夢を語るときは(2)

 


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可能性のある限り 決して あきらめるな

たとえ身は結ばずとも いつかは必ず糧になる



「夢」という言葉は、子供達の前に甘いお菓子のようにぶらさげてはいけない。

それは身を引きしめて語るべきだ。






ゆめゆめ夢を語るときは・・・

 

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まことそのとおりだと思う。

本当は子供に安易に「夢」を語るのは無責任なことなのだ。

大人は肝に銘じておきたい。


「花マル伝」いわしげ孝著 より

(この漫画、「花マル伝」と「新花マル伝」の2部の構成になっていて、少年の成長とその心が、明るさと暗さが絶妙なバランスで描かれている。個人的には超名作だと思っている。)




保護と過保護

 「保護」と「過保護」の線引きは難しい。

しかし保護と過保護の線引きができていないと、「過保護」を恐れる親はおっかなびっくりになり、どのように子供に接するべきかがわからなくなってしまう。

よい子育てを行うためにも、親が悩み、ストレスをためないためにも、「保護」とは何か、「過保護」とは何かということを理解しておいた方がよい。

「保護」というのは、簡単にいうと、「守り、与えること」である。

「守る」とは何を守ることをいうのか。

それは子供の「尊厳」と「生命」である。

「与える」とは何を与えることか。

それは「衣・食・住」「子どもにとって必要なもの」「子供が欲しているもの」を与えることである。

全力で子供の尊厳と命を守り、衣食住を整え、子供が生きていく上で必要なものと、彼が欲するものを与えることが「保護」なのである。

この中で一番大切なのは「子供が欲したものを与える」ことかもしれないと私は考えている。

子供に与えるものをすべてコントロールしたがる「教育熱心」な親がいるが、実はその姿勢は間違っている。

大人からみたら、しょうもない、何の値打ちのないものでも、子供にとっては宝物というものがある。

それを大人の価値観ですべて否定してはならない。

ちなみに「子供が欲したもの」とは「物質的なもの」だけではなく、「精神的なもの(愛情)」も含む。

親は、子供が欲した物質的なものや、愛情をしっかりと与えてやらねばならない。



さて、上記の内容が「保護」とするならば、「過保護」とは何か。

「過保護」とは「子供が欲した、モノや愛情」を、全部与えてしまうことだ。

この一点につきる。

たとえば、母親が家事に忙しくしているときに、小さな子どもが「遊んで〜」とニコニコやって来る。

お母さまが「今、ご用事をしているからひとりで遊んでてね。」と言うと、子どもが泣いてしまった。

子育ての中でよくあることだ。

こんなとき、真面目な母親は、「ああ、子どもにかまってあげられない」と自己嫌悪するが、このようなときに全部愛情を与えてしまうと、それは「過保護」なのだ。

時に我慢をさせ、辛抱をさせることは子どもをしっかり成長させるためには大切なことなのである。

だから母親はこのようなときに自己嫌悪する必要はない。

それはまったく正しい子育てだからだ。

大切なのは、どこまで与え、どこから与えないか。

その線引きがその家の「家庭の方針」ということになる。

この線引きが各家庭できちんと決められているということが大切なのだ。

この線引きは難しい。

しかし、それをしっかり考えていくことが、子供をまっすぐ育てる道なのだと思う。




中間試験勉強会と新しい教科書のこと

昨日と今日は中間試験勉強会。

昨日は昼からで、今日は朝から。

中1生には初めての定期試験の勉強会となるが 、長時間の勉強は彼らにはまだまだ難しい。

作業中心のワークや、思考する問題などを交互にするなど、色々ローテーションができればよいが、彼らはまだまだビギナーでなかなかそうはいかない。



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中2は今回から内申点にカウントされるテストとなるにもかかわらず、どうもイマイチラストスパートの押しが足りないような子も少なくなく、心配になる。

定期試験では、直前のスパートはけっこう大きくモノをいうので、頑張ってもらいたいところだ。

中3は叱られ続けた学年であるが、最近はよくなってきたと思う。

学習に対する姿勢が変わってきた子が増えた。

子どもは少しずつ変わっていくというより、ある日突然化けるということが多い。

そんな感じの子が出てきたのは嬉しいことだ。





ところで、塾の先生が書くブログやツイッターを読んでいると、今回の教科書改訂でずいぶん教科書がよくなったと書かれている先生が多い。

私もまったく同意見である。

本当によくできている。

ただ、心配なことがひとつ。

これを現場でどのように授業されているかということである。

生徒達が質問を持ってくるとき、学校の授業のノートやワークなどに目を通すことも少なくない。

教材作成者の意図を汲み取ることは教材研究を行う上で大切なことである。

もちろん、その意図の通りに授業をしなければならないということではない。

しかし、できればその意図を汲み取った上で、自分自身の授業を組み立てるのがよい。

教材への読み込みが浅いと授業も浅くなる。

教科書がよくなった分、先生の力量の差が授業の差になることが少なくなるかと最初は思ったが、もしかしたら、この授業の差というのは余計広がるのではないか。

そんなふうにも思った。








これから ここから

今年入った中1生達は、素質や何かはいい線いっているのだけれど、勉強のお作法や何かの点で、できていないことが多すぎる、と今のところ私は思っている。

たとえば、今年の中1生の中には、人の話やこちらの指示をきちんと聞いていない子が少なくない。(特に男子)

だから、先生が指示を出したとき、聞いておらず、「えっ」と口に出すようなことがものすごく多くなる。

私はこれが大嫌いで、そんな子は「授業中、『え』と言ってはいけません」と厳しく言われることになる。

人の話を聞く姿勢ができておらず、聞き逃したときに、「えっ」と言うだけで、相手に言い直してもらおうとする緊張感のない姿勢というのはとても甘ったれているものだと言える。

今まで、彼らは、親や学校の先生に甘えたまま、それでよいのだと思ったまま、ここまで来てしまったのだ。

このような姿勢は、学力を伸ばすのに、あるいは人間的に成長するのに、大きな壁となる。

たくさん問題を解かせたり、課題をやらせたりすることも大切ではあるが、こういう「小さなところ」こそをきちんと厳しく指導しておきたい。

課題を大量に押しつけたり、先生が恐怖で生徒を抑えこんだとしても、意識の低い生徒はどうにかして手を抜こうとする。(手を抜こうとすることにだけはけっして手を抜かない)

いくら細やかに指導者がノートをチェックしたりしても、手を抜くことなどいくらでもできる。

だから、意識の向上無しに学力が上がることはない。

意識の向上をさせるには、その「小さなところ」をきちんとさせることがその第一歩だというのが私達の考えである。

やる気があるから行動ができるのではなく、正しい行動を淡々と積み重ねていけば、気持ちは育っていく。

「気持ち」を変えていくのは「行動」なのだ。

まだまだ未熟な中1生達だが、彼らはまだまだこれからだ。

「小さなところ」を大切にして、 これから ここから 大きく成長してほしい。