2010.06.28 Monday
只管打座
禅に「只管打座」という言葉がある。
道元禅師の「正法眼蔵」という本に出てくる言葉だったと思う。
これは「ただひたすら座れ」という意味だ。
悟りたいとか、何かを得たいと想い、禅に励むのではいけない。
悟りたいという想いに囚われているうちは悟ることはできない。
悟るためには「悟りたい」という想いを手放さないといけないということだ。
悟りたいという想いが強いと「魔」が差してしまい、正しく禅の修行ができないのだという。
これは勉強でも同じことが言える。
点数を上げたい、成績を伸ばしたいと願い、勉強するのはとても素晴らしいことではあるが、その想いが「何か」を捻じ曲げてしまっていることは少なくない。
結果、ロカビリー先生のこのブログに書いてあるような子が出てくる。
ただただ、目の前の問題を解きたい、理解したい、これを覚えよう、これを完璧にマスターしよう。
恐らく、やってる最中はそれ以外の邪念はないと思う。
君のように「さあ、今日は1時間も机に座ったし、教科書も眺めた。成績はどのぐらい上がるんだろう?」なんて思ってはいないよ。
ちょこっと何かをやったら何かが返ってくる。
大間違いだ。
そんな気持ちを最初から持つのは無し。
そんなことを考えるのなら、「これをやっても何にもならないけど、それでもやる」と覚悟を決めな。
もう点数や成績や偏差値なんて「上がらない」。一切、期待しない。誰も褒めない。
それでもやれるか。
今の君に必要な心がけはそれだと思う。
やる前から欲しい成績を手前勝手に値踏みして、自分の行動を調節するようなことはロクなもんじゃない。
だいたい見誤ってるしね。そういう見積もりは。全然届いていないことばっかりだよ。お話にならないぐらい。
それにね。
価値は後からだよ。いつの間にか気がついたら、だよ。
本当にその通り。
「今日一時間勉強した見返りは何点ですか?」という考え方の勉強では力はつかない。
受験を終えた中3が、受験勉強で使ったノートやテキスト、プリントの膨大な束を整理しながら、「ああ、俺もよく考えてみればこれだけやったんだよな」としみじみ思う、そういう「思えば遠くへ来たもんだ」的な無心、夢中の中にこそ成長というのはある。
成長というのは今までの自分を乗り越えるということだから、「淡々と一割増」の努力で叶えられることは少ない。
どこかで「ただひたすら」という「熱」を帯びないと難しいと思う。
こういうことを言うと、すぐ「精神論」だと批判されるが、この仕事をしていて、飛躍的に伸びていった子というのは例外なく「熱」を帯びていた。
それは間違いのないことである。
「今日一時間勉強した見返りは何点ですか?」という心の使い方は、このような「熱」とは対極にある。
子供達というのは「よい勉強法」というのを「最少努力で最大効果を得る方法」だと思っている。
「熱」を帯びていない子にとってそれは「楽して点取る手抜きの方法」と二アリーイコールだ。
だから私たちは「よい勉強方法」について伝えるのと同時に、「熱を帯びよ」「点数を上げることは忘れろ」と言わなければならないのである。