨日は実にあっさりしたもので、肉を数切れ食べたらすぐに遊びたがった。周りには遊びたいものがいっぱいある。「食い気」が負けるのもしょうがない。

息子は一人で遊ぶのも得意なので、若いどんぐりや木の枝を拾ってきては何かに見立てて遊んでいる。木切れを二つゆわえて、どうやらそれは「鉄砲」らしい。本人は実に気に入ったらしく、それでずっと遊んでいた。子どもにはおもちゃは買い与えない方が創造性が増すという説がよく理解できる。森川先生達が食事を終えた後は、ずっと「撃ち合い」に付き合ってくれたので息子はとても満足していた。

(ふだん写真をしょっちゅうUPしているくせに、昨日は私は何やら疲れていたのか、シャッターを一枚も切っていない。)

よく手が入れられたBBQ場は、噴水があり、森があり、アスレチックがあり、子どもを遊ばせるには実にいい場所だ。息子も私達もいい時間を過ごせた。

遊びの時間はいつかは終わる。おうちに帰る時間は必ずやってくる。片付けを終えた帰り際、息子はお気に入りの「お手製鉄砲」を持って帰ると言う。私は駄目だと言った。森や川にあるもの、つまり自然にあるものをみだりに持って帰るのはよくないと思っていたのと、どうせ家に帰ったら見向きもしないと思っていたからである。

息子は「はい」とその場では返事をしたが、車の横でさめざめと泣いているのを家内が見つけた。何も知らない家内が事情を聞くと、「てっぽうもってかえりたかった」とつぶやいたらしい。

「持って帰ったってどうせ遊ばない」というのは大人の意見で、子どもには「大好きなものを持って帰りたい」という思いがすべてだ。たしかにそれは私が間違っていた。家に帰ってそれに見向きもしなかったとしてもそれはそれでよいのである。そのときの息子の思いを尊重するのが正しいのだ。木切れを二つゆわえただけのみすぼらしいおもちゃも彼にとってはその日の思い出つまった宝物なのだ。

「森や川にあるものをみだりに持って変えるのはよくないことだけど、そんなにお前が持って帰りたいなら持って帰ろう。ただし森の神様にはありがとうを言うねんで。」

子どものことを分かってやり過ぎることはよくないことだと思っている。世の中は子どもの理屈だけでは動いていない。社会で生きていくということは社会性を身につけるということであり、それは大人の理屈を身につけるということだ。しかし、だからといって、子どものことを分かろうとしてやらなかったり、子どもの思いを全部無視していいということではない。そこらあたりがとても難しい。

息子は車の中で何度も何度も「森の神様ありがとう」と言い、ずっと手を合わせていた。何でそんなに長いこと手を合わせているだろうというくらいずっと手を合わせていた。


テストになるとできない子(2)

昨日、中2のクラスで行なった「不定詞と動名詞」のまとめテストの中にこんな誤答があった。

道路を渡るときは左右を見なさい。
Look both ways before (   ) the street.

答えは crossing になるのであるが、3人ほど seeing と誤答する子がいた。けっして勉強ができない子ではなく、普段よくできる子の中にもこの誤答をする子がいたのである。

私はこの問題に対して、「seeing と書いた人?」「何も書けなかった人?」というふうに分類して確認をした。何も書けなかった子は、渡る=cross が出なかった子と思っていい。白紙ではあるが、seeing と書いた子よりはまだ高級な間違いだと言ってもいいかもしれない。

seeing と書く子は問題をほとんど読んでいない。こういうトホホな誤答と塾講師はいつも戦っている(笑)。「問題をよく読みなさい」なんていうセリフをいつもいつもお題目のようにくり返していてもこういう解答はなかなか減らない。

なぜこのような「問題文を読まずに解答する子」がいるのだろうか。なぜその子たちは「問題を読まずにでたらめな解答」をしてしまうのだろうか。

長くこのことを考えてきて私が出した結論は、そういう子は「待てない」体質になっているということだ。彼らは「答えが出せない自分」と向き合うことが辛くて、あるいはじっくり最後まで考えるのが辛くて、とりあえず解答欄を埋めてホッとしている。本当は解答欄を埋めることが大切なのではなくて、正解することが大切なのだけれど、本質から外れて埋めることで安心しようとしている。そういうクセがついてしまっているのである。一種の「逃避衝動」にも似た行動だと私は思う。

つまり彼らは「答えを出せないこと」を恐れ、怖がっているのだ。その感情を理解しないとこういうクセの改善はできない。

跳び箱を跳べない子は99パーセントは「筋力」やあるいは「動作の連結の能力」に問題があるわけではない。跳び箱を跳べない子に筋力トレーニングを課してもしょうがない。跳び箱を跳べない子は前方へ跳んでいく自分の体を腕だけで支える「未知の感覚」を恐怖しているから跳べないのである。

跳び箱を跳べない子に「もっといきおいをつけて」とか「もっと力強く」なんていうアドバイスで飛べるようにはならない。跳ぶことの障害になっている「恐怖」を取り除いていないからである。

ところで私は「テストになるとできない子」になりやすい子を授業の中で見つけ出すことができる。そういう子にはある特徴というか、クセがあるのだ。

つづく










テストになるとできない子(1)

テストというのは生徒の学力を測るためのものであるのだが、必ずしも学力はテストに反映されない。普段よくできているのに、「テストになるとできない」子はいるものだ。

テストで解答できないということは、学習内容を理解、習得していないということではないのかと仰りたい方もおられるだろうが、そうではない。教える側から見ても、なんでこの子は授業であれだけ理解しているし、問題も解けているのにテストになるとできないんだろうと、首をひねりたくなる子はいるのである。現場の先生ならご理解いただけるはずだ。

なぜそんなことが起こるのか。私の見解はこうだ。英語で一例を示してみる。

【問】(  )にあてはまる前置詞を入れよ。
   John invited his friends, Jack and Betty ( ) his birthday party.

この問題はinvite 人 to 〜が分かっていればそう難しくない。(この問題にはちょっと仕掛けがしてあるのでそれでも難しいが。)

しかし、この問題の正答率を三分の一以下に落とす方法がある。この問題が単独の独立した問題で出さずに、長文問題の中の一文の中から出題すればよい。長文問題の問題文の中にこの一文があり、後の問いで問題として出題すれば正答率は軽くそれくらいは落ちるだろう。

入試問題、あるいは定期試験などの「テスト」は幅広い範囲から数多くの問題が出題される。一問だけを見つめていたなら出来た子でも、テスト形式で数多くの問題を目の前にすると、一問一問への集中がしにくくなる。一問あたりに配分される集中力が低下してしまう。

「時間内に解けなかったらどうしよう」「この後の問題で難しいのがあったらどうしよう」「周りの子がガツガツ解いてる〜」「このテスト90点以上取れないとヤバイ」、彼らはそんなことを考えながらテストに立ち向かっている。

そして焦った挙句、時間がないからと彼らは時折とんでもない答えを書く。ちなみに上記の問題、焦った生徒が一番書いてしまう誤答は、間違いなく on である。(何故 on になるかは考えていただきたい。)もうまともに問題を読めていないし、問題に向き合えていないのである。こういうのがクセになっている子は少なくない。これはうっかりミスなどという生易しいものではない。

このクセこそが「テストになるとできない」の一番の原因だと私は思っている。

試験で解けなかった問題、テストが終わって見直したら簡単にできた、と悔しがっている声を生徒達からよく聞くことがあるが、これはたまたまの出来事ではない。(テストが終わって、焦っていない状態だからこそ、問題が「見える」のである!)「惜しかった」などと言って悔しがっている場合ではないのである。この問題点を「矯正」しない限り、いつまでも同じことで苦しむことになる。

「テスト」で点数を取るには、問題を解く「力」に加え、「テスト」で自分の力を出し切るという別の「力」が必要になる。

さて、どういう子が「テストになるとできない子」になり、どうすればそういう子がテストで点数を取れるようになるのか。次にそれについて書いてみたい。

つづく



最近営業電話が多い

塾を開業してある程度経つとやたらと営業電話がかかってくるようになる。

コピー機(これが一番多い)やHP作成の営業に始まって、投資しませんかなんていう営業まで本当にジャンルは幅広い。

先日、「いままで学校関係のWEB教材を作成し、様々な学校と提携してやってきたが、この度塾にも伺って話をぜひ聞かせてほしい」という会社の女性から電話がかかってきた。

こういう電話がかかってくると、できるだけ相手に不快を与えないようにしながら早々に切ることにしているが、私には物好きなところもあって、営業トークが上手い人だなと思うと話に結構つきあったりすることもある。「プロ」には敬意を表するのである。話を聞きながら、この人の話の上手さはどこにあるのか、なんて考えてしまうのである。(悪い癖だ)

しかも、先々月だったか、本当に営業マンがこちらのメリットをうまく説明してくれたので、コピー機を入れ替えた。こちらも得して向こうも得する。ウィンウィンというヤツだ。

しかし、この電話は「話を聞かせてほしい」という電話だ。何かを売りたいのだろうが、回りくどい話でツカミが弱い。切られる前に精一杯しゃべろうという感じだ。ひとしきり女性は話をしたあと、ぜひお伺いしたいと言う。私は当然「いえ、結構です。」ときっぱりと断った。こちらのメリットについて何も言及していないからである。

すると女性は「どうしてでしょうか?」と言う。「そこをなんとか会うだけでも・・・」というのはよくあるが、「どうしてでしょうか?」には少し驚いた。「どうしてでしょうか?」というのは会うのが当然というスタンスの物言いである。ちょっと不快になった私は、それでも明るく振舞って「だってこちらにメリットがないですよね。」と言ってみた。

営業トークの基本は「客のメリット」を強調することである。電話の女性はそこを一つも言わないので水を向けてみたのである。なのに、女性は一瞬ぐっと黙った後、無愛想な声になって「ありがとうございました」と言って電話を切ったのである!

えええ〜???




そこでムッとしたり、トークの切り替えしができない人が営業をするのはやめてほしい。