この夏、後悔したことについて

 ※先に言っておきますが、この文章、かなりの長文の上、情けない話が続きます。

8月のとある休みの日、奈良へ帰省していた小学校の同級生、H君と飲みに行った。西大寺近辺で飲んで、まあそれは楽しいお酒を飲み、帰りにもう一件行くほどでもなかったので、駅前のスターバックスに二人で入った。



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GR Digital 3 写真はイメージです。当日のものではありません。



私達は大テーブルの端っこに座った。私の斜め前にはスマホをいじっている若い女の子が座っていた。いまどきの女の子である。無表情でちょっと愛想のない感じの子だなと思った。

H君には一年ぶりに会う。前回会ったときは25年ぶりくらいの再会だった。だから今回の再会は、一年ぶりというより、25年ぶりの再会Part2という感じ。だから話のネタはつきない。昔一緒に遊んでいた頃のこと、25年の間にそれぞれが経験してきたこと。話し、聞き、感想を言い合う。旧友との再会は、自分の過ごしてきた時間の確認作業なのかもしれない。

しばらくして、一人のおばあさんがレジのところにいるのに気がついた。およそスターバックスの注文のシステムなどわからないであろう感じのおばあさんだ。(たいていのおばあさんはスターバックスのシステムなどわからないにちがいない)

案の定、おばあさんは、店のシステムなど分からなくて少しオロオロしている。私はこういう場面が苦手だ。かといって、店の人がいるのに、私がしゃしゃり出て助け舟を出すのもおかしい。私とH君は少し心配しながらそれを見ていた。

しかし、スターバックスの店員さんは優秀で親切だ。おばあさんの欲しいものを上手に聞き出し、それを用意し、お金を払ってもらい、商品の載ったトレイを持って、おばあさんを席まで案内した。

私もH君はホッとして、また25年ぶりの再会Part2の会話に戻る。おばあさんが案内された席は先ほどのスマホをずっといじっている女の子の横だった。

私のナナメ前に座ったおばあさんを、チラッと横目で見る。なんというか、30年くらい前にはよくいた、声の大きな昭和のおばあさんという感じで、あんまりチラチラ見るのも失礼なのだが、どこか見ずにはいられない、ちょっと個性的な方だった。私が二回目くらいにチラッと見たとき、おばあさんは、注文したドーナツやら、飲み物に手をつける前に、いきなり隣の女の子に話しかけだした。

ああいうお店というのは、一人の人は一人の楽しみ、連れと行った人は連れとの時間を楽しむようなお店だ。平日の午後9時前、働くサラリーマンやOLの方々が自分の時間を取り戻す、そんな場所である。そういう店で、スマホをずっといじっている、いまどきの女の子におばあさんは大きな声で話しかけたのだ。

「おじょうさんはこんなとこ、よう来はりますのんか!」

私は本当にこういう場面が苦手だ。心の中で「あああ」と叫んでしまったくらいだ。女の子はきっと不機嫌そうに「ええ、まあ」と答えて話しかけられるのを拒絶するような態度をするのだろう、おばあさんはそんな彼女の態度に気づきもせず、話しかけ続けて、女の子は無言で席を立ってしまうにちがいない、無表情でスマホをいじりつづけているこの子はきっとそんな子にちがいない、ああ〜、とグルグル考えてしまった。

しかし、女の子はスマホから目を離し、くるっとおばあさんの方を向いて、にこっと笑って言ったのだ。

「ええ、わりとよく来ます(^^)」

それまでが無表情で愛想のない感じだったので、私は ポカ───( ゚д゚ )───ン 状態。

一番のびっくりポイントは「くるっとおばあさんの方を向いて、にこっと笑って」というところだ。いきなり話しかけられた(おばあさんとはいえ)見知らぬ人に、この対応をズバッときめるこの子は只者ではない。(レジのところでのバタバタ状態も耳に入っていたはずだ)

驚いたものの、そんな対応をしてくれたのなら、ひと安心、と思ったが、そうは問屋がおろさなかった。おばあさんは、女の子の対応に気をよくしたのか、一気に話し出した。あろうことか、最近の若い子への文句から、人生論に至るまで延々と話し出した。(念のために言っておくが、盗み聞きをしたのではない。勝手に聞こえてきたのだ。)

しかし、女の子はずっと笑顔で話を聞いている。ただ単に相槌を打つだけでなく、おばあさんに「でも・・・は〜ですよね。」なんて返したりして、ちゃんと興味を持って聞く姿勢で会話をしている。しかも品のない感じではなく、上品な感じなのだ。

予想外の展開だ。「あの子凄くないか?」私はH君に言った。これに対するH君の言い分が面白かった。彼は「いやあ、あんな子、ウチの息子の嫁に欲しいわ」と言ったのである。そう言うのも納得がいくくらい、その女の子は良い感じでおばあさんと話をしているのである。

「凄いよ。あの子。あの子、ウチの塾のスタッフになってほしいくらい。」と私が呟くと、H君は「スカウトしろ!行け!」とそそのかす。

「この時間、時間を潰すようにして、スターバックスにいる。学生ならば夏休みのはず。でも、この子の格好はお出かけというより「仕事帰り」という感じだ。社会人か?いやアルバイトの帰りという可能性もある。」なんてことを私は考えていた。つまりは色々シナリオを練っていたということだ。

いったい、どれくらい時間、彼女はおばあさんの話を聞いていただろうか。少なくとも30分以上はつきあっていたと思う。その間中、彼女はおばあさんから上手に話を引き出したりなんかして、見事にコミュニケーションをとっていた。時間が来た彼女はおばあさんにそれを告げ(その告げ方も上手だった)、席を立って店を出ていった。

H君は彼女の後ろ姿と私を交互に見ながら、「おい、行かんのか?行けよ!」と言うのだが、私は躊躇してしまったのである。行けなかったのである。スターバックスで見初めた女の子を追いかける47歳の自分の俯瞰図を想像してしまったのだ。

考えてみてほしい。若い女の子が、スーツも着ていない、ちょっと酒臭いおっさんに声をかけられて、「私はこういうもので、塾をやっておりまして・・・」と言って、信頼してもらえるかどうか。まあムリだ。しかも私は「名刺」というものを持っていない人間なのである。それが男性だったなら絶対声をかけていたろう。正直、女性だったからできなかったのだ。変なヤツと思われたくない、スケベなおっさんと思われたくないと思ってしまったのである。もう自分の行動力の無さにがっかりである。

そのとき、私はみかみ先生のことが思い浮かんだ。みかみ先生ならば絶対声をかけたと思う。私にはできなかった。

これを読んで下さってる方の中には、そのおばあさんとのエピソードだけで、その女の子を雇ってしまってよいのか、大丈夫か?と思う方もおられるだろう。それは当然である。

しかし、その子のコミュニケーション能力と、おばあさんへの優しさは半端なかった。無理して愛想よくしているのではなく、心の底から優しい感じがしたのだ。それが別に「心の底から」のそれでなかったとしても、H君に「ウチの息子の嫁にほしい」と言わせるくらいなのだ。

学力に関しては、勉強すればよほどの怠け者でないかぎり、何とでもなる。しかし、あのおばあさんへの接し方は1,000人に一人のレベルなのだ。あの子ならば生徒の力になってあげられるよい先生にきっとなる。学力レベルが未知でも、10,000ポイント取れる長所があるのだ。とんがった何処にも負けない塾を作るのに当たり前の人材の発掘の仕方をしていてはいけないというのが私の持論だ。

SORAの今の体制を作っていくときに、私は「自分が好きな人としか仕事をしない」と決めた。だから、今SORAにいるスタッフは皆、私が好きな人間だけである。森川先生も、コーシ先生も、井上先生も、酒井先生も、阪東先生も皆私の弟子のつもりでいる。(嫌いな人間は弟子にできない。)もちろんアルバイトのスタッフまで全員そうだ。SORAには私が見込みがあると判断した人間しかいない。

ちなみに、どこの塾にもヘボな先生がいるものだが、それは人が足りないときに、妥協して雇ってしまった人であることが多い。いきなり先生が辞めたので、人を補充しなければならないとか、新規校舎を出すから急いで雇ったとか、そういうときに雇いたくなかった人が混じってしまうのだ。私が一番避けたいパターンである。

私は「ああコイツは素晴らしいな」と思った人間を集めていき、より強い集団を作りたいと思っているし、ずっとそう言ってきた。だから、自分の主義を貫くのであれば、駄目で元々、トライするべきであった。(スケベなおっさんと思われないよう、私の持てる全ての技術を注ぎ込んで会話をするべきであった。)

本当に自分の弱さにため息が出た。ああもったいないことをした。これがこの夏の最大の後悔のお話である。

この話にはさらに続きというか、オマケがあって、私とH君がスターバックスを出た後、私はH君に、ひさしぶりの西大寺だからちょいとそのへん歩こうや、といって5分ほどブラブラした。

優秀なH君は私の意図を察知して言った。「お前、ちょっと時間潰したら、駅でさっきの子に会えるんちゃうかとちょっと思ってるやろ?」

そのとおり、私はそう思っていたのである。彼女は店を出るとき、駅の方向には行かなかった。だから何かの用事を済ませてから、駅へ行くはず。ならば時間をずらして駅へ行けば、会える可能性がある、そう考えていた。

よくよく考えれば、西大寺駅にはいくつもホームがある。そんな都合よく会えるわけはない。しかし、もし会えたなら、そのときは・・・みたいなことを考えて自分の乗る電車のホームに行った。




( ゚д゚ )




そしたらなんと、階段を降りたところに彼女はいた。つくり話ではない。本当の話である。

しかし、情けないことに、私はここでも彼女に声をかけられなかった。まあ、スターバックスで声をかけられなかったのだから、駅のホームでかけられるわけがないと言えばそのとおりだ。神様に再びチャンスをいただいたというのに、私はそれをふいにした。KO負け×2。

旧友との再会は楽しかったが、気分はプチブルー。「未熟なり!」という内なる声が聞こえてきた夜だった。






入塾試験のこと

 進学塾SORAでは入塾にあたって入塾試験を行なっている。大手の進学塾ならばともかく個人塾レベルで入塾試験を行なっている塾は最近では珍しい。

入塾試験を行うと、「勉強できる子だけを集めている」と言われたり、「入塾試験に落とされると嫌だからやめとこう」と塾選びの選択肢から外されたりして、実は商売的にはデメリットが大きい。昔とちがい、少子化の進んだ現在、それでは生徒が集まらないのだ。それでも私は入塾試験を行なっている。

だいたい「奈良・畝傍・郡山を目指す塾」と書いたり、入塾試験を行なったからといって、勉強ができる子が集まるかといえば、そんなことは絶対にない。塾の生徒集めというのはそんな甘いものではない。もしSORAに勉強ができる子が集まってくるならば、それは「できる子がSORAを選ぶ理由がある」ということである。

入塾試験を行うということは、ラインをどこに引こうと、一定以下の学力の子を入塾させていないということだから、たしかに平均学力は多少高くなる。しかしそれは、高い学力の子が集まったり、奈良や畝傍や郡山にたくさんの子が合格するということとは無関係なのである。入塾試験不合格の子がいたからといって、個々の塾生の学力が上がるわけではないからだ。(200点の子を入塾させなかったからといって、380点の子が430点になるわけではない。)

SORAの入塾試験の合格ラインなんて世間が考えているよりもずっと低い。試験問題も、応用問題なんていうのはほぼゼロだ。「へっ、こんなのがSORAの入塾試験?」と思って受験した子もいるにちがいない。生徒達にはSORAで勉強して伸びてほしいと思っているので、できる子を集めているわけではない。(第一、できる子が皆SORAを選ぶわけもなく、できる子だけを集めて塾をやろうとしてもそんなことはできない。)

だからSORAの生徒は、全員が「まだまだ頑張らないといけない子」だ。学力が高いだとか、低いだとかは関係がない。集ってくれた子達を精一杯伸ばすべく、私達は努力をするのである。できる子を集めるのではなく、できる子に育てるのである。



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ちなみに、塾の先生の中にも勘違いをされている方がおられるが、「できる子」を教えるのは楽なことではない。「できる子」を教えるのは大変なのだ。普通の学力の子や、低い学力の子を教えるのと同じように大変なのだ。学力の差によって、教えるのが楽だとか、大変だとかいうのは無いし、あってはいけない。一人ひとりを「今ここ」からどれだけ伸ばせるか。あるのはそれだけだ。「学力の高い子は楽」と思っている先生は、学力の高い子を本当の意味で伸ばすことはできない。

じゃあ、入塾試験など必要ないではないかということになるが、私が入塾試験を行っているのには理由がある。

一つには入塾を希望していただいても、ご希望に添えない場合があるということを示すためだ。個人的な意見であるが、「ウチの塾は入塾試験を行なっていません」と言っていいのは、入塾を希望した子ならば誰でも入塾させている塾だけだと思っている。

たとえば、入塾前に面接をして、通知表や何かで、その子の成績もチェックし、授業態度が悪そうだったり、素行が悪そうな子を入塾させていないとすることがあるならば、それは入塾試験をやっているも同然である。そういった塾は山ほどある。試験を学力テストで行うか、それ以外の情報で行うかというだけの話である。たとえ、入塾させない子が百人に一人であっても、「選抜」は行われているのである。

その子と面談するだけで、その子の素行がどうかだとか、授業態度がどんなもんだろうかというのは「完璧には」分からない。だから、SORAでは、今のところ、テストをして選抜を行なっている。テストでその子の学力が完璧に分かるわけではないが、公平性は保てる。(誤解のないように言っておくと、私は別に面接で入塾させる、させないを決めてはいけないとは思っていない。選抜方法は入塾試験であれ、面接であれ、その塾の自由である。)

たしかに、その子の「やる気」というのは見たい。その部分に関しては、不合格になるかもしれないSORAの入塾試験を受けにきてくれたという時点で「やる気」は確認させてもらったということにしているのだ。(これが入塾試験をしている二つ目の理由でどちらかというと、こちらがメイン)

時折、「入塾試験を行っている塾は学力の高い子がいるのは当たり前だ」というようなことを仰る塾がある。そんなのはまったく「当たり前」なんかではない。SORAの生徒の高い学力は、生徒達の努力と、それを支え、指導してきた先生の努力の結果なのだ。「入塾試験」ごときのことでそれらが達成されるわけはないのだ。




中間試験勉強会

 今日は朝から中間試験勉強会。



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SIGMA DP2x



中3は午前中、模試があったので、それが終わってから塾へ来ての勉強。

中1の英語の教科書には既に形容詞句が出ていて、生徒に与えてあるドリルやワークをやった程度では身につかないので、問題をいくつも出して練習させた。

形容詞句、副詞句をしっかり身につけさせるには、形容詞とは何か、副詞とは何かということや、文の語順、修飾被修飾の関係を理解させないといけない。

そのための種まきは夏前からやっているが、それでも「副詞とは何か」を全員が口で言えるようになるだけでも半年以上がかかる。(理解するにはもっとかかる)

表面を撫ぜるだけなら、そう大変ではないが、教科書の内容をしゃぶりつくすようにしっかりやろうとするとものすごい時間がかかる。

SORAは授業時間を確保している塾だが、それでも大変なのだ。

生徒達にも頑張ってもらわないといけないが、私達も、色んなものをフル動員させて懸命にやっていきたい。












「技術」より大切な「何か」

 毎年中3の夏季合宿には卒塾生の高校生を連れて行って、積極的に生徒の質問を受けさせていると以前書いた。

高校生に教えさせると、中学生は不思議な事に異常なくらいの集中力で彼らの解説を聞く。私達が質問を受けるのよりも数倍くらいの集中力と気の使い方をするのだ。これがとてもおもしろいところだ。毎年そうなのだ。



2012合宿_質問を受ける高校生
Nikon D700  Nikkor 70-300mm f/4.5-5.6G IF-ED 



高校生達はプロではない。だから教えるのは私達ほど上手くない。けれど、彼ら彼女らは本当に一所懸命なのだ。それは私達の「一所懸命」とは比べ物にならないくらいの「一所懸命」なのだ。「生徒に嘘(間違い)を教えるわけにはいかない」「上手に教えてあげないといけない」なまじ技術などない上、いいかげんなことをしてしまったら、生徒の成績が上がらないかもしれないし、進学塾SORAに泥を塗るかもしれない、なんて思いながら、必死で教えてくれているのである。

その「真剣さ」は生徒に伝わる。生徒達は生徒達で「この人の説明を理解してあげないといけない(そうでないとこの先輩が可哀想)」くらいの気持ちで、その「真剣さ」に(思わず)応えてしまう。この「真剣さ」は残念ながら私達には出せない。彼らだからこそ出せる。それは私達がいいかげんな気持ちでやっているということではない。これは大人や、技術を持ったプロにはもう出すことができない、あの年齢の子たちだからこそ出せる「オーラ」とでも言う他ない。

下手糞な大人の塾講師が同じように焦って、緊張して、それでも真剣だからといって、こういう「オーラ」が出るかというと、そういうことは絶対ない。これは神様が「若さ」にだけ与えた宝物なのである。

上の写真を見ていただきたい。中3生に一人の高校生が教えている。向かいに座った二人の高校生は、中3生の目をじっと観察している。中3の子が解説を理解してくれたかどうか。そのことだけを考え、中3生の女の子の目をじっと見つめている。写真からでもこのひたむきさは伝わる。SORAの先生は生徒の目を見つめているということは以前書いたが、ほんの半年前まで私達に教わっていた高校生達が同じく、生徒の目を見つめてくれているのだ。

合宿後に生徒達に書かせた合宿の感想文には、高校生達に感謝する言葉がいくつもあった。「本当に一所懸命教えてくれました」「わからないところを親切に聞いてくれました」「わかりやすかったです」中3生にとって、彼らは「わからないところを教えてくれた先輩」以上の存在だったようだ。何と言っても、そのひたむきさに加え、つい半年前まで自分自身が受験生だったのだ。私達以上に中3生に伝えられることもあっただろう。

高校生はプロではない。プロではない高校生に生徒の質問を受けさせるのはどうかという考え方もある。もし間違ったことを教えたらどうするのか、もし生徒の質問に応えるのに時間がかかってしまったらどうするのか、など不安な点を挙げる人だっているだろう。しかし、「非日常」である合宿において、こういう機会があるということは中3生に大きなメリットがあると私は断言できる。(もちろん普段から高校生に教えさせているわけではない。彼らだって忙しい。)

高校生には、教えるにあたって、怪しいことがあれば先生にすぐに、躊躇せずに相談するように事前のミーティングで伝えてある。私達の目の届くところで、私達が何をやっているかを確認できるような状況で教えるようにもさせた。そこはこちらのマネジメント次第なのだ。(くわえて、連れていった高校生達は奈良や畝傍に進学した、しっかりと高い学力を持っていた子達で、彼ら彼女らの名誉のために言っておくと、教え方はこちらが思う以上に上手だった。)

教育にとって「技術」というのはとても大切なものである。技術を軽視してはいけない。しかし、技術というものの、教育におけるウエイトは、いいところで二割程度のものなのでしかない。それを忘れてはいけない。「技術」以上に大切なことはたくさんあるのだ。

進学塾というのは下手をすると、生徒達に合理的で、無駄のない「最短距離」を進ませようとしてしまう。それがきっと、塾に通う生徒や親の要望であると信じこみ、「合格への最短距離」を示さなければならないと思いこんでいる。技術やノウハウでそれを研ぎ澄ませば研ぎ澄ますほど、子供達は何かを身につけ損なっているなんてことが少なくない。我々が無駄だと思っていることの中に、我々が「手間」だと思っていることの中に、実は大切なことが山ほど埋まっている。そういうことを忘れてはいけない。

指導者自身のためにも、技術に溺れることは警戒しなければならない。この仕事を長い間続けていると、倦んでしまう人も多い。昔の財産を食いつぶしながら、日々生徒に接している人は少なくない。技術があれば、そこそこ手を抜いても大丈夫と思ってしまうのである。倦むことは膿むことであり、熟れることは病むことに似ているのだ。

私の周りには力を伸ばしたいと日々努力する若い先生や、素晴らしい「オーラ」を放って生徒に接していた高校生が身近にいる。まったく倦んでいる場合ではない。それは本当に有り難いことだ。(まあそういう環境を意図して作っているわけである。)生徒達のためと同時に、スタッフや塾長自身が成長し続けるためにあれやこれやと日々考えているのである。




※1 リンク先のブログに「その1」と書いてある。「その2」が全然続いていないのであるが、書きたかったのはこのことなので、このブログを「その2」いうことにしたい。

※2 顔がしっかり写っている写真に関しては、本人と親御さんに了承戴いた上、掲載。


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Nikon D700 Nikkor 70-300mm f/4.5-5.6G IF-ED







息子の運動会

 例年だとそうでもないのに、この9月は新入塾生がやたらと多くて、なんやかんやとバタバタした。ブログの更新もなかなかできずじまい。

息子の運動会もあったが、自分の住んでいる市に校舎もできたし、ましてや息子と同じ学校の子もSORAに通ってくれているので、毎年アップしていた写真もなかなかアップできない(笑)


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Nikon D700



とはいうものの、それでもアップしてみる(笑)例年、ダンスに関しては振り付けもあやふやにしか覚えておらず、いいかげんなところもあったが、今年はダンスの曲や振り付けが彼の美学を刺激したのか、ずいぶんと熱心に踊っていた。

ちょいと鉢巻の巻き方を他の男の子と変えてみたり、母親にハッピのアイロンをきかせてパリッとさせてくれとリクエストするなど、彼なりのかっこよさの追求みたいなものがあったようだ。鉢巻はねじりを少なくして結び目の余りを少しサイドに垂らしていた。洒落ているといえば、洒落ているといえなくもなかったが、どうも何かに似ている。途中で気が付いた。「床に臥せっている殿様」みたいだったのだ(笑)

まあともあれ、昨年に比べると、リズム感もよくなっていたし、ダイナミックに体を動かせていたように思う。何より踊っているときの顔が真剣だったのがよかった。

昨年も書いたが、息子の小学校は上級生がいろんな係をして、キビキビと動いているのがとても気持ちいい。先生方の日頃の指導の賜物であろう。普段の指導はこういうイベントのときに必ず出る。普段子供たちに身につけさせたいことは必ず形になって表れるものなのだ。今年も子供たちの動きは素晴らしかった。

また、6年生のバトンパスは中学生のそれよりもずっと素晴らしかったと思う。よほど練習しないと小学生でこのバトンパスはなかなかできないだろう。渡す方は的確に次の走者にパスしようとしているし、パスされる方はいっさいランナーの方を見ていない。完璧である。

ちなみにこの写真、バトンを渡している子が塾生の子で、いい写真を撮っておいてあげようとシャッターを切ったのであるが、できることなら、切り取らずに見ていただきたいくらい躍動感のある写真なのである。受け取る女の子もこの切り取った写真では止まっているように見えるが、この子も走りながらバトンを受け取っている。私はこのシーン、涙が出そうになるほど感動した。先生方のご指導に深く敬意を表したい。


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全体的に素晴らしかった運動会だったが、ひとつ気になったのは「ラジオ体操」である。運動会の最初のプログラムといえば、「ラジオ体操」だが、第二の運動のとき、子供達は全員ベタ足のままで腕を振っていた。第二の運動のとき、かかとを地面につけてよいのは「イチ・ニ・サン・シ」のニとサンの一瞬だけである。後はずっとかかとは上げていないといけない。文句を言うつもりではないのだが、かかとが上がってないので躍動感がなく、係の動きやダンス、バトンパスに比べると見劣りがしたのがちょっと残念だったということ。(こんなところを見ているのは私だけだろうけれど。)

細部を徹底的に指導すると、全体がよくなる。「基本」を大切にし、こういう細部にこだわることは子供を伸ばす上で大切なことだ。世の多くの運動会が「ラジオ体操」から始まるのはきっと意味のあることにちがいない。限られた時間の中で、あれだけのことができているのだから、ぜいたくなリクエストではあろうが、来年は見事なラジオ体操を見せてもらいたいと心密かに願っている。










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