まずは「質より量」

冬休みの間は冬期講習やら、中3の冬期特訓やらがあって一日の授業コマ数がとても多くなる。

昨日は授業が8コマあって、その上、空き時間にちょこちょこ用事を済ませたので一日びっちり何かをやっていたということになる。

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NikonD700 SIGMA 50mm/f.1.4

もちろん、仕事が忙しいからと愚痴を言うつもりなどさらさらない。

このご時世、仕事が忙しいというのは大変ありがたいことだ。

真摯な気持ちで大量の仕事をこなしていけばいくほど、力量は上がっていく。

「真摯な気持ちで」というところがポイントだ。

嫌々仕事をやっていては力は伸びていかない。

「量より質が大事」なんていうけれど、それはちがうと思う。

「量」をこなした人ではないと「質」は上げられない。

まずは、パンパンに詰め込まれた「量」をこなさないといけないと思う。

一流の人は必ず「量」をこなす時期をくぐっている。

「量より質」なんて言葉は、「量」をある程度こなしてきた人がその次のステップに上るために使うべきもの。

まずは量をこなして「鍛え」を入れなきゃ話にならない。


もちろん、勉強でもそれはまったく同じ。

まずはしっかり腰を据えてじっくり「量」をこなせるようになってもらいたいと思う。




温故知新

教育に関して、最新の教育論の類よりも長い歴史の中を生き残ってきたものを私は信頼している。

世には、「事実」を軽視し、イデオロギーや主観で語られる、全く役に立たない教育論も存在する。長く生き残ってきた教育論、あるいは教育の手法は時代の検証を経て、なお存在しているわけである。それらを「古臭い」なんていうのはまったくの主観でしかない。

長い歴史を生き残ってきた「教育」といえば、例えば「読み・書き・算」がそうだ。日本の教育の基本は、この「読み・書き・算」の徹底にあった。古くは寺子屋や塾(学習塾ではない)でなされてきた教育がそうであった。「読み・書き・算」を仕込まれた当時の日本人の教育力は非常に高かった。

「個性の教育」などといって、放任の教育や、一問の問題を時間をかけて考える授業スタイルがもてはやされたとき、私はそんなのしゃらくさいと思っていた。「読み・書き・算」の底力の方がはるかに高いと思っていた。

昔、私が以前に勤めていた塾に、日本の「私教育」を見学したいといって、アフリカなどの国から日本の教育を視察にきた一団がやってきたことがある。

そのとき、一団の案内と、説明を担当した私は「日本の教育」について簡単な講演みたいなことをする機会を頂いた。光栄なことである。そこで私は、日本の教育の基本は「読み・書き・算」の徹底にあると一席ぶった。通訳の方もおられたのだが、話が専門的になるため、途中、自分で英語を用いながら説明をした。彼らは熱心に聞いてくださった。

講演後、質疑応答のようになり、日本人を優秀にした秘密を他にももっと教えてくれと言われた。日本人の優秀さはその教育にあるということで来られた方々である。その探究心は、慎ましやかな感じの日本人のそれとは比べ物にならないくらいのエネルギーがあった。

私は答えた。

日本には、子どもをとても大切にする社会風土がありました。世界中、どの国も子どもを大切にするのは当たり前ですが、日本は格別だと思います。とにかく繭の中にくるむように子どもを大切にするのです。

例えば、子どもの玩具ひとつをとっても、世界中に例がないくらい多数のものが存在します。西洋の「トランプ」は、本来、大人の遊び道具で、子どもが遊ぶのではありません。しかし、日本には子どものために生み出された玩具が多数にあるのです。

駒、やじろべえ、竹とんぼ、すごろく、福笑い、だるま落とし、剣玉、かるたなど大人が子どものためにサービス精神旺盛にモノを創造しています。

これは日本の文化の大きな特徴といえるでしょう。しかも、それらの玩具がそのまま子どもの知育を促進するグッズになっているのです。皆さんもお土産屋さんに行けば、どれだけこのようなグッズが充実しているかということに驚かれるでしょう。

『かるた』は字を教えています。また、位置を確認することで「短期記憶」の力を育てます。すごろくは「1対1対応」を子どもに教える基礎になっています。『竹とんぼ』や『コマ』や『剣玉』がどれだけ日本人の手先を器用にしたことでしょうか。

とにかく、子どもを楽しませようという思いが日本人のDNAに刻まれているようです。ですから、いくらマイクロソフトがゲーム機を開発しても、SONYのプレイステーションを打ち破るのは難しいのではないでしょうか。子どもを楽しませようとする年季が違うのです。

「1対1対応」がどうの、という部分は英語で説明するのは骨が折れた(通訳の方も苦労していた)が、かなり汗をかいたが、彼らは満足してくれたようだ。随分と拍手をもらった。会の後、お茶の席で、一緒に写真を撮ってくれないかと何人からも頼まれた。充実した時を過ごせた。

20年この仕事をしている間に、「流行りの指導法」みたいなものがいくつも生まれた。マスコミや一部の人たちの「大きな声」に煽られ、検証されることもなく、素晴らしい指導が否定されるのを目にしてきた。そんな中から、教師というのは、子どもが変わっていく「事実」を見つめ、謙虚な姿勢で学び続けなければ腐っていくのだろうということを私なりに学んだ。

特に「古典」からは学ぶことが多い。軽んじることなく、「何かがあるのではないか」という意識で学べば大きな発見があることが少なくない。既成のものを疑う姿勢も大切だが、それを打ち破るにしろ、古きものに敬意を払いながら、為すのが正しい在り方のように思えてならない。

(旧ブログからの転載。(けっこう)加筆修正。)




ナカちゃんのこと

私は子どものころ、友だちのお母さんからの受けがよかったと思う。

小学校の同級生のあるお母さんは「遊ぶんやったらkamiesuくんと遊び!」と言ってたらしい。そういうお母さんが結構いた。

私はそんなに良い子だったのかというとそういうわけではない。ただ、よそのお宅へ上がるときには履物を揃えて上がり、その家のご家族に「こんにちわー」ときちんと挨拶をするようなことだけはきちんとしていたのである。

「ナカちゃん」という友だちがいた。友だちの間からは大人気の子だった。勉強はあまりできなかったけれど、脚が早く、肩が強く、野球もドッチボールも上手かった。

でもこのナカちゃんは、とても「親受け」が悪かった。私と遊ぶように言っていた自分の息子に言っていたお母さんは「ナカちゃんとは遊びな!」と言っていた。

仲間内では人気者だったナカちゃんは、友だちの家に上がるときも靴を脱ぎ散らかしていた。よくナカちゃんの履物を揃えてあげていたので記憶にある。またそういう姿を友だちのお母さんは見ているため、ナカちゃんの株は下がり、私の株が上がってしまう。

ナカちゃんは友だちのお母さんにもきちんと挨拶をしていなかったように思う。遊ぶことに夢中だったのだ。ナカちゃんがお母さんに受けが悪いのを知っていたので私はハラハラしていた。

たったそれだけのことで、挨拶をするとか履物を揃えるということができるだけで、私は大人から結構愛され、大事にしてもらい、それが上手にできないナカちゃんは大人から少し疎まれていた。

勉強は確かに大切だけれど、それより大切なものはいっぱいある。そんなことは皆分かっているけれど、じゃあ具体的に何を教えてやればよいのか分からないでいる。

その「具体的なこと」の第一歩は何か。それは「しつけ」であると私は思う。「しつけ」は自分の子どもが他人に愛されるように、大事にされるようにするためのものだ。

「しつけ」の基本は「挨拶をする」「返事をする」「履物を揃える」ことである。それができずに、他のしつけも教育もないというくらいに大切だ。「はじめの一歩」こそ一番大切なのである。挨拶のできない子に「人の気持ちを思いやる」ということを教えても身にはつかないのだ。

可愛い、可愛い自分の子どもは、他人様から見たら迷惑な存在でしかないというくらいの感覚を親は持っておくべきだと思う。他人様から大事にされ、愛されて育つ10年と、可愛がられることのない10年、これはその子の人生を左右してしまう差だと思う。他人様から大切にしてもらえるよう、子どもにきちんとしつけをするのが親の使命ではなかろうか。

19歳の夏、私がノーヘル(その当時は合法)で原チャリに乗って信号待ちをしていると、声をかけてくるヤツがいた。ふと見るとナカちゃんだった。白いソアラに乗っていて、ナカちゃんはちょっと得意そうだった。助手席にはとても派手な女の子がいた。そのとき以来、ナカちゃんに会っていない。

(旧ブログより転載。加筆修正。)

家内からのメール

家内から携帯にメールが入った。

タイトル:今日、息子がひっかかった問題

本文:「はる子さんは切手を15まいもっていました。お兄さんから11まいもらったのでおとうとに6まいあげました。はる子さんの切手は何まいふえたことになりますか。」

これは難しい。

家内は相当苦労しただろう。

彼女はどこから手をつけたのであろうか(笑)

文章題はまず「何を答えなければならないのか」ということの確認をしなければならない。

(この問題、意地の悪いことに「はる子さんの切手は何まいになりましたか」ではないのである。)

「この問題、何を答えるの?短く言ってみて。」なんていうことからやってあげないといけないが、たいていそんなことを言っても、最初、子どもは問題文を最初から読んでしまう。

もちろん、慣れればできるようになる。

しかし、時間がかかるものだ。

また、文章題は問題の流れを「イメージ化」することができないといけないのであるが、子どもに「イメージしなさい」と言ったってできるものではない。

そのため、最初は「図」を書かせなければならない。

けっこう慣れてきても、「図」を描かせて解かせる方がよい。

頭の中でイメージをつくる訓練ができ、イメージができたら解けるということを少しずつ覚えていけるからだ。

つまり、分からないと投げ出す前にやれることをやってみる、そういう習慣付けの第一歩がこのあたりなのである。

「解けた」とか「分かった」というのは、実はそう変化を生むものではない。

「積み重ねた」ことこそが大きな成長や変化をもたらすのである。

だからこそ「この問題は何を答えるの?短く言ってみて」と確認することも、図を描かせることも、くりかえし言うことに意味がある。

(もちろん「解けた」「分かった」も積み重ねたら大きな成長をもたらすのは言うまでもない。)

学ぶ方は言うまでもないが、指導する方も、「積み重ね」が大切なのだと心に刻んでおきたい。



「ココロ」を大切にする

ホンダ先生が渾身の力を込めて書かれたことがヒシヒシと伝わってくる本だ。

先生が今までに経験されてきたこと、ご自身が勉強してこられたことが山盛り詰まっている。

この本ができあがるまでにホンダ先生は一体どれだけたくさんの本を読み、勉強されたことだろうか。

この本には心を動かすための数多くのメソッドやテクニックが詰まっていて、それらが子ども達に押しつけがましくならぬよう細心の注意を払って書いてある。


もし自分の成績を上げたいと思った子がこの本を手に取り、ここに書かれていることを実践していったならば、まちがいなく100パーセントに近い確率で自分の成績を上げていくことだろう。

しかしながら、子どもの「やる気」というのは、うつろいやすく、気まぐれで、か弱いものだ。

だから、非常に矛盾することだが、この本を手に取り、ここに書かれたことを実践しようとするような子ならば、おそらくはこの本を手に取るまでに、成績を上げていることだろうとも思うのである。

ほとんどの子どもは一瞬「成績を上げたいな」とか「もっとできるようになりたい」と思うが、それが持続しないのだ。

ゆえに、このような本を書店で見つけ、手に取ることもしないのである。

これは非常に大きな矛盾だ。

では、この矛盾を解決する方法はないのか。

それはある。

親がきっかけを作ってあげることである。

子たちがこのような本と縁ができるためには「きっかけ」が必要だ。

その「きっかけ」を作ることができるのは、その子を愛し、見守っている大人だけである。

それは多くの場合、その子の親だ。

その子に向けられた「愛」こそが、この本の存在の矛盾を解決するのである。



親がこの本を手に取り、まず自分で読み、それからさりげなく我が子にそれを伝えていく。

最初は目もくれないかもしれないし、嫌がるかもしれない。

どうしても手に取ってくれないならば、親自身が実践できることを行っていく必要があるかもしれない。

「機」が熟すまでは辛抱強く、しかもこの本のトーンと同じく、さりげなく働きかけてあげなければならない。

それはその子への愛がないと、とてもではないができない行為だ。



私は最初、この本を一読して、なぜホンダ先生はこの本を親向けに書かなかったのだろうと思った。

はっきり言って、親向けに書いた方が、このような本は売れる。

優秀な経営者であり、ビジネスパーソンでもあるホンダ先生がそのようなことを考えないわけがない。

それにこの本は少し値段が安い。

というのは、Amazonでは1,500円以上の本は送料が無料になるため、最近はたいていこれらの本は1,500円なのである。(ささいなことのようだが、このことは大きく売り上げに影響する。)

きっと思うに、ホンダ先生は「どうしても子どもに向けて書きたかった」にちがいない。

親向け、つまり大人向けに書いた方が売れることが分かっていても、ずっと子ども達と向き合ってきたホンダ先生は(冷静にか、衝動的にかはわからないが)どうしてもそうしたかったのだろう。

きっと出版社にだって、親向けに書いた方がいいと何度も言われたにちがいない。

何度も何度も言われ、何度も何度も考え直した末に、ホンダ先生は子どもたちにそのメッセージを発したいという「ココロ」を優先されたのである。

どうでもいいと言われれば、どうでもいいこだわりかもしれないが、一見無駄なこだわりは、この本を、そしてホンダ先生自身をとても魅力的にしていると私は思う。

ぜひ、SORAの生徒達にも、そして保護者の方々にも、この本を読んでいただきたいと思う。


どんなやり方でもいい。頑張って解け。

塾の先生というのは鮮やかな解法だとか、巧い解き方を伝授し、そうできるようにすることを期待されている。

しかし、先生が最初に教えるべきことはそれじゃない。

最初に教えるべきことは、「どんなやり方でもいいからとにかく頑張って解くんだよ」ということだ。

速く解くとか、巧いやり方でスムーズに解くとかはその次のことなのだ。

ここのところを間違えてはいけない。

どんなに不細工なやり方でも、どんなに時間がかかろうとも自力で解ききった経験は大きい。

それは大きな自信となり、「挑む姿勢」はそうやって作られる。

解けなかったとしても、その奮闘は確実にその子の「地力」になる。

「テクニック」を身につけるのはその後であるべきなのだ。

「じっくり育てる」とか、「大きく育てる」というのはそういうことだと思う。


「人は苦しみの中からしか学べない」考(2)

 長らく放ったらかしたが、これの続き。

長らく書かずにいたら、その間に数人の方から色々メールを頂き、そのうちのお二人の方が、件のメールを下さったお母様にはぜひこのブログを読んでもらいたいとご親切に書いてくださっていた。たしかに、このエピソードは私が「人は苦しみの中からしか学べない」という言葉を初めてブログで記したときのものなので、その意味では私の言いたいことが伝わりやすいかもしれない。私のブログについて話し合いをされるご家庭があり、また、そういったことを教えてくださる読者の方がいて、私は幸せだと思う。

(1)の最後で、「私は唸ってしまった」と書いたが、私が唸ったのには二つの理由がある。

ご夫婦でお子様の教育について、日常の中であのような会話が自然にできる家というのはいいなあと思ったのがひとつ。あとの一つは、「もしかしたらkamiesu先生に感謝されるかもしれないぞ」とご主人がお父様が仰ったその鋭さに、である。

子どもの教育について、両親が「自然に」あれやこれやと話し合い、ときに意見が違うことがあっても、コミュニケーションしつづけるというのは本当に子どもにとってはすばらしい環境だと思う。最終的に私にメールまで下さる行動力がいい(笑)

子どもというのはよく見ている。

親の背中を見ながら、親のするように物事をしていくようになるものだ。前回のブログには書かなかったけれど、お子さんの方は議論するご両親に笑いながら「で、結局どっちなのよ。私はどっちでもいいけど(笑)」みたいな反応をされていたというから、まったくもって素晴らしい環境だなと思う。

また、お父様が仰るように、私は今回のメールのことをとてもありがたいことだと思っている。私が言っているこの言葉の真意が中にきちんと伝わっていない場合もあると、今回のことで知ることができたからだ。このお父様はなかなか、いや相当鋭い(笑)脱帽である。



さて、私が勉強をどう考えているかということについて。

勉強は「苦」なのか?実は、私は勉強のことを「苦」などと、これっぽっちも思っていない。じゃあ、毎日毎日勉強に追われる受験生の苦しみはいったい何なのかということになるが、あれは勉強が苦しいのではないのだと私は思っている。日々勉強に追われ、その成績を序列化され、お前は合格、お前は不合格と振り分けられる、その恐怖とプレッシャーと戦いながら頑張らなければならないことが苦しみなのである。つまりは、勉強が苦しいのではなく、「人生」を歩むこと、つまり生きることそのものが苦しいのである。(釈迦も言ってる。)

それを真正面から捉えた上で、そこから逃げずに、その「苦しみ」さえも糧にして大きく成長していきたいというのがこの言葉の意味だと私自身は考えている。そういえば、私の教え子だった子が書いているブログでこんなことが書いてあった。


「人は苦しみの中からしか学べない→究極のポジティブ変換→これ最強。」


これはなるほどと思った。若い子らしい表現だが、本質をついている。苦しいこと、ハードなこと、つらいことがあったとき、あるいはそれがやってくると予感できたとき、「あー苦しいわー、つらいわー、嫌だなあ」といきなり超ブルーになるのと、「うわっキッツー、でも俺は乗り越えてやるぜ。そしてさらに俺は成長するのだ」と口角を上げられる人間では、発揮できるパワーが違う。

個人の力ではどうしようもない苦しみや悲しみが襲ったときも、暗闇の中に一筋の光の可能性を信じられるのとそうでないのでは、ずいぶんと次のステップまでにかかる時間とその力強さが違うのではないだろうか。

マラソンを楽しいという人がいる一方で、よくもまああんな大変なことをやっているよという人もいる。毎日走らずにはいられないという人がいて、あんなこと毎日させられたら地獄だという人もいるだろう。私はそれは習慣の違いにすぎないと思っている。人は習慣の奴隷なのである。勉強が嫌だ嫌だと言っている子は勉強が習慣になっていないため、勉強の「基礎体力」ができていない。一定の時間の集中ができないし、我慢が利かない。とてもじゃないけれどこんなこと毎日できないと思うだろう。

座っているだけでぜいぜい言っているような超運動不足の子に「マラソンは楽しいぞお」と言って、マラソンに誘っても走るわけはない。そんな子にはまず黙ってその子を5キロくらいは走れるようにしてやることだ。基礎体力を上げてやるしかない。第一歩は嫌々でも無理やりでもさせるしかない。(きっとそれは苦しいだろう。)

勉強でも同じだ。「自分を変えること」は、それがよい方にであれ、悪い方にであれ、とても苦しいものだ。勉強が苦しいのではなく、「今の自分」を変えるのが苦しいのである。

私たちの仕事は「変わること(成長すること)」の意味を語り、それへの「あこがれ」を持ってもらい、その「きっかけ」を作り、うまくいくまで励ましたり、支えたり、失意のときには支えになってあげたりすることなのだと思っている。

私は「勉強は楽しいものだ」と生徒に言ったことがない。そう感じてくれたなら素晴らしいことだが、別に楽しかろうと、何とも思わなくてもどちらでもいいと思ってる。勉強はしんどいなあと思っていても、一所懸命やっているならそれでいい。楽しいと思う瞬間あり、苦しいと思うときありでいい。「勉強は楽しくあるべきだ」と心が囚われてしまうのは避けさせたい。何より「楽しくあるべきだ」という考えは「苦」があってはいけないという反動にもなり得るからだ。心は囚われない方がいい。心が淡々と「成長」に憧れ、行動を取れるなら何も言うことはない。

もちろんこれは私の指導方針であって、心の部分の問題なので、他の方の考え方を否定するものではない。指導にはどのようなあり方があってもよいし、どのような心の使い方があってもいい。私は根底にこのような考え方を持って生徒達を指導してきたし、特にこの言葉が多くの生徒達の支えになってきたことを知っている。

ずいぶんとネガティブな人生観だなあと思われる方もおられよう。ただ、私は「苦しみ」としっかり向き合う方が、「喜び」や「幸せ」も色濃く見えてくるのだと思っているし、その方が強く、たくましくなれるのではないかと思っている。

それに「勉強は楽しい」とか「人生は楽しい」と生徒達に言ったからといって、すぐに楽しくなるわけではない。「人生は苦しい」と私が言ったって(めったにそんなこと言わないが)、生徒達は楽しそうに塾にやってくる。(塾に寝泊まりしたいと言い出す連中までいて困ったもんだ。)そういうものだ。

こんなところが私の考えである。


今回、とても温かく、ユーモアいっぱいのメールをくださったお母様、そしてとても鋭いお父様(笑)、本当にありがとうございました。おかげさまで自分自身も改めてこの言葉について考える機会をいただきました。

そして、(1)の方を読んで、メールでアドバイスくださったり、ご自身のお考えを伝えてくださったブログの読者の方々、本当にありがとうございました。