夏休みは「変化」の時

 夏休みは「変化」を生み出しやすい。

多くの生徒達が夏休みに変わっていく。

生活スケジュールの大きな変化が意識の変化を生み出しやすいのかもしれない。

だから、塾における夏休みの授業というのは特別な意味を持つ。


特に、夏の講習や特訓授業の入りっぱなは大切だ。

それは生徒を変えていく絶好のタイミングだからだ。

ここをぼうっと過ごしてしまう先生は、神様が与えてくれた宝物をドブに捨ててしまうようなものである。

教師は、ここで力強く、火の位の意識を持って、生徒の前に立ち、よい授業をし、よい言葉をかけ、褒め、励まし、叱り、喜び、怒り、全身全霊をもって生徒に相対したい。

「タイミング」は逃してはならないのである。

色んな「種」を蒔いておく

「努力」が「成果」になって表れるには時間がかかる。

大人ならよく分かっていることだが、生徒達にはこれがなかなか分からない。

彼らはちょっと頑張ってみて、結果が出ないど、落ち込んだり、すぐに諦めてしまったりする。

だからこそ、教師は「『努力』が『成果』になって表れるまでには時間がかかる」ということをしっかり子どもに教えておく必要がある。

しかもこれは最初に言っておかなければならない。

結果が出なかったときに初めて言っても、それは「なぐさめ」にしか聞こえないからだ。


『努力』と言うのはすぐに『成果』となって出てくることはないぞ。

時間がかかるものなんだ。

でもその間、『努力』は君の内側に『見えない力』となって蓄積されている。

それがあるときドバッと一気に『成果』となって吹き出すものなんだ。

だから1回くらい努力してダメだったといっても嘆くことはない。

そういうものなんだ。だからそこで頑張るのをやめちゃダメだぞ。

『成果』が出るまで継続だぞ。


こういう話は一度ではダメで、ことあるごとに何度も何度も語っておかなければならない。

丹念に語られたその言葉が、努力して結果が思うように出せなかった子の心をきっと支える。

よい指導者というのは、その場の言葉だけでなく、その過去の言葉が生徒を励まし、支え、やる気にさせる。

普段から色んな「種」を蒔き続けておきたい。


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(旧ブログからの加筆修正)




只管打座

禅に「只管打座」という言葉がある。

道元禅師の「正法眼蔵」という本に出てくる言葉だったと思う。

これは「ただひたすら座れ」という意味だ。

悟りたいとか、何かを得たいと想い、禅に励むのではいけない。

悟りたいという想いに囚われているうちは悟ることはできない。

悟るためには「悟りたい」という想いを手放さないといけないということだ。

悟りたいという想いが強いと「魔」が差してしまい、正しく禅の修行ができないのだという。

これは勉強でも同じことが言える。

点数を上げたい、成績を伸ばしたいと願い、勉強するのはとても素晴らしいことではあるが、その想いが「何か」を捻じ曲げてしまっていることは少なくない。

結果、ロカビリー先生のこのブログに書いてあるような子が出てくる。


ただただ、目の前の問題を解きたい、理解したい、これを覚えよう、これを完璧にマスターしよう。

恐らく、やってる最中はそれ以外の邪念はないと思う。

君のように「さあ、今日は1時間も机に座ったし、教科書も眺めた。成績はどのぐらい上がるんだろう?」なんて思ってはいないよ。

ちょこっと何かをやったら何かが返ってくる。

大間違いだ。

そんな気持ちを最初から持つのは無し。

そんなことを考えるのなら、「これをやっても何にもならないけど、それでもやる」と覚悟を決めな。

もう点数や成績や偏差値なんて「上がらない」。一切、期待しない。誰も褒めない。

それでもやれるか。

今の君に必要な心がけはそれだと思う。

やる前から欲しい成績を手前勝手に値踏みして、自分の行動を調節するようなことはロクなもんじゃない。

だいたい見誤ってるしね。そういう見積もりは。全然届いていないことばっかりだよ。お話にならないぐらい。

それにね。

価値は後からだよ。いつの間にか気がついたら、だよ。




本当にその通り。

「今日一時間勉強した見返りは何点ですか?」という考え方の勉強では力はつかない。

受験を終えた中3が、受験勉強で使ったノートやテキスト、プリントの膨大な束を整理しながら、「ああ、俺もよく考えてみればこれだけやったんだよな」としみじみ思う、そういう「思えば遠くへ来たもんだ」的な無心、夢中の中にこそ成長というのはある。

成長というのは今までの自分を乗り越えるということだから、「淡々と一割増」の努力で叶えられることは少ない。

どこかで「ただひたすら」という「熱」を帯びないと難しいと思う。

こういうことを言うと、すぐ「精神論」だと批判されるが、この仕事をしていて、飛躍的に伸びていった子というのは例外なく「熱」を帯びていた。

それは間違いのないことである。

「今日一時間勉強した見返りは何点ですか?」という心の使い方は、このような「熱」とは対極にある。

子供達というのは「よい勉強法」というのを「最少努力で最大効果を得る方法」だと思っている。

「熱」を帯びていない子にとってそれは「楽して点取る手抜きの方法」と二アリーイコールだ。

だから私たちは「よい勉強方法」について伝えるのと同時に、「熱を帯びよ」「点数を上げることは忘れろ」と言わなければならないのである。





生徒を観る

生徒から信頼され、指導力のある先生は「生徒の小さな変化に気づく力」が高い。

日常の指導や、共に過ごす時間の中で、生徒達一人ひとりの些細な変化、よい方への変化、よくない方の変化、「サイン」に気づく力は生徒を伸ばす上で不可欠だろう。

一方、生徒から信頼されず、指導力のない先生というのは、生徒の状態や変化を捉えるセンサーが鈍い。

生徒に話をしても、その生徒のことがよく観えていないと、言うことがピント外れになったり、相手の心に届かなかったりする。

それは話が下手なのではなく、話の的が外れているのである。

そういうセンサーの鈍い先生は、成績が上がったとか、下がったとかなどの分かりやすい事柄でしか生徒の変化を見ることができない。

点数が上がったとか、下がったとか、そんな分かりやすいものを根拠に褒められても叱られても、生徒は先生をそんなに大きく信頼してくれることはない。

ちょっとした授業の受け方の変化、ノートの取り方の変化、勉強への意欲の変化、小テストの答案の書き方など、小さな変化を見逃さず、褒めたり、叱ったり、あるいは感想を述べるということが大切である。

それによって生徒達は「この先生は私を見ている」と感じる。

「見ている」ということは、自分に関心があるということであり、生徒との関係に限らず、「この人は自分に対して関心を持ってくれている」という認識は、信頼関係構築の第一歩であると私は思う。

生徒に信頼される先生になりたいのであれば、うまく教えることも、テストに出るところを当てることも大切ではあろうが、何よりも、「生徒を観る」ことに全力を尽くすべきだと思う。

生徒の中には、先生がぼうっとしていても「観えてくる生徒」と、「観えにくい生徒」がいる.

目立つ生徒や、自己表現ができる生徒などは、観えやすい。(それでも全部観えてくるということはない。)

ゆめゆめそれで生徒全体のことを分かったつもりになってはならない。

そう勘違いしている先生も少なくない。

そんな勘違いをしていると、生徒を観ようという努力を怠ってしまう。

また、人というのは、人のよくないところはすぐに見えてくるものだが、よいところは見えにくいものだ。

自然に見えてきたものだけを認識して、「俺は生徒のことを分かっている」と勘違いしている先生も多い。

たくさんの失敗をして、悔み、落ち込み、教師修業を重ね、努力する人だけが、生徒を観ることができるようになっていく。

「生徒を観る」なんて簡単に言われるけれど、それはとてもとても難しいことなのだ。


「自主性にまかせる」

ブログの横にも書いてあるが、西原理恵子の「毎日かあさん」は偉大なる教育書であると思う。

今週のこの漫画とそれに対するコメントは、当世の教育に対する「自主性」の様々な考え方をよく表していると思う。

私は「自主性」というものは、「しつけ」や「型」、あるいは「道徳」「美学」「ルール」など、つまりは「教育」とセットで伸ばしていくべきものだと思っている。

それは最初から子供に内在するものだとは思わない方がよい。

「自主性」のことだけに限らず、指導者が自分自身の考え方に固執し、子供への指導を歪めてしまっているケースというのは数多くあるだろう。

「主義主張」は大切だが、この指導で生徒達がどう変わっていったかという「事実」を重んじることを忘れてはいけないのである。











4年の月日

先月、卒業していった中3の「お別れパーティー」をやった日、以前勤めていた塾の生徒だった子らも大学が決まったと報告するためにSORAまで来てくれた。

4年も前に、しかも、中2の一年間を教えただけなのにもかかわらず、12人もわざわざ来てくれたのである。

とても嬉しかった。

彼らは高校になってもしっかり勉強を続けていたようだ。

なんせ、訪ねてきてくれた12人のうち、医大、医学部の子が5人、京大の子が6人である。(ちなみに京大で医学部という子が2人いる)

他の子達も国公立や私立の難関校ばかりだった。

すごいものだ。

この子達は中学時代、難関校を受験するクラスに在籍していて、ガンガン鍛えられてた。(もちろん彼らも努力を積み重ねた)

難関大学に進学するには、高校から勉強を本気で始めたのでは難しいものがある。

行けないとは言わないが、苦しい努力を強いられる。

中学で鍛えの入った子は、やはり高校で頭角を現す。(もちろん勉強を続ければの話)

難関大学に行きたければ、中学生諸君は、奈良高校や畝傍高校に入ることだけを目標にしたような勉強をしていてはいけない。

SORAのカリキュラムは、単に高校入試に合格すればそれでよいというものにしていないのは、そのことを痛切に感じるからだ。

今、多くの中高生は「点数」と引き換えにできるような勉強、つまり目の前のテストの点数を取るための勉強、たとえば、中間試験や期末試験でよい点数を取るための勉強しかやっていない。

勉強とはそういうものだと思ってしまっている。

もちろん、そういう勉強も大切ではあるが、それだけになってしまってはいけない。

勉強というのは本来そういうものではない。

本来の勉強は、それを自分自身の「血」や「肉」にすることを目指すものでなければならない。

毎日勉強する習慣や、考える習慣をつけること、学び方を学ぶこと、勉強を通じて、自己の成長を目指すことなど。

それが本来の勉強の在り方だと思う。

いつしか、そういう勉強をすることの大切さに気付き、努力をした人が、結果として、目指す大学に合格する。

「よい学歴」を得ることが「目的」ではなく、気がつけば自己向上の手段のひとつになっていたのが理想ではないかと思うのだ。

目指す大学に合格するためにも、そしてよい人生を歩むためにも。



そういえば、ブログを書きだした頃、こんなブログを書いていたことを思い出した。

あれから4年月日が経ち、この子は京都大学医学部に合格し、医学の道を志すと、この日私に話してくれた。




ちゃんとつまづかせる

今日は朝から教材展へ。

教材のチェックはしっかりやっておきたい。

私は「いいものがあったら即採用」の姿勢でいる。

一時間ほど見回って、気になった教材の見本をいただけるよう手配して、会場を出る。

森川先生と会場近くの「漫遊楼」という中華料理屋で昼食。

豪華に「一日50食限定の特製ランチ」1260円を食す。

旨かった。

食事の最中から雪が降り出す。


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iPhone 3GS

みるみるうちに積もりだした。

車の外気温計を確認すると、昼の1時でなんと0.5度!

寒いわけだ。

2年前の県外私学の入試日に大雪が降って、その日の授業を急遽中止にしたことを思い出した。



今日の中1Nクラスでやらせた問題。

「各文の下線部を(     )内の語句にかえて、全文を書きかえなさい。また書きかえた文の意味を日本語で書きなさい。」

問題文にはこのように書いてあるが、生徒達はなかなか問題文をきちんと読まない。

全文を書きかえなさい、とあるのに、(  )のなかに入る語だけを書いて、全文を書かない子。

書きかえた文の意味を日本語で書きなさい、とあるのにそれを書かない子、あるいは元の文の意味を書いている子。

中1くらいだとこういう子もまだまだたくさんいる。

事前にこういうことがおきないように、先生が指示を出して念を押すこともできるが、私は絶対そういうことをしないことにしている。

それをやったらお終いである。

「つまずく前に石を払ってあげる行為」は子どもを成長させない。

成長させるためにはちゃんとつまずかせなければならない。

そして、つまずいたことを指摘してやることも忘れてはいけない。

実際につまずいて転ぶと痛いので、子どもはちゃんと学習するが、こういう読み取り間違いは気付かない。

あるいは気づいても意に介さない。

先生が指摘し、自覚させなければ子どもは学べないのである。

きちんと問題の指示通りにできていない子を次々に指摘して回る。

このようなことは、「インプット能力」と「アウトプット能力」に関する事なので、実は、「わかりやすい授業」の何倍も大切な部分なのである。