長らく放ったらかしたが、
これの続き。
長らく書かずにいたら、その間に数人の方から色々メールを頂き、そのうちのお二人の方が、件のメールを下さったお母様にはぜひ
このブログを読んでもらいたいとご親切に書いてくださっていた。たしかに、このエピソードは私が「人は苦しみの中からしか学べない」という言葉を初めてブログで記したときのものなので、その意味では私の言いたいことが伝わりやすいかもしれない。私のブログについて話し合いをされるご家庭があり、また、そういったことを教えてくださる読者の方がいて、私は幸せだと思う。
(1)の最後で、「私は唸ってしまった」と書いたが、私が唸ったのには二つの理由がある。
ご夫婦でお子様の教育について、日常の中であのような会話が自然にできる家というのはいいなあと思ったのがひとつ。あとの一つは、「もしかしたらkamiesu先生に感謝されるかもしれないぞ」とご主人がお父様が仰ったその鋭さに、である。
子どもの教育について、両親が「自然に」あれやこれやと話し合い、ときに意見が違うことがあっても、コミュニケーションしつづけるというのは本当に子どもにとってはすばらしい環境だと思う。最終的に私にメールまで下さる行動力がいい(笑)
子どもというのはよく見ている。
親の背中を見ながら、親のするように物事をしていくようになるものだ。前回のブログには書かなかったけれど、お子さんの方は議論するご両親に笑いながら「で、結局どっちなのよ。私はどっちでもいいけど(笑)」みたいな反応をされていたというから、まったくもって素晴らしい環境だなと思う。
また、お父様が仰るように、私は今回のメールのことをとてもありがたいことだと思っている。私が言っているこの言葉の真意が中にきちんと伝わっていない場合もあると、今回のことで知ることができたからだ。このお父様はなかなか、いや相当鋭い(笑)脱帽である。
さて、私が勉強をどう考えているかということについて。
勉強は「苦」なのか?実は、私は勉強のことを「苦」などと、これっぽっちも思っていない。じゃあ、毎日毎日勉強に追われる受験生の苦しみはいったい何なのかということになるが、あれは勉強が苦しいのではないのだと私は思っている。日々勉強に追われ、その成績を序列化され、お前は合格、お前は不合格と振り分けられる、その恐怖とプレッシャーと戦いながら頑張らなければならないことが苦しみなのである。つまりは、勉強が苦しいのではなく、「人生」を歩むこと、つまり生きることそのものが苦しいのである。(釈迦も言ってる。)
それを真正面から捉えた上で、そこから逃げずに、その「苦しみ」さえも糧にして大きく成長していきたいというのがこの言葉の意味だと私自身は考えている。そういえば、私の教え子だった子が書いているブログでこんなことが書いてあった。
「人は苦しみの中からしか学べない→究極のポジティブ変換→これ最強。」
これはなるほどと思った。若い子らしい表現だが、本質をついている。苦しいこと、ハードなこと、つらいことがあったとき、あるいはそれがやってくると予感できたとき、「あー苦しいわー、つらいわー、嫌だなあ」といきなり超ブルーになるのと、「うわっキッツー、でも俺は乗り越えてやるぜ。そしてさらに俺は成長するのだ」と口角を上げられる人間では、発揮できるパワーが違う。
個人の力ではどうしようもない苦しみや悲しみが襲ったときも、暗闇の中に一筋の光の可能性を信じられるのとそうでないのでは、ずいぶんと次のステップまでにかかる時間とその力強さが違うのではないだろうか。
マラソンを楽しいという人がいる一方で、よくもまああんな大変なことをやっているよという人もいる。毎日走らずにはいられないという人がいて、あんなこと毎日させられたら地獄だという人もいるだろう。私はそれは習慣の違いにすぎないと思っている。人は習慣の奴隷なのである。勉強が嫌だ嫌だと言っている子は勉強が習慣になっていないため、勉強の「基礎体力」ができていない。一定の時間の集中ができないし、我慢が利かない。とてもじゃないけれどこんなこと毎日できないと思うだろう。
座っているだけでぜいぜい言っているような超運動不足の子に「マラソンは楽しいぞお」と言って、マラソンに誘っても走るわけはない。そんな子にはまず黙ってその子を5キロくらいは走れるようにしてやることだ。基礎体力を上げてやるしかない。第一歩は嫌々でも無理やりでもさせるしかない。(きっとそれは苦しいだろう。)
勉強でも同じだ。「自分を変えること」は、それがよい方にであれ、悪い方にであれ、とても苦しいものだ。勉強が苦しいのではなく、「今の自分」を変えるのが苦しいのである。
私たちの仕事は「変わること(成長すること)」の意味を語り、それへの「あこがれ」を持ってもらい、その「きっかけ」を作り、うまくいくまで励ましたり、支えたり、失意のときには支えになってあげたりすることなのだと思っている。
私は「勉強は楽しいものだ」と生徒に言ったことがない。そう感じてくれたなら素晴らしいことだが、別に楽しかろうと、何とも思わなくてもどちらでもいいと思ってる。勉強はしんどいなあと思っていても、一所懸命やっているならそれでいい。楽しいと思う瞬間あり、苦しいと思うときありでいい。「勉強は楽しくあるべきだ」と心が囚われてしまうのは避けさせたい。何より「楽しくあるべきだ」という考えは「苦」があってはいけないという反動にもなり得るからだ。心は囚われない方がいい。心が淡々と「成長」に憧れ、行動を取れるなら何も言うことはない。
もちろんこれは私の指導方針であって、心の部分の問題なので、他の方の考え方を否定するものではない。指導にはどのようなあり方があってもよいし、どのような心の使い方があってもいい。私は根底にこのような考え方を持って生徒達を指導してきたし、特にこの言葉が多くの生徒達の支えになってきたことを知っている。
ずいぶんとネガティブな人生観だなあと思われる方もおられよう。ただ、私は「苦しみ」としっかり向き合う方が、「喜び」や「幸せ」も色濃く見えてくるのだと思っているし、その方が強く、たくましくなれるのではないかと思っている。
それに「勉強は楽しい」とか「人生は楽しい」と生徒達に言ったからといって、すぐに楽しくなるわけではない。「人生は苦しい」と私が言ったって(めったにそんなこと言わないが)、生徒達は楽しそうに塾にやってくる。(塾に寝泊まりしたいと言い出す連中までいて困ったもんだ。)そういうものだ。
こんなところが私の考えである。
今回、とても温かく、ユーモアいっぱいのメールをくださったお母様、そしてとても鋭いお父様(笑)、本当にありがとうございました。おかげさまで自分自身も改めてこの言葉について考える機会をいただきました。
そして、(1)の方を読んで、メールでアドバイスくださったり、ご自身のお考えを伝えてくださったブログの読者の方々、本当にありがとうございました。