只管打座

禅に「只管打座」という言葉がある。

道元禅師の「正法眼蔵」という本に出てくる言葉だったと思う。

これは「ただひたすら座れ」という意味だ。

悟りたいとか、何かを得たいと想い、禅に励むのではいけない。

悟りたいという想いに囚われているうちは悟ることはできない。

悟るためには「悟りたい」という想いを手放さないといけないということだ。

悟りたいという想いが強いと「魔」が差してしまい、正しく禅の修行ができないのだという。

これは勉強でも同じことが言える。

点数を上げたい、成績を伸ばしたいと願い、勉強するのはとても素晴らしいことではあるが、その想いが「何か」を捻じ曲げてしまっていることは少なくない。

結果、ロカビリー先生のこのブログに書いてあるような子が出てくる。


ただただ、目の前の問題を解きたい、理解したい、これを覚えよう、これを完璧にマスターしよう。

恐らく、やってる最中はそれ以外の邪念はないと思う。

君のように「さあ、今日は1時間も机に座ったし、教科書も眺めた。成績はどのぐらい上がるんだろう?」なんて思ってはいないよ。

ちょこっと何かをやったら何かが返ってくる。

大間違いだ。

そんな気持ちを最初から持つのは無し。

そんなことを考えるのなら、「これをやっても何にもならないけど、それでもやる」と覚悟を決めな。

もう点数や成績や偏差値なんて「上がらない」。一切、期待しない。誰も褒めない。

それでもやれるか。

今の君に必要な心がけはそれだと思う。

やる前から欲しい成績を手前勝手に値踏みして、自分の行動を調節するようなことはロクなもんじゃない。

だいたい見誤ってるしね。そういう見積もりは。全然届いていないことばっかりだよ。お話にならないぐらい。

それにね。

価値は後からだよ。いつの間にか気がついたら、だよ。




本当にその通り。

「今日一時間勉強した見返りは何点ですか?」という考え方の勉強では力はつかない。

受験を終えた中3が、受験勉強で使ったノートやテキスト、プリントの膨大な束を整理しながら、「ああ、俺もよく考えてみればこれだけやったんだよな」としみじみ思う、そういう「思えば遠くへ来たもんだ」的な無心、夢中の中にこそ成長というのはある。

成長というのは今までの自分を乗り越えるということだから、「淡々と一割増」の努力で叶えられることは少ない。

どこかで「ただひたすら」という「熱」を帯びないと難しいと思う。

こういうことを言うと、すぐ「精神論」だと批判されるが、この仕事をしていて、飛躍的に伸びていった子というのは例外なく「熱」を帯びていた。

それは間違いのないことである。

「今日一時間勉強した見返りは何点ですか?」という心の使い方は、このような「熱」とは対極にある。

子供達というのは「よい勉強法」というのを「最少努力で最大効果を得る方法」だと思っている。

「熱」を帯びていない子にとってそれは「楽して点取る手抜きの方法」と二アリーイコールだ。

だから私たちは「よい勉強方法」について伝えるのと同時に、「熱を帯びよ」「点数を上げることは忘れろ」と言わなければならないのである。





パソコンがアウト

昨日、SORAのメインコンピューターがお釈迦になった。

銀行への送信データやら、様々な教材、通信、お知らせ文、HPのデータなどあらゆる重要データの詰まったコンピューターが起動しなくなったのである。

幸い、ほぼ完全なデータはバックアップを取ってあったため、なんとか復旧できるものの、今日一日は大変だった。

この際なので、今日買ったニューマシンはHDDが1.5テラバイトのやつにしてやった。

バックアップ用の外付けHDDは2テラバイト。

もうこれで、何でも来いという感じだ。

ニューマシンは超快適でサクサク。

逆に気持ちがノッてきた。

最近、何かのCMでやってた「やり直しになったのではない。やり直せるのだ!」というセリフがお気に入りで、何かの度に芝居がかった口調で職員室でこれを言っている。

ピンチのときに気持ちをポジティブにもっていくというのは本当に大切なことだとつくづく思う。







お金持ちを嫌う人はお金持ちになれないそうな。

自己啓発の本や、いわゆる「成功本」で読んだ記憶で書くが、「お金持ちを嫌う人はお金持ちになれない」という。

「お金持ち」を憎むと、自分自身がそうはならないように、無意識のうちに、自身の行動に制限をかけてしまうからだ。

また、女性が変な男性にひっかかることのないようにするには、自分がつきあいたいタイプの男性の条件を箇条書きにして紙に書いて貼っておくとよいなどという。

これも原理は同じなのだろうが、紙に書かれた条件を無意識のうちに意識するようになるので、条件に引っかからない男性と縁ができる可能性を下げられるらしい。(なんとなく、で男性を選ばないようにするということか)

日頃の生徒の様子を見ていても、これは頷ける部分が大いにある。

勉強ができる人を馬鹿にしたり、「努力」というものを軽んじたり、馬鹿にしたりする人はなかなか勉強ができるようにはならないからだ。

まじめにコツコツと勉強をしている人を馬鹿にしていると、いざ自分が何かを為そうとして、努力しようとしても、それは「普段自分が馬鹿にしている行為」をしようとしていることになる。

だからなかなか動けないのである。

また、「今度は400点目指して頑張ってみろよ」と声をかけて、首をブンブンふって、「そんなん無理っ!」という子は残念ながら、400点は取れない。

宿題ができていなくて、「やったけれどノートを忘れてきました」と安易に誤魔化したり、あるいは解答を写してズルをする子も悲しいほど学力は伸びない。

いざというときに安易に逃げることの味をしめると、なかなか真正面からの努力はできなくなってしまう。

自分の普段の行為や言葉というのは、思っている以上に自分自身を縛る。

それは大人も子供も変わらない。

普段の行動から自分自身を「真っ当」に、そして「素直」にしておかないとなかなか向上はできないものである。

自己を向上させる第一歩は普段から正しく生きる心がけをすることである。

生徒に向けて書きながら、自分自身にも言い聞かせながら書いている。

マネジメント

ウチの塾では先生が授業にいくときに、「お願いします」と声をかけるのが習慣になっている。

いつの頃から始まったかは定かではないが、いつの間にかそうなっている。

授業から帰ってくると「お疲れ様でした。」

塾長の私にだけ言うのではなく、お互いがお互いに声を掛け合う。

昨日など、授業終了後、私がHPの更新作業をしていると、まゆみ先生が、「あ、先生HPの更新してくださってるんですか。ありがとうございます!」と言葉をかけてくれた。

私が頑張ってくれているスタッフに声をそうかけるならまだしも、スタッフが塾長(社長)にそう言うのだ。

それは社長である私がそう言うように指導したわけではなく、気がついたらいつの間にかそうなっている。

自分でいうのも何であるが、こういう組織は健全であるし、とても強いと思う。

何より自分の職場にそういう雰囲気があることを幸せに思う。

世の中にはいろんな組織がある。

気がついたら、誰かが誰かの批判や悪口ばかりを言っているような職場で働くのはとても辛いことであるし、そういう組織はやがて衰退していく。

組織を構成する人間ができるかぎり、当事者意識を持って、よくしていこうとしている組織の方が当然伸びていく。

先日、ある方から、「マネジメント」なんていう言葉を頻繁に使いだした職場はたいてい駄目になっていってるという話を聞いた。

しかし「マネジメント」とは、本来、そういう雰囲気を持った職場を創り出すためにあるべきものである。

まずはそれありき、なのにもかかわらず、そいつをすっとばして「予算達成」とか、「売上向上」とか、「会社の発展」のことを考えるからおかしくなっていく。

そんなことを考えていて、「マネジメント」とは本来どういう定義なのだろうと、ちょっとネットで調べてみたら、なんと、あのドラッカー氏は「マネジメント」を(ものすごく簡単に書くと)「組織の人を生き生きさせ、高度な成果を上げること」と定義していた。

おお!

「マネジメント」ってやつを否定しようと思ったら、なんとドラッカーと意見が一致してしまった。

私も女子高生のようにドラッカーを読んでみようか(笑)



生徒を観る

生徒から信頼され、指導力のある先生は「生徒の小さな変化に気づく力」が高い。

日常の指導や、共に過ごす時間の中で、生徒達一人ひとりの些細な変化、よい方への変化、よくない方の変化、「サイン」に気づく力は生徒を伸ばす上で不可欠だろう。

一方、生徒から信頼されず、指導力のない先生というのは、生徒の状態や変化を捉えるセンサーが鈍い。

生徒に話をしても、その生徒のことがよく観えていないと、言うことがピント外れになったり、相手の心に届かなかったりする。

それは話が下手なのではなく、話の的が外れているのである。

そういうセンサーの鈍い先生は、成績が上がったとか、下がったとかなどの分かりやすい事柄でしか生徒の変化を見ることができない。

点数が上がったとか、下がったとか、そんな分かりやすいものを根拠に褒められても叱られても、生徒は先生をそんなに大きく信頼してくれることはない。

ちょっとした授業の受け方の変化、ノートの取り方の変化、勉強への意欲の変化、小テストの答案の書き方など、小さな変化を見逃さず、褒めたり、叱ったり、あるいは感想を述べるということが大切である。

それによって生徒達は「この先生は私を見ている」と感じる。

「見ている」ということは、自分に関心があるということであり、生徒との関係に限らず、「この人は自分に対して関心を持ってくれている」という認識は、信頼関係構築の第一歩であると私は思う。

生徒に信頼される先生になりたいのであれば、うまく教えることも、テストに出るところを当てることも大切ではあろうが、何よりも、「生徒を観る」ことに全力を尽くすべきだと思う。

生徒の中には、先生がぼうっとしていても「観えてくる生徒」と、「観えにくい生徒」がいる.

目立つ生徒や、自己表現ができる生徒などは、観えやすい。(それでも全部観えてくるということはない。)

ゆめゆめそれで生徒全体のことを分かったつもりになってはならない。

そう勘違いしている先生も少なくない。

そんな勘違いをしていると、生徒を観ようという努力を怠ってしまう。

また、人というのは、人のよくないところはすぐに見えてくるものだが、よいところは見えにくいものだ。

自然に見えてきたものだけを認識して、「俺は生徒のことを分かっている」と勘違いしている先生も多い。

たくさんの失敗をして、悔み、落ち込み、教師修業を重ね、努力する人だけが、生徒を観ることができるようになっていく。

「生徒を観る」なんて簡単に言われるけれど、それはとてもとても難しいことなのだ。