年内授業終了

29日で年内の全授業が終了。

講習生の受け入れ、ラストスパートの中3生など、冬休みの授業は気を配らなければならないことが増えるので大変だ。

しかも、28日と29日は大掃除をしながらの進行。


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GR Digital3

秋から入塾した中1の生徒のノートがとてもよくなっていたので、感動して写真を撮らせてもらった。

左のページに自分の答えを書いて右のページに私の書いた解答と解説を書き込んでいる!

入塾したときはどうなることかと思っていたが、大きな成長だ。(若干書き間違いがあるのはここではとりあえず目をつぶってあげていただきたい)


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GR Digital3

「質問コーナー」と化している職員室入り口のところにこんなメモがあった。

カモノハシらしい。

一つ上手いのがあるが、あとはもう・・・(笑)


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GR Digital3

生徒が全員帰った後、最後の掃除をして、忘年会。

いつもの居酒屋と違ってお洒落な店へ。

私はエビスの生2杯(3杯だったかな)とジン(タンカレーのテン)をロックで1杯。

それにしてもGR Digitalは料理の写真が上手く(美味く)撮れる。

食べるのに夢中でこれ一枚しか撮らなかった。




来年は元旦の朝5時半より、中3の初勉強会が行われる。

元旦の早朝から大変ですねと色んなところで言われるが、実は楽しくやっていたりする。

真面目にやるのも一所懸命やるのも大切だが、できるかぎり「楽しくやる」ということも長く頑張るには大切なことなのである。

元旦の勉強会は自由参加だが、どうやらほとんどが参加するらしい。

面白がってやったほうがいいのだ。

生徒達もよく分かっている(笑)





できなかった問題に印をつける

問題集の問題をノートにする。大切なのはできなかった問題のやり直しだ。

問題集を1回やるというのは「できる問題」と「できない問題」を分ける「作業」に近いと言える。「できる問題」と「できない問題」をきちんと把握してからが本当の勉強だ。

学力を伸ばす方法を一番シンプルに言えば、「できない問題をできるようにする」ことである。「解説」を読んで「分かった」、では駄目だ。自分で「解ける」ようにしなければならない。

一人で勉強している子は大抵そこまでやりきらない。塾へ行っている子でもしっかり指導しないとなかなかそこまで根を詰めてやることはない。

問題集の問題は「やり直し」のことを考えて、ノートにやることが多い。問題集一冊に対して専用のノートを用意させたい。複数の問題集が一冊のノートにあちこちに解いてあるというのはよくない。一度解いた後が大切なのだから、「記録」をしっかり残しておかなければならない。

そして「ノート」を残すだけでなく、問題集の方にも「記録」を残しておきたい。出来なかった問題の問題番号にきちんと印をつけるのだ。数日経つと、どの問題ができてどの問題ができなかったというのは忘れてしまうものだ。

そんなのはノートを見ればいいではないかという人もいるが、子どもは「どの問題ができなかったっけ」とノートを確認するような面倒くさい作業は大嫌いなのだ。しかも、専用のノートを作っていなかったら、どこに書いたやら、という状態になるのは免れない。

「印」は必ず決まったものをつけさせたい。そのときの気分によって「チェックマーク」にしたり、ぐるぐる巻きの丸印とかにしてはいけない。あくまで「記録」なので統一したマークにしたい。

こういう「下準備」をきちんとさせた上で、「出来ない問題をできるまで」やり直しをさせる。一回目にやり直しをしてできたら「印」、それでもできなかったら、やり直しでもできなかった、という「印」をつける。「できたマーク」がつけられるまでやり直しをする。第三者が見ても、どの問題ができて、どの問題ができなかったか、どの問題に苦しんだかということが分かるようにしなかればならない。

それは、一に、生徒本人のため、二に、指導する教師のためである。そのように普段から指導しておくと、指導する側がその生徒を把握しやすいのだ。

このような「小技」は意外に効く。「できるまでやり直せ」という言葉の指導だけでなく、「作業」のレベルまで指導を「落とし込む」ことが大切である。

ちなみに、「出来なかった問題に印をつける」という指示を、生徒全員に徹底させるのは簡単ではない。どれくらい時間がかかるかというと「半年」くらいもかかる。こんなことでも全員に徹底させるのは並大抵のことではない。

「徹底させること」は教師の力量を如実に表す。そしてそれはそのまま生徒の学力に結びつく。それが大変なことだと認識している教師のみが「徹底」できるのである。

(旧ブログから転載。加筆修正。)

 

「型」の重要性

小5の英語でローマ字のテストを行った。テスト自体は何ということはないが、指示を少し複雑にしてみた。五十音表に対応したローマ字を書くだけのテストであるが、テスト用紙を配布するのではなく、ノートに表を作らせたのである。

私がホワイトボードに、こういう風に書くんだよ、と書きながら指示を出したのであるが、5年生くらいでは作業能力がまだ高くない。段を間違えたり、分からなくなって固まっていたりする。

「ここ間違えているよ」「分からなかったら先生に聞くんだよ」と言って回る。いたれりつくせり面倒のないように物事を進めすぎると子どもは伸びない。こういう作業能力を高めるためのアプローチも必要なのである。回りくどいようであるが、こういうことをしっかりやっていきたい。

たとえば、生徒達に「お知らせ」を配る。作業能力の高い子は、すっと、角を揃えて二つに折ることができる。こういうところに無頓着で、折り目が合っていなくても平気な子は学力も伸ばしにくい。(ただ、一部、天才肌の子は興味のないことに驚くほど無頓着だったりすることもある。)

今、「無頓着」と書いたが、作業する力が身についていない子、あるいは勉強ができない子は多くのことに「無頓着」だ。下敷きがなくてもこだわらない。赤ペンがなければ蛍光ペンで書けばいい、定規がなければフリーハンドでOK、曲がっていてもべつに平気。そんな子の学力をつけるのは本当に大変だ。

ではどうすれば、頓着することができる子を育てることができるのか。それは「型」を身につけさせることにつきる。無頓着な子は「型」が身についていないからこそ、「どうあるべきか」が身につかず、「何でもよい」になってしまっているのである。

かつて日本の「習い事」というのは「型」を大切にした。それはときに窮屈で、うっとおしいものであり、団塊の世代以降の人間はこれを疎んじた。「自由」と「解放」を叫んだ思想はこういうところにも及んだのである。そうして「かくあるべき」という基本の「型」が文化の中から消えていった。そして(昔の人からすれば)「だらしない人間」だらけになった。「型」の喪失が我々をよい方へ導いたとは私には思えない。

「型」が存在するからこそ、人はそこからはみ出すこともできる。それはとても大切なことだと思う。「何をどうやってもいい」というのは、「何をやってもいけない」というのと同じくらい窮屈で辛いことなのだ。

反抗期を迎えた子ども達を見るとわかりやすいかもしれない。小さいころから「しつけ」や「ルール」にうるさい家庭では子どもは反抗しやすい。反抗期の子どもはとにかく反抗がしたい。「型」から少しはみ出るだけで彼らの「反抗心」は満足する。そんな家庭では、朝の「おはよう」を言わなかっただけで「反抗」できるのである。

一方、「何をやっても認められる」教育方針の家庭では、子どもは「反抗」するのが難しい。何をやっても許容されるのであるから、「反抗」にならない。だから、そんな子ども達は「反抗したい」という欲を満たすために、家を破壊したり、親を殴ったり、犯罪を犯してしまわなければならない。


(旧ブログから転載。加筆修正)

温故知新

教育に関して、最新の教育論の類よりも長い歴史の中を生き残ってきたものを私は信頼している。

世には、「事実」を軽視し、イデオロギーや主観で語られる、全く役に立たない教育論も存在する。長く生き残ってきた教育論、あるいは教育の手法は時代の検証を経て、なお存在しているわけである。それらを「古臭い」なんていうのはまったくの主観でしかない。

長い歴史を生き残ってきた「教育」といえば、例えば「読み・書き・算」がそうだ。日本の教育の基本は、この「読み・書き・算」の徹底にあった。古くは寺子屋や塾(学習塾ではない)でなされてきた教育がそうであった。「読み・書き・算」を仕込まれた当時の日本人の教育力は非常に高かった。

「個性の教育」などといって、放任の教育や、一問の問題を時間をかけて考える授業スタイルがもてはやされたとき、私はそんなのしゃらくさいと思っていた。「読み・書き・算」の底力の方がはるかに高いと思っていた。

昔、私が以前に勤めていた塾に、日本の「私教育」を見学したいといって、アフリカなどの国から日本の教育を視察にきた一団がやってきたことがある。

そのとき、一団の案内と、説明を担当した私は「日本の教育」について簡単な講演みたいなことをする機会を頂いた。光栄なことである。そこで私は、日本の教育の基本は「読み・書き・算」の徹底にあると一席ぶった。通訳の方もおられたのだが、話が専門的になるため、途中、自分で英語を用いながら説明をした。彼らは熱心に聞いてくださった。

講演後、質疑応答のようになり、日本人を優秀にした秘密を他にももっと教えてくれと言われた。日本人の優秀さはその教育にあるということで来られた方々である。その探究心は、慎ましやかな感じの日本人のそれとは比べ物にならないくらいのエネルギーがあった。

私は答えた。

日本には、子どもをとても大切にする社会風土がありました。世界中、どの国も子どもを大切にするのは当たり前ですが、日本は格別だと思います。とにかく繭の中にくるむように子どもを大切にするのです。

例えば、子どもの玩具ひとつをとっても、世界中に例がないくらい多数のものが存在します。西洋の「トランプ」は、本来、大人の遊び道具で、子どもが遊ぶのではありません。しかし、日本には子どものために生み出された玩具が多数にあるのです。

駒、やじろべえ、竹とんぼ、すごろく、福笑い、だるま落とし、剣玉、かるたなど大人が子どものためにサービス精神旺盛にモノを創造しています。

これは日本の文化の大きな特徴といえるでしょう。しかも、それらの玩具がそのまま子どもの知育を促進するグッズになっているのです。皆さんもお土産屋さんに行けば、どれだけこのようなグッズが充実しているかということに驚かれるでしょう。

『かるた』は字を教えています。また、位置を確認することで「短期記憶」の力を育てます。すごろくは「1対1対応」を子どもに教える基礎になっています。『竹とんぼ』や『コマ』や『剣玉』がどれだけ日本人の手先を器用にしたことでしょうか。

とにかく、子どもを楽しませようという思いが日本人のDNAに刻まれているようです。ですから、いくらマイクロソフトがゲーム機を開発しても、SONYのプレイステーションを打ち破るのは難しいのではないでしょうか。子どもを楽しませようとする年季が違うのです。

「1対1対応」がどうの、という部分は英語で説明するのは骨が折れた(通訳の方も苦労していた)が、かなり汗をかいたが、彼らは満足してくれたようだ。随分と拍手をもらった。会の後、お茶の席で、一緒に写真を撮ってくれないかと何人からも頼まれた。充実した時を過ごせた。

20年この仕事をしている間に、「流行りの指導法」みたいなものがいくつも生まれた。マスコミや一部の人たちの「大きな声」に煽られ、検証されることもなく、素晴らしい指導が否定されるのを目にしてきた。そんな中から、教師というのは、子どもが変わっていく「事実」を見つめ、謙虚な姿勢で学び続けなければ腐っていくのだろうということを私なりに学んだ。

特に「古典」からは学ぶことが多い。軽んじることなく、「何かがあるのではないか」という意識で学べば大きな発見があることが少なくない。既成のものを疑う姿勢も大切だが、それを打ち破るにしろ、古きものに敬意を払いながら、為すのが正しい在り方のように思えてならない。

(旧ブログからの転載。(けっこう)加筆修正。)




漢字書けるよ

さきほど家内が用事で塾に立ち寄ったが、冬休みなので息子もついてきた。

先生たちに話をしてもらって、息子はご機嫌だった。

用事が終わったらマクドナルドにつれていってもらえることになっていたみたいで、ご機嫌なまま帰っていった。

待っている間、息子はもらった廃棄の紙の裏側に漢字を書いていたみたいだ。


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なぜ「歌丸」なのか?