大和軒のニラ炒めが美味かった話もしくは10と9の間

 この間、天理の大和軒(中華料理の方)へ行って食べたニラ炒めがやたらと美味かったので、ここ数日、家でニラ炒めばかり作って食べている。

大和軒は大衆中華料理屋で、値段は安いが味はとびきりいい。私が中学生の頃から通っている店だ。ちゃんぽんや中華丼、チャーハンの美味さったら言いようもない。この店の中華そばを食べてみてほしい。当たり前の中華そばがこんなに美味いのかと驚かれると思う。

私はけっこう料理上手な方なので、手を抜いたような店の料理より美味いものを作れるとうぬぼれているが、ニラ炒めを毎日作っていても、大和軒のそれにはとてもかなわない。大和軒の美味さを10としたら、私の作るニラ炒めは9くらいだ。

10と9じゃほとんど変わらないじゃないかと思われるかもしれないが、それはちょっと違う。10というのは完璧ということなのである。9というのはなかなか素晴しいが、それは完璧ではない。だから5と6や7と8の間と違って、10と9の間には途方もない差がある。9と10の間の距離は0から9までの間に等しい。ちょっとの差は途方もない差なのだ。

仕事でも勉強でも何でもそうだ。仕事を9割仕上げてから、そこから10にもっていくときの苦労は0から9割まで仕上げたときの苦労と同じくらいのものだと思うし、また仕事とはそうでなければならない類のものだと思う。勉強もまた同じで、試験範囲の9割をあらかた勉強してから完璧に仕上げるのが大変なのだ。

昨日、中1の生徒達、小学生のときから塾へ通っている子達のクラスで、中間試験の勉強が全体的に甘かったことを説教した。ある子に、勉強したのか?と問うと、その子は「しました」と答えた。私がそれに重ねて「じゃあお前の全力を100パーセントとして、何パーセントくらいやったって言うの?」と訊いたら、「7,80パーセントです」なんて答えるのである。

「皆が走るレースで、自分一人、8割の力で流してレースに勝てるわけないだろう。お前がやった、と言っているのは、走りました、と言っているだけで、勝とうとしました、ではないんだよ。試験勉強で、8割の力で、なんて言ってるのは、一応レースには出ますけれど、勝つつもりはまったくありません、って言ってるのと同じことなんだよ!お前そういうつもりで試験受けたの?」

そう訊くと、もちろんその子は首を振った。

9割仕上げて、そこから10割へ持っていくのも途方もないのに、8割程度で流していたのでは点数が取れるわけもない。よく考えてみてほしい。勉強がある程度できる子ならば、定期試験、500点満点中400点を取るのはそう難しいことではない。しかし450点から上は途方もない努力が必要になってくる。450点と470点の間の20点は350点と370点の間の20点とは別物なのである。

点数なんかはまず置いておいてもいいから、まずは生徒達に9割先を仕上げることが途方も無いことだということから学ばせなければならない。また、未熟な自分の「完璧」はせいぜい7割程度のことなんだということも学ばせなければならない。それを理解し、自覚しないかぎり本当の成長はない。

私のニラ炒めも、本人は9だなんて言っているが、当然、これもよくて7くらいのものに決まっている。だから、それを自覚しない限り、大和軒のニラ炒めには近づけるはずもない。そういう努力をする必要があるのかどうかは別として。(そんなことを書いていても本人は絶対に9と思っているところがタチの悪いところである。だからきっと生徒達もそうなのだろうと思っている。)



塾なう


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塾なう( ̄∀ ̄)

自習しにきたら…
中学1年ばっかしwww

めっちゃ喋りよるし!

来る時間失敗や...(゜□゜)


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 今日、高1の女の子が、自分のLineのタイムラインにこう書いているのを深松先生が見つけて連絡をくれた。(高校生は連絡にLineを使っている。)

入塾したばかりの中1生が初めて自習室に来て、勉強の間にお喋りをしていたようだ。

前日に厳しく自習をするときの心構え等について話をしておいたが、「ほんのちょっぴり」喋ってしまったのだ。

本人達は「ほんのちょっぴり」と思っていても、中3生や高校生にとってそれは「ほんのちょっぴり」なんかではない。

十分勉強の邪魔になるくらい、やかましかったのだろう。

それで高1の子がこう書いたのだ。




SORAでは自習室に見張りの先生を入れていない。

見張りの先生のいるところで勉強をしていると、見張りの先生がいるときは集中できるけれど、「見張り」がいないと集中できない子になってしまうからだ。

積み重ねたことは「クセ」になり、「習慣」になり、「性分」になり、「人となり」になる、というのがSORAの考え方だ。

最初から自律することを教え、それを習慣づけたいと考えている。

自律して勉強することができるようになっていれば、高2生のように、こうして専用の勉強部屋を用意してやることだってできる。



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自習室に見張りの先生を入れないというのは、私のポリシーで、5年以上前にもこんなブログを書いている。

SORAを見学された他塾の先生は生徒達が黙々と勉強し、活動的に、能動的に動く様子に驚かれるが、それは「積み重ね」なのだ。

ただ、大切なポリシーとはいえ、年度の頭なんかは特に喋ったりするような子も出てしまうので、自習室の空気が乱れるというようなトラブルが起こったりもする。

問題が起きれば、きちんとするよう話をする。

もちろん全員が一回で聞き分け、できるようになるわけもない。

なかなか自覚ができない子には何度も何度も言ってやらないといけない。



お喋りをしていた中1生は勉強している部屋を変えさせて、厳しく叱った。

前日にも注意を受けていた子もいたので、退塾の話まで持ち出して叱った。

ここをいいかげんにされると、SORAの教育を行うこと自体が困難になる。

だから厳しく厳しく叱った。



しかし、私が一番厳しく叱ったのは、書き込みをした高1の子である。

この子自身も、中1や中2のときは自習室できちんと勉強ができなくて、何度も叱られてきた子である。

何度も叱られてきて、やっと集中できるようになった子である。

君がたくさん迷惑をかけた場ではないか。

君が成長してきた場ではないか。

部屋がうるさいというなら、自分で注意すればいいし、職員室に言いに来てもいい。

自分のLineのホーム画面に文句を書いても何も状況は変わらない。

ましてやこの書き込みだと、SORAの自習室は立ち歩く子や消しゴムを投げ合う騒然とした部屋のようである。

そしてこの子自身が携帯片手に勉強しているかのごとくである。(本人は休憩時間に書いたとは言っているし、それは嘘ではないだろう。)

私は「自習室の状態はそんなだったか?そしてお前はそんな愚かな生徒か?」と怒鳴りあげた。

「自習室を大切にしようという思いを持った行動か、それが!」と、さらに大声で怒鳴った。

塾の自習室は皆で作り上げるものであって、こちらが用意するものではない。

部屋という箱は用意できても、凛とした迫力のある場はこちらが一方的に提供できるようなものではない。

皆の真面目な勉強をしようとする思いを持ち寄って、勉強しやすい場所に、皆で仕立てていかなければならない。

少なくとも私の考えはそうだ。

皆が大切に作り上げてきた自習室の意味をこの子はきっとわかっていない、そのことがやるせなかった。

そしてそれを伝えきれていない自分達の力不足!

塾に都合の悪いことを書いたから叱られた、と思われたら嫌なので、この書き込みは絶対に消すなと言っておいたが、その子はすぐ消してしまった。

だからこうやって私自身が書いている。(自分のブログにも書いておくとその子にも言っておいた。)

SORAはおりこうさんばかりが集まる塾ではない。

日々こうして生徒達と組んずほぐれつしながら、彼らを成長させようと奮闘している塾だ。

奮闘するということは見捨てないということである。

高1の子には先ほど、Lineでメッセージを送った。

『「宿題」を一つ出す。明日も塾へ自習に来い。』

叱って、怒鳴ってお終い、では指導ではない。

「その先」がなければならない。

明日はその先をやってみよう。










そうそう、そういうこと

 今朝、ネットでこんな記事を見つけた。

まさに僕はSORAの3Fに、高校生達のための「共同体を創発しようとしている」のだ。

「共同体」は「しがらみ」であり、現代人は「しがらみからの離脱」をしたがるものだし、そうしやすくもなっているけれど、それが故、脆弱。

僕の作ろうとしている高校生の学びの場は「疑似家族=共同体」。

家族はしがらみがあって、面倒くさいもの。

それも含めての「共同体」を作ろうと思っている。(メリットだけを抽出するようなやり方は間違っているし、たいていそういうのは上手くいっていない。)

この筆者は、いかに自ら共同体にコミットメントしていくか、ということを言っているけれど、それこそONE PIECEのルフィみたいに「おいお前、仲間になれ!」と、強引に引き込んで困惑させて引っ張りまわしてやればいい。

そこは時代遅れでいいと思う。

生徒達を「あ、アイツ仲間にしたいなあ」と思われるように育てていきたいものだ。



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第0回若人塾SORA夕食会

 ゴールデンウイーク最終日、自習に参加した生徒達と一緒に夕食をとった。

まだ食器やらいろいろなものがそろっていないので、献立は簡単に鶏のから揚げとサラダ、ごはんというシンプルなもの。

私の作る「鶏のから揚げ」はとても評判がよく、いろんなところで褒めていただくので、ここぞとばかりに得意技を繰り出したわけだ。


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うまそうなオーラがただようから揚げ。

鶏のモモ肉を5枚揚げた。


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から揚げで手が離せない私はサラダ作りを他の先生に頼もうとしたが、からきし役に立たないので、Iさんにちょっとだけ手伝ってもらった。(この日はコーシ先生と井上先生とフカマツ先生しかいなかった。つまり女性の先生がいなかった。)


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初めてということもあって、彼らが慣れぬ場で僅かに緊張しているのが見て取れる。

この緊張感が取れ、それこそ家でとる食事のような自然な感じに早くなるようにしたい。

「第0回」といっているのは、これが正式な夕食会ではなくて、実験的にやってみた会だから。

基本は全員参加。

私はずっと昔から「共に飯を食う」ことの大切さについて書いてきたが、最近は「共食」という言葉もよく聞く。

何か共に事を成すというとき、「共に飯を食う」ことはとても大切。

アナクロだと笑われるかな?

いいよ、アナクロで。


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余ったごはんはラップで包んで冷凍。

腹が減ったらチンして食えと言ってある。

この「アジト」にはカップラーメンやサトウのごはん、缶詰などを置いて、自由に食べられるようにしたいと思っている。

全部無料というのもあれだから、カップラーメン一個100円とか、サトウのごはん一個50円とか、お金を缶にでも入れてもらって好きに食べるというような形にしたい。





「場」を皆で作り、皆で大切にし、その皆で作り上げた「場」に集うことで「個」が頑張ることができ、力を発揮することができる。

「場」を作り、そこに属していたら、面倒くさいこともある。

我儘は通らない。

自分自分自分、と自身の得や利益のことばかりを考えていたら、「場」に属することはできない。

しかし、自らが依るべき「依り代」がないというのは実は脆弱な状態なのである。

自分のいいように、自分のやりたいように、自分の得なようにということばかりを考え、フラフラと移り歩いて、結局何も見つけられず、何もすることができないままでいる「寄る辺なき」者は世の中に少なくない。

わが門下生には、自分達が集う「学びの場」を自分達で練り上げ、秩序をもって維持することで「頑張れる自分」を築いていってもらいたい。

もちろん、彼らの「依り代」の中心には、私が在るべきという自覚は十分持っているつもりだ。









新しい塾を作った

 この春から高校2年生を教えている。

今までは高校1年生まで教えて、受験勉強の入口までの基本的なことは面倒を見、大学受験の勉強は専門の塾か予備校へ行ってください、というスタンスだったのだが、どうにも我慢できなくなって、大学受験の面倒を見るということになった。


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Nikon D800 AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR


偉そうに言わせていただければ、塾や予備校の「現役生」に対する指導に対して我慢できなくなったのである。現役生を大学に合格させるならば、それなりに方法がある。なのに、塾や予備校の中には、高校生に足枷をかけ、合格しにくくしているとしか思えない方法を取っているところも少なくない。私達がせっかく育てた卒塾生達にそんな足枷をかけられたらたまったものではない。それならSORA流の受験勉強法で大学に通してやろうではないかと思い立ったのである。

「足枷」とはどういうことか。話せば長くなるので簡単に記すと、「現役生にあまりたくさんの授業をとらせて時間を奪うとますます合格しなくなってしまう」ということだ。授業を聞いて分かっただけでは受験には通らない。身につけるために何度も何度も反復しなければならない。高校受験は、覚えたり、身につけたりしなければならないことがそう多くないので、週に3回塾へ通っても受験勉強はできるし、そう反復をしなくても逃げ切ることもできないではない。しかし、(たいていの子には)大学受験はそうはいかない。ましてや高2になって周りを見回したら、皆が塾へ行っているので自分も塾へ・・・と流されるままに塾へ通っているようでは大学受験はなかなかうまくはいかないのは当たり前。

流されて、塾や予備校で授業をたくさんとって安心したり、たくさん授業をとって時間が取られてしまうと、大切な大切な「反復練習」を行う時間がなくなってしまう。世の中では、大学に受からないのは本人の努力不足ということになっているが、足枷をかけられ(指導が悪くて)、合格する力を奪われた子だって少なくないと私は思う。

大学受験は高校受験と比べ物にならないくらい難しいから、「分かる」ということに力をかけたくなる現役生の気持ちはよく分かる。けれど、体に染みこむくらい徹底的に「反復」することは、「分かる」と同じくらいか、それ以上に大切なことだ。

「反復」をバカにしてはいけない。今の子は「反復」を軽視しているが、分かったからといって反復をしなかったら、「分かる力」を磨くことができない。だからSORAの高2生には、他所の塾の生徒が「授業」を聞いている間に、徹底的に反復をさせる。反復の大切さを叩き込む。基本的に高2生には授業をしない。学習計画を作らせ、それを進めさせる。課題はもちろんこちらからも与える。。(ただし、生徒の質問には応えるし、夏休みなどの期間には講習会などは行う。)私達はティーチャーというより、共に合格を目指すコーチかトレーナーという存在だ。もうガッツンガッツンいく。

先日、こちらの指導方針について保護者会まで開いて、私の考えを聞いていただいたが、生徒達にも保護者の方々にも、方針について理解していただけたと思っている。(私はこの方法が現役生が限りなく合格可能性を高める方法だと思っているが、なぜ同じ方法を採る塾がほとんどないかというと、それはお金にならないからだと思っている。授業を取らせれば取らせるほど、塾は儲かる。そんな話もした。)

もちろん、超難関の大学に関して、まったく教えないままで合格できるのかといえば、そうではない。そこは個別に教えたり、添削したりして対応する。必要なことは教え、勉強を進み具合をチェックし、とにかく彼らの勉強時間を無駄に奪うことをしないようにしたい。

私は、この高2生の学びの場は、進学塾SORAとは別の、新しい塾のつもりでいる。『大学受験道場SORA』とでもいうべきか。だから、塾には余っているスペースがあるにもかかわらず、彼らのための部屋まで新たに借りた。それが一番上の写真だ。

ご覧のとおり、完全に普通の家である。八木校の上のアパートの一室を借りたのである。写真の端にかろうじて写っているのは冷蔵庫。ここでは食事をする設備を用意した。ひと月に一回くらいはここで全員で一緒に夕食を作って食べることになっている。その気になれば泊まり込みだってできる。道場生と擬似家族化して受験に臨もうと思っているのである。

保護者会では「この子たちを振り回しますけれどもよろしくお願いします」と伝えてある。保護者の方々も笑顔で承知して下さった。思う存分に指導できる生徒達を持つことは幸せなことだ。冷蔵庫、洗濯機、ガスコンロ、食器棚、机、椅子、エアコンと、お金はやたらとかかったが、そんなことは些細なことだ。


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Nikon D800 AF-S NIKKOR 24-120mm f/4G ED VR


今日は塾はGW期間でお休みだったのだが、高2生が自習をしたいというので付き合った。立ち上げたばかりの高2クラスの生徒がせっかくやりたいと言うのだ。それを私が「いやあ、先生GWで用事あって塾開けられないのよ」などと言うことはできなかった(笑)





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