脳に悪い7つの習慣

本に書いてあることと、自分の経験則が一致することがあったりするとちょっとうれしい。

この本はそういう嬉しいことが満載の本だった。


脳に悪い習慣「言われたことをコツコツやる」

脳に悪い習慣ぁ崗錣妨率を考える」


一見、これらは素晴らしいことのようだが、私はこれらのことをよくないとずっと思ってきた。

単に「思っていた」だけではなく、SORAの教育はこういうことのないように組み立てられている。

できるかぎり、「生徒を伸ばす」ということだけを考えて、私は塾を組み立てた。

しかしながら、世間では、効率的なカリキュラムも、親切丁寧なプリント類も、生徒を伸ばせなかったときのエクスキューズにするために存在している場合も少なくないのである。

その気持ちは分からないでもない。

しかし、生徒にとって毒である可能性のあるものを勇気を持って私は削除した。

やはり私は間違っていなかったと、この本を読んで改めて思う。




できなかった問題に印をつける

問題集の問題をノートにする。大切なのはできなかった問題のやり直しだ。

問題集を1回やるというのは「できる問題」と「できない問題」を分ける「作業」に近いと言える。「できる問題」と「できない問題」をきちんと把握してからが本当の勉強だ。

学力を伸ばす方法を一番シンプルに言えば、「できない問題をできるようにする」ことである。「解説」を読んで「分かった」、では駄目だ。自分で「解ける」ようにしなければならない。

一人で勉強している子は大抵そこまでやりきらない。塾へ行っている子でもしっかり指導しないとなかなかそこまで根を詰めてやることはない。

問題集の問題は「やり直し」のことを考えて、ノートにやることが多い。問題集一冊に対して専用のノートを用意させたい。複数の問題集が一冊のノートにあちこちに解いてあるというのはよくない。一度解いた後が大切なのだから、「記録」をしっかり残しておかなければならない。

そして「ノート」を残すだけでなく、問題集の方にも「記録」を残しておきたい。出来なかった問題の問題番号にきちんと印をつけるのだ。数日経つと、どの問題ができてどの問題ができなかったというのは忘れてしまうものだ。

そんなのはノートを見ればいいではないかという人もいるが、子どもは「どの問題ができなかったっけ」とノートを確認するような面倒くさい作業は大嫌いなのだ。しかも、専用のノートを作っていなかったら、どこに書いたやら、という状態になるのは免れない。

「印」は必ず決まったものをつけさせたい。そのときの気分によって「チェックマーク」にしたり、ぐるぐる巻きの丸印とかにしてはいけない。あくまで「記録」なので統一したマークにしたい。

こういう「下準備」をきちんとさせた上で、「出来ない問題をできるまで」やり直しをさせる。一回目にやり直しをしてできたら「印」、それでもできなかったら、やり直しでもできなかった、という「印」をつける。「できたマーク」がつけられるまでやり直しをする。第三者が見ても、どの問題ができて、どの問題ができなかったか、どの問題に苦しんだかということが分かるようにしなかればならない。

それは、一に、生徒本人のため、二に、指導する教師のためである。そのように普段から指導しておくと、指導する側がその生徒を把握しやすいのだ。

このような「小技」は意外に効く。「できるまでやり直せ」という言葉の指導だけでなく、「作業」のレベルまで指導を「落とし込む」ことが大切である。

ちなみに、「出来なかった問題に印をつける」という指示を、生徒全員に徹底させるのは簡単ではない。どれくらい時間がかかるかというと「半年」くらいもかかる。こんなことでも全員に徹底させるのは並大抵のことではない。

「徹底させること」は教師の力量を如実に表す。そしてそれはそのまま生徒の学力に結びつく。それが大変なことだと認識している教師のみが「徹底」できるのである。

(旧ブログから転載。加筆修正。)

 

「型」の重要性

小5の英語でローマ字のテストを行った。テスト自体は何ということはないが、指示を少し複雑にしてみた。五十音表に対応したローマ字を書くだけのテストであるが、テスト用紙を配布するのではなく、ノートに表を作らせたのである。

私がホワイトボードに、こういう風に書くんだよ、と書きながら指示を出したのであるが、5年生くらいでは作業能力がまだ高くない。段を間違えたり、分からなくなって固まっていたりする。

「ここ間違えているよ」「分からなかったら先生に聞くんだよ」と言って回る。いたれりつくせり面倒のないように物事を進めすぎると子どもは伸びない。こういう作業能力を高めるためのアプローチも必要なのである。回りくどいようであるが、こういうことをしっかりやっていきたい。

たとえば、生徒達に「お知らせ」を配る。作業能力の高い子は、すっと、角を揃えて二つに折ることができる。こういうところに無頓着で、折り目が合っていなくても平気な子は学力も伸ばしにくい。(ただ、一部、天才肌の子は興味のないことに驚くほど無頓着だったりすることもある。)

今、「無頓着」と書いたが、作業する力が身についていない子、あるいは勉強ができない子は多くのことに「無頓着」だ。下敷きがなくてもこだわらない。赤ペンがなければ蛍光ペンで書けばいい、定規がなければフリーハンドでOK、曲がっていてもべつに平気。そんな子の学力をつけるのは本当に大変だ。

ではどうすれば、頓着することができる子を育てることができるのか。それは「型」を身につけさせることにつきる。無頓着な子は「型」が身についていないからこそ、「どうあるべきか」が身につかず、「何でもよい」になってしまっているのである。

かつて日本の「習い事」というのは「型」を大切にした。それはときに窮屈で、うっとおしいものであり、団塊の世代以降の人間はこれを疎んじた。「自由」と「解放」を叫んだ思想はこういうところにも及んだのである。そうして「かくあるべき」という基本の「型」が文化の中から消えていった。そして(昔の人からすれば)「だらしない人間」だらけになった。「型」の喪失が我々をよい方へ導いたとは私には思えない。

「型」が存在するからこそ、人はそこからはみ出すこともできる。それはとても大切なことだと思う。「何をどうやってもいい」というのは、「何をやってもいけない」というのと同じくらい窮屈で辛いことなのだ。

反抗期を迎えた子ども達を見るとわかりやすいかもしれない。小さいころから「しつけ」や「ルール」にうるさい家庭では子どもは反抗しやすい。反抗期の子どもはとにかく反抗がしたい。「型」から少しはみ出るだけで彼らの「反抗心」は満足する。そんな家庭では、朝の「おはよう」を言わなかっただけで「反抗」できるのである。

一方、「何をやっても認められる」教育方針の家庭では、子どもは「反抗」するのが難しい。何をやっても許容されるのであるから、「反抗」にならない。だから、そんな子ども達は「反抗したい」という欲を満たすために、家を破壊したり、親を殴ったり、犯罪を犯してしまわなければならない。


(旧ブログから転載。加筆修正)

書くことを厭わぬ子に

小学生を見ていると、中学生よりも個々の生徒の「書く力」に大きな差があるように思う。以前にも書いたが、英語の導入期で、発音の力の差は学力の高い子と低い子でそんなに差異は生まれないのだが、「書くこと」に関しては、学力の差が大きく出てしまう。

学力の低い子は、アルファベットの練習からすでにたどたどしい。bとdの書き間違いやスペルミス、答え合わせの不正確さなどは、圧倒的に学力の低い子に圧倒的に多い。「書く力」は学力に直結しているのである。

とすれば、学力を伸ばすためには、「書く訓練」を徹底的に施さなければならないのは明白だ。学力の低い子は「書く」のが嫌いだ。なんとか理由をつけて書かないですませられないかと考えている。だから、無理やりにでも書く量を増やし、書くのを厭わない鍛えをいれておかなければならない。指導者からの強制力は不可欠だ。

小5、小6というのは、そういう「鍛え」を入れておく最後のチャンスかもしれない。「書く力」の弱い子は、中学に入ったらだんだん授業がわからなくなり、点数が取りにくくなる。(字を書くことに時間がかかる上、書くことに意識が向きすぎて聞くことに集中しにくい。)そうなる前に「鍛え」を入れておかなければならない。

昨日の小5の英語の授業、私はスペルのテストを行ったのであるが、一人の子だけ満点で、後の子は練習が全然足りなかった。今の子はノートにびっしり綴りを練習することがなかなか発想できない。1行か2行書いて「覚えられません」なんて言ってしまうのである。

(ここで言っておきたいのが、私はこの子たちに、ノートにそれぞれの単語の練習を三行ずつ書いてくるという宿題の出し方をしていないということである。課題は何のためにあるかということを分からせるために、最初は勉強の仕方を彼らにまかせてみた。回りくどいようであるが、じっくりやっているのである。)

だから授業を一時間使って、みっちりノートに単語を書かせることにした。「家でやってきなさい」では駄目だ。書くところを見てやらないといけない。最初の段階で、いきなり宿題に出してしまうと、「もう覚えたから書かなくていいと思いました」なんていう子が出てくるし、家で広告の裏に書きましたなんていう子もでてくる。テストしてももちろんできない。問い詰めると黙ってうつむいてしまう。しかしながら、それを嘆いていても仕方がない。小学生はそんなものだからである。

授業中に書かせてみると、案の定、書くのを厭う子が出る。すぐにお手本を隠して、たどたどしく書いてみて、「よし書けた」なんて言っている。それはもう覚えちゃったよと私にアピールをしているのである。じっくり書き続けることに耐えられないのだろう。

私が「覚えたかどうかは後でいいからとにかく書きなさい」と言っても、3回くらいそんなことをやっている。これをいきなり宿題にしてみても、家でまともにやるわけがない。これは「教室」で突破口を作り、粘り強く指導していかなければならない部分である。

ここまで私は小学生の英語の授業を本当にゆっくり進めてきた。こぼれていく子を出さないためである。もう一つの理由はしっかりと地ならしをして一気に飛躍させるためである。

カリキュラムを優先させると地力がつけられない。カリキュラム優先の塾では落ちこぼれが出やすい。小学生に英語を教えるのに、カリキュラム優先はちょっとナンセンスだと私は思う。

ここからも書く訓練をふんだんに入れていく。そして全員を「書くことを厭わぬ子」に仕立て上げて、中学生になってもらおうと思っている。

(旧ブログより転載。加筆修正。)

人は習慣の奴隷

生徒達が問題を解いている様子を観察していると、様々な情報が入ってくる。「生徒を観ること」は生徒を伸ばすための第一歩だと私は思っている。

とりあえず何か書き出す子、やたらと書いては消しを繰り返す子、逆に書き出すまでに時間をかける子、出した答えを眺め、確認している子、そんなことしない子、あっさりと「解けない」と判断してしまう子等、同じ問題に取り組んでいても、その反応やアプローチは様々である。

解答を見、マルかバツかを見るだけよりも、解いている様子を見ることによって、より密度の高いその子の情報が入ってくる。当然、「情報」の質が高い方が指導の質も高くなりやすいのは言うまでもない。

私が問題を解くときに絶対やってはいけないと思っていることの一つに、「自分が問題を解いたときに、隣の子の解答をチラ見して確かめる」というのがある。長年この仕事をやってきて、この癖のある子が本当に点数が上がらないの嫌というほど見てきた。

ご同業の方々ならば、思い浮かぶ子が必ず何人かはいるはずだと思う。授業中、問題を解かされたとき、解けたら、自分で確認をしないで、隣の子の解答を、横目でちらりと毎問確認するのである。このような子は教師が指示を出しても、隣の子に何をするのかを確認してしまったり、指定されたページや問題番号を隣の子を見て確認したりすることが少なくない。

この夏、夏期講習会で、SORAの授業に参加している子の中にもそういう子はいて、そういうことをしないように注意をするが、言われた本人は少し戸惑っている様子が見える。無意識にやっているので本人にはあまり自覚がないからだろう。

このような習性と言おうか、癖が染みついている子が、「試験」において、問題文を読み、問題を解き、確認し、これでよしと決断しなければならないのである。点数が取れるはずもないのは言うまでもない。(こういう子はじっくり考えることができないので、解答欄を埋めるために、問題文を読みもせず、とんでもない答えを書きこんでいたりする。)

「人は習慣の奴隷」という言葉を聞いたことがある。けだし名言。その人がもっている「習慣」こそが、その人の人となりであり、「習慣(行動パターン)」こそがその人の人生を作っている。

小さな振舞いの中に、その子の「習慣」が見え、そこから、その子の「習性」が推測できる。もしそれがその子の「伸びない原因」になっているのであれば、そこをしっかりと修正してやらねばならない。いつも言うが、勉強時間が長いだけで、あるいは先生が分かりやすく教えるだけでは学力はなかなか伸びない。

私は、授業技術についてうるさく言うが、実は、授業技術は生徒を伸ばす「第一の柱」とは思っていない。子どもを伸ばすために、「授業」よりも大切なことは山ほどある。その中でも「悪い習慣の修正」は、生徒が自分で気づいてできることではないが故、「プロ」の出番なのである。だから私は生徒を観察するのだ。



質問の列

分からないことを分からないと知り、そしてそれを調べたり、それでも分からなかったら人に聞く。それは学力を伸ばすのに不可欠な技能であり、その技能は「よりよく生きる」ためには不可欠なものである。

だから私の塾では、生徒が分からないところを質問できるようになることを指導のねらいとしているし、生徒は実際どんどん質問を持ってくるので、それをさばけるようにたくさんの先生を配置している。

しかしながら、それにしても今朝は次から次へと生徒が質問にやってきて、何度もノックされ、開け閉めされる職員室のドアはもしかしたら今日あたり壊れるかもしれない(笑)

今日は期末試験が近いので、朝から中学生は全員来て勉強をしている。恒例の「期末試験勉強会」だ。実は昨日も生徒達が朝から塾を開けてほしいというので朝9時から自習室を開放していた。実に盛り上がっている。直前で盛り上がるということはそれまでの勉強の立ち上がりの遅さがあるという可能性もある。というか遅い。今日質問がピークになっているということはそういうことだ。


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分からないことを質問しにくる生徒がが多いならば、その塾はそれだけでけっこうよい塾だと言ってもいいと思う。「先生、ここ教えてください」と生徒が活発に動いているのである。それは生徒と先生には信頼関係があり、生徒には「分からないところは先生に聞こう」という動き方ができているということだ。

質問はすればいいというものではないという考え方もある。確かにそうだ。どうでもいいようなことやつまらないことを質問しにくる生徒もいる。正直、トホホな質問を持ってくる生徒もいる。しかし質問できないより、質問できる習慣を持っている方がいいに決まっている。もしかしたら勇気をふりしぼって質問をしに来たのかもしれないのだ。先生はニッコリ笑ってつまらない質問を受けてやればよい。

生徒の質問を聞くというのはただ単にその生徒が分かるようになる手助けをするためだけでなく、先生と生徒の信頼関係を深める、心の「キャッチボール」の役割も果たしている。お互いのボールを受けながら、先生と生徒はよい関係になっていく。だから「フォームを少し直した方がいい」なんていうアドバイスは二人が充分に汗をかいて笑顔になってからでいいのだ。

そのときの私にできたこと

どうしたら目の前のこの子の可能性が広がるかということについて考える「スイッチ」を切らないことはとても大切なことだと思う。

私が独立前に勤めていた塾には「卒業式」があった。それは市民会館を借り切って行なうほどの本格的なものだった。

塾であるから、卒業式といっても何を卒業するのかはよく分からない。つまりこれは「別れの儀式」の通称なのである。別れの儀式が必要になるほどの生徒と先生の関係があったということなのだ。

この式には保護者の方も多数ご出席くださった。式が終わると市民会館の芝生の広場のようなところに生徒も先生も集まり、最後の別れを惜しむ。やたらと生徒達は皆テンションが高くなり、皆で写真を撮ったり、胴上げが始まったり、とにかく最後の楽しいひとときを過ごす。生徒達が取り囲んで先生の写真を撮るので、何か大スターになったような気分を味わったり、生徒や保護者の方からいただく花束で両手がふさがったりする。主任のところには保護者の方の列ができ、順番にお礼の言葉をいただく。そんな光景がそこここに見られた。

ある年の卒業式、二人の生徒、I君とS君、そして彼らのお母様が4人で私のところに来られた。I君は東大寺学園をトップ合格し、S君は東大寺を受けても絶対合格できる生徒だったが、あえて西大和学園を選び、これまたトップ合格だったそうだ。本当のところはどうだかわからないのだが、それらの学校に進学した連中の話ではそういうことになっていた。飛び切り勉強ができる二人だったのである。

私は二人の英語の授業を担当していたので、二人のお母様方からは丁重なお礼の言葉をいただいた。そういうとき、つまり親が先生と話をしているようなとき、男の子というのはバツの悪いような居心地の悪そうな様子をするものだが、やっぱり飛び切り秀才のI君もS君もそんな様子だったのが可笑しかった。

私はそのときふと二人に「暗示」をかけてみてやれと思った。「暗示」はかかりやすいタイミングがある。インパクトの強い非日常な瞬間は暗示がかかりやすい。卒業式の別れのタイミングは絶好のタイミングだ。



「おい、二人はそれぞれ違う高校へ行くよな。だから大学は同じところへ行け。東大だ。二人で仲良く東大へ行け。お前達なら間違いなく行ける。いいか、京大じゃないぞ。東大だ。」



関西では勉強がかなりできる子でも、頭の中になかなか東大は浮かばないものだ。つい京大を選んでしまうようなところがある。もちろんそれは京大が素晴らしい大学だからなのだが、東大も選択肢に入れた上で、京大を選ぶならいい。しかし「何となく京大」というのは惜しい。それに二人を見ていると何となく東大が似合うなあと思ったのである。(本当に何となくだ。いいかげんなことこの上ないが)

I君は、いやそんなこと言われなくても僕は東大へ行きますよというような様子だったが、S君の方は「東大」がイメージできていないような感じだったと記憶している。二人のお母様は「そうなったらそれは素晴らしいですけれど・・・」と笑ってらっしゃった。

さて、それから3年後、私は独立し、もうその塾にはいなかったが、I君とS君がSORAまで大学受験の報告に来てくれた。二人が第一志望で合格したのは共に東京大学。

先に来ていたI君と話をしていると、3年ぶりに会うI君の「勉強がめちゃくちゃできます」オーラが凄まじく、私は笑いがこみ上げてくるほどだった。会話の糸口に「Iさあ、お前はセンター試験何点だったの?」と尋ねてみると、「881点でした」などとクールに言う。「え〜、お前凄すぎ!」と私が驚くと、I君は「センター試験の点数くらいで僕という人間をはかるのはやめてくださいよ」みたいな表情になった(笑)

それより、と言ってI君は当時私がブログにしょっちゅう書いていた「仮面ライダー電王」の話を始め、「僕、毎週早起きしてみてましたね」なんて言い、番組の分析までし出すのである。

S君が遅れてやってきて、二人の顔を並べて見ていると、もう何というか「勉強できます」オーラが凄まじいことになっていた。二人ともきちんと力を尽くして頑張ったのだろう。(I君は「いや僕は適当でしたよ」と眼鏡を上げながら言いそう)

誤解のないように言っておくと、私は二人が東京大学に行ったのは私の暗示のおかげだなんて戯けたことを言うつもりはまったくない。猫ギター先生の浪人生講師あっちゃんの東大合格のエピソードとは話が違う。(私はこの話を以前猫ギター先生から聞かせていただていて、その頃からこれは凄い話だと唸っていた。)

ただ、「別れの刹那」であろうと、目の前にいる生徒の可能性が広がる策を私は考えていた。たとえそれが0.01パーセントの可能性向上であったとしても、もう授業もしない子に対しても、考えていたのである。後から思い返すと妙な自分の執念深さに苦笑したが、SORAのスタッフには皆そういう姿勢でいてもらいたいと思っている。(「今、目の前いる相手のために全力を尽くす」これだったな。)

ちなみに、彼ら二人の訪問の後、I君のお母様がお葉書をくださった。お母様は3年前の私の言葉を覚えていてくださったそうだ。そしてそれはS君のお母様も息子が東大に合格したとき、私の3年前の言葉を改めて思い出したのだと教えてくださった。(葉書は今も私の手帳にはさんである。)

もしかして、そのときの私の言葉はI君とS君ではなく、二人のお母様に届いていたのかもしれない(笑)親の愛は素晴らしい。

(ところで、さっきI君に電話したら、今国会議員の事務所でバイトをしていると言っていた。話をしながら「末は博士か大臣か」というほぼ死語になった言葉が頭をよぎった。久しぶりのI君の声は張りがあって明るい感じになっていた。きっと毎日が充実しているということなのだろう。)