ピュリファイ

みかみ先生が書かれているのを見てびっくりした。 

http://mikamijuku.jugem.jp/?eid=5042


私もまったく同じことを考えていたからだ。

http://45741970.jugem.jp/?eid=1083


何度も何度もコメントを書いては消しを私も繰り返した。

素晴らしいブログにはなかなかコメントはできないものだ。


先生の文章は真正面に切り込んでくる。

純度の高い先生自身の思いが伝わってくるからこそ心を打ち、心を揺さぶられる。


私も仕事が楽しいのが理想だけれど、なかなかそうはならない。

でも、思えばそれは当たり前なのだ。

人生は苦しいことの連続で、時折、ああ楽しいなとか、幸せだなと思える瞬間がある。

その瞬間のために人は生きている。

それが人生というものだ。

苦しみがあるから、幸せが際立つ。

私は勉強も同じだと思っている。

そう思って毎日生徒達の前に立っている。



「人は苦しみの中からしか学べない」

私はずっとこの言葉を歴代の生徒達に、ことあるごとに語ってきた。

社会人になった教え子が今でも時折「あの言葉がずっと私の支えでした」と便りをくれる。

ちなみにこの言葉をGoogleで検索すると、私のブログよりも先に、私の教え子のブログが検索の頭に出る。

みかみ先生の仰るこの言葉が胸に染みる。

>今生きてる卒塾生のみんなが僕の本当の生き様で、僕の本当の宝なんだってそう思った。


二人の先生の言葉が私をピュリファイしてくれた。

私もそういう言葉を綴れるようになりたいと心から思う。





いつかとりもどす


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Nikon D700  cropped


年を重ねるにつれ、心が何かに呪縛され、無邪気なまでの「一所懸命」というのができなくなる。

人の目や自分自身の可能性、そんなものをつい考えてしまい、身をすくめてしまう。

人は誰も、一旦、無邪気な「一所懸命」を手放してしまうのだ。

けれど、精一杯生き、喜び、傷つき、もがき苦しみ、それでも、くさらずに頑張り続ける。

そうすれば、あのころの無邪気な「一所懸命」を再び手にできる。



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Nikon D700 cropped



私達は子どもの頃持っていた大切なものを皆一度失う。

そして再びそれを手にするために今を生きているのかもしれない。

だからこそ私達は子どもの「無邪気」に心を動かされるのではないか。

運動会で頑張る子どもたちの表情を見ながらそんなことを思った。



井の中の蛙

気がついたら、旧の楽天のブログと、このjugemのブログのアクセスを合わせると100万を超えていたいた。

jugemにつけているカウンターはjugemが示すアクセス数よりも少ないので、実際はもっと多いかもしれないが、そんな細かいことはいい。

100万というのは凄い感じがしていい(笑)

うれしいものだ。


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Nikon D700 SIGMA50mm/f.1.4


楽天の一番初めのブログが2005年の11月だったので、ブログ歴はもうすぐ4年になる。

その間にはいろんなことがあった。

だいたい4年前はSORAを開いていなかった(笑)

多くの人との出会いがあった。

3歳だった息子は7歳になった。


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Nikon D700 SIGMA50mm/f.1.4 (トリミング)


人生は進んでいく。

昔のブログを読んでいると、つまらないことも、恥ずかしいこともいっぱい書いている。(今もきっと書いているだろう。)

でも、いい。

それは私の成長の記録だ。

人は何歳からでもいつからでも成長できる。

「狭い世界」を精いっぱい生き切って、その代わり、見上げた空の青さを誰よりも知っている「蛙」でありたい。

それが私の美学であり、「物語」だ。

同志

今日、公文の先生とお話をする機会があった。公文の先生といっても、息子の習っている公文の先生ではない。彼女の生徒は痴呆の症状が出始めたおじいちゃん、おばあちゃんだ。

今、Kumonはどうやら老人の痴呆防止(そこまで直接的には言っていないだろう。おそらくは生涯学習なんていっているかもしれない)のための教材も作成しているらしい。

少子化の世の中である。これ以上マーケットを拡大するならば、外国に打って出るか、生徒の年齢層を拡大するしかない。そうKumonはそれを両方やっているのである。凄まじい商魂。

商魂といっても、それは経営に関してのことで、現場の先生にそんなことは関係ない。現場の先生というのは一部を除いていつも一所懸命なのである。

私は彼女の話を聞いて、涙がこぼれそうになった。

私の生徒たちは輝く未来が手を広げて待っていてくれる子どもたちだ。しかし彼女の生徒はお年寄り。翌週には先生の顔すら忘れていることだってある症状を抱えた老人たちなのである。

家庭を守りながら、言うことをろくに聞かない子どもを育てながら、彼女は老人たちの前で先生になる。生徒たちに少しでも脳の体操をしてもらい、過ごしてきた人生の思い出が消え去っていくのを少しでも遅らせようとする。会うたびに仏のようであったり、修羅のようであったりする生徒のために精一杯の努力をする。彼女の仕事はそういう仕事なのだ。

時折、彼女の生徒たちの手元にしっかり思い出が戻っているときがあって、彼女はそんな生徒たちの思い出話を聞く。さぞかし辛かった人生なのに、時間が経ってそれはすべて美しい思い出になっているのだという。



「kamiesu先生とは全然やっていることが違いますけれど、私も先生の同志なんて思っていいですよね?」



彼女が控え目に聞いてくれる。そんなのは当たり前だ!相手の人生、そして自分の人生を尊いものだと捉え、その人のために精一杯であろうとする者という意味で私たちは同志なのだ。人は生きる糧となる物語を作って生きていくのである。






先生、お互い頑張りましょうね。ありがとうございました。






ヒーローに会えた日(5)

私はハッと気がついて、手にしたプレゼントのことを思い出した。元々はこれを渡すという名目でここまで来ているのである。


     私: これはあなたへのプレゼントです。日本に来てくださってありがとうございます。

アート: (にっこり笑って)これは何かな。

     私:   日本の扇子です。日本の夏は暑いですから。

アート:   おお、それはありがとう。うれしいね。


そんな会話をした後、アートは移動のために促されてその場を去って行った。別れ際にっこり笑って手を振ってくれた。

アートが立ち去った後、ジェームズと目が合った。彼はにっこりとほほ笑んでいる。そんな彼にありがとうと言いながら、握手をし、二人で盛り上がり、思わずハグまでしてしまった。彼もとてもうれしそうにしてくれた。



(こういう写真を昔からネットで目にしていたけれど、そのジェームズが今私のために・・・と思うとなんとも言えない不思議な気持ちだった。)

ジェームズがふと「もう一つ持っているのは?」と尋ねる。私が、「いや、これは一応ポールにと思って・・・」と言うと、なんと彼は「じゃあ、ちょっと待ってて、でもポールはdifficultだけれど・・・」と言ってくれて、その場を離れた。どこまで親切なんだろうとびっくりした。

すぐに彼は戻ってきて、すまなさそうに言う。「やっぱりちょっと無理だったよ。人と話をしていて・・・でもこれは僕がポールに渡しておいてあげる。」

私は丁寧にお礼を言いながらも、何で彼はこんなに親切にしてくれるんだろう、こんなこと誰にもやっていたら、とてもじゃないが仕事が進まないだろうに、と不思議に思っていたら、彼は私の心を読んだように、こう言ってくれたのである。


「あなたのスマイルは so nice だった。だからこれは絶対に何とかしてあげなきゃと思ったんだ。」


(私の塾講師セミナーに参加下さった方なら、きっとご理解いただけると思う。なぜジェームズがこのセリフを言ってくれたか。私自身も本当に驚いた。)


このセリフが西洋人特有の言い回しだったとしても、この日、日本人でアートに会えたような人は他になく、ジェームズが私のためにここまでしてくれたのは紛れもない事実である。

「本当に本当にありがとう。あなたのことは一生忘れない。」と言って、ジェームズと別れた。廊下を去っていく彼の姿を目に焼き付ける。本当にお父さんそっくりだ。タイムスリップして20代のアートに会えたような気がしてきた。

楽屋へ戻って、バキチにお礼を言おうと思ったが、彼は席を外していて、最後の最後に彼にお礼が言えないのは残念だった。彼の尽力なしにアートには会えなかった。メールも送っておいたけれど、この場を借りて彼には感謝の言葉を述べておきたい。ありがとう、バキチ・クマロ。あなたの親切と優しさは忘れない。


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ギターのマーク、そしてラリーと一緒に撮った写真。

サイモンとガーファンクルの16年ぶりの来日は私に様々なものを与えてくれた。その中には「学び」や「気づき」もあった。30年近く憧れたものに触れ、きっと私の心はピュアになっていたのだ。だからこそ多くのことを受け取れたのだと思えてならない。そういうことの大切さに改めて気付かされた一日だった。

(了)



ヒーローに会えた日(4)

バキチはどんどん超VIPエリアの方へ歩いて行く。彼が超ポジティブで人がいいのは短い時間の大阪城観光でも分かってはいた。たぶん勝算があって動いてくれているのではなく、頭にあるのは「何とかしてやりたい」という思いだけなのだ。頭より体が先に動くタイプだと思う。

『Graceland』をポールと一緒に作った偉大なベースプレーヤーが、私のために行動してくれている。こんな光栄かつ嬉しいことはない。私は胸がいっぱいで、「それだけでもう十分です」という気持ちだった。

それでも彼はあきらめない。彼は誰かを探している様子だった。つまり許可をとれる人物を探していたのだろう。元々が無茶な話だったのだが、この日の私は何かに祝福されていた。なんとそこへアートガーファンクルの息子のジェームズ・ガーファンクルが通りかかった!どうやらこのツアーではスタッフとして動いているようだった。

バキチはチャンスを見逃さない(笑)いきなりとっつかまえて私を紹介してくれた。ジェームズはびっくりするくらいお父さんの若い頃に似ていた。



(ネットから拾いました。お父さんの若い頃にもうそっくり!!)

ジェームズはバキチから事情を話されると、私を真剣な顔で見つめ、「分かった。ちょっと待ってて」
と言って、急いでどこかへ行こうとし、そしてくるっと振り返って「やっぱり一緒に来て」と言った。「Stay here.」と言ったときの声がもうお父さんの若い頃の声にそっくりなのに驚きながらついていく。

そして再び、ここで待っててと言われ、待っていると、ジェームズはお父さんを連れてきた。アートガーファンクルが私の方に歩いてくる。キャップをかぶり、眼鏡をかけ、ラフないでたちで、そしてとても優しい顔で微笑みながらゆっくりと歩いてきた。

高校生のときから憧れていた人が目の前にいる。目に薄く涙が滲む。アートはにっこり笑って、握手の手を差し出してくれた。握手をしながら、私は「30年近くあなたの大ファンでした。(I've been a great fan of you for almost thirty years, since I was fifteen.)」と言った。言いながら、生徒達の教科書に似たような文章があったなとちらりと思った。

(つづく)








ヒーローに会えた日(3)

ベースのバキチ・クマロはアパルトヘイト下の南アフリカ共和国で自動車整備の仕事をしていた。家でベースの練習をしていると、警察に捕まってしまうので、窓を閉め、音を小さく小さく絞って練習に励んでいた。

80年代半ば、アメリカから超VIPのミュージシャンが来て、腕の立つミュージシャンを集めろと言っているからこいと、知り合いからバキチのところに電話がかかってきたが、彼は仕事の最中だからと断ったものの、電話の向こうで、とにかくベースを持ってこいとうるさく言うので渋々行ったのだという。

アメリカからの超VIPミュージシャンとはポールサイモン。たまたまあった南アフリカの音楽のテープを何気なく聴いていたときに何かがひらめき、アパルトヘイト下の南アフリカに行くことの批判も恐れずにやってきた。

バキチはそのポールサイモンのところへ、ベースギターをケースにも入れず、裸のままそれを抱えてやってきた。そして言われるがままにベースを弾き、ポールサイモンにぜひ一緒に仕事をしてくれと言われたのだという。ポールと握手したときバキチの手はグリスまみれで、ポールは驚き、「ここはアフリカなんだね。」とにっこり笑って言った。

ポールが南アフリカを中心に4つの大陸で集めてきた音を基に完成させたアルバム「グレイスランド」はグラミー賞の最優秀アルバム賞を受賞するが、このアルバムを聴いた世界中の音楽にうるさい連中が、アルバムの完成度に驚くだけでなく、「このベースは誰が弾いているのだ?」とベースが(彼らにとって)斬新であったことも話題になった。

アルバム「グレイスランド」がリリースされたとき、私は大学4年で、ポールのこの新作が待ち切れず、日本版が出る前に京都の十字屋で輸入盤を手に入れ、いち早く聴いた。

「グレイスランド」に初めて針を落としたとき、一体何が起こったか理解できなかった。一曲目のBoys In The Bubbleはアコーディオンの印象的なフレーズで始まり、そこへ大音量のドラムのバスが割って入る。今まで聴いてきた音楽ではないし、何拍子の曲なのかもわからなかった。ポールサイモンに何があったのだと困惑した。凄い音楽とのファーストコンタクトとはそういうものなのだろうと今にして思う。

その「グレイスランド」のサウンドの要であったバキチ・クマロが目の前にいる。フレンドリーに笑ってくれる。夢のような時間だった。

コンサート後、楽屋でバキチに素晴らしい演奏でしたと伝えると、彼はとても喜んでくれ、お互いにハイになっていたせいか、ハグまでした。

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GR Digital  バキチ・クマロと私の握手。 撮らせてほしいと頼んだ。

バキチにささやかなプレゼントを渡した後、彼のフレンドリーさと人のよさに甘えて、お願いをしてしまった。

「ポールとアートにプレゼントを持ってきたんだけど、もしよかったら、二人に渡しておいてくれませんか。」

するとバキチは真顔になって、「そんなのは自分で渡した方がいいんだ。ついてこい」と言って、部屋を出た。

(つづく)