「分かった人?」

この春、高校に入学した卒業生のお母さんと話をする機会があった。その子は通っていた塾に絶対志望校は無理だと言われ続けた上、どうしても英語の授業が分からないからと、中3の秋にSORAに転塾してきた子だった。時期が時期だけに、勇気を振り絞っての転塾だったろう。

結局、以前の塾で絶対に無理と言われたその志望校に、彼女は結局合格する。しかし私達にしてみれば、何故以前の塾がその志望校を「絶対無理」とまで言ったのかがわからないくらいのものだったので、それは何もSORAが凄かったというわけではない。

話はそういうことではなく、その子がこんなことを先日言ったのだとお母様が教えて下さったというお話。



「あのな、普通はな、分からない人いますか?って、先生っていうのは聞くねん。でもな、あの塾(SORA)の凄いところはな、分かった人?って聞きやんねん。その凄さ分かる?」



いくつもの塾に通った経験を持つその子がSORAの一番凄いと思ったのがここだった。

確かに私は授業中に、「分かった人?」と言って手を挙げさせて確認することが多い。「分からない人?」と確認することが1に対して「分かった人?」は10くらいだろう。

でも、なぜそうするかなんていうことは生徒に言ったことは一度もない。例えば、極端な話、そういうことを授業中にさりげなく言って、生徒達を洗脳し、「凄い」と言わせることもできるだろう。腕の立つ先生ならそれくらいの誘導は朝飯前だ。(もちろん、そうするのが正しいなんて言うつもりはまったくない。「やれる」と「やる」は全然違う。)そこまでいかなかったとしても、そうすることの意図を語れば、「凄い」と生徒が言ってくれるということはあるだろう。

しかしながら、そんなことを生徒達に一言も言ったことがないのに、この子は「分かった人?」と確認をする私達の指導を素晴らしいといってくれたのである。

分からない人を確認する指導も、分かる人を確認する指導も両方あり得る。微妙なニュアンスや、教師の「立ち位置」でどちらの指導も良質なものになり得る。どちらが上と言うことはない。しかしこの子は私の「立ち位置」を理解してくれていた。

「分かった人?」なんて確認をしなければならない時点で二流の指導だと言う人もいるだろう。生徒が分かったか分かっていないかの確認を教師がするだけの意図でそれをするなら、一流の指導とは言い難い。しかし「意図」はそれだけではない。

「分からない人?」といって手を挙げさせるより、「分かった人?」と言って確認する方が、分かっていない子を実は確認しやすい。また、要所要所で先生が「分かった人」の確認をすると、生徒は分かろうと能動的になっていきやすいのである

「分かった人?」という、教師と生徒のツーウェイを意図したささやかな指導を、この子はしっかり理解してくれていた。何と繊細で鋭い感性であることか。下手な塾講師よりもずっと優秀だ。望外の喜びを感じるとともに、何とも気の引き締まったお母様との会話だった。



させてみる指導


「ウチの塾では勉強のやり方を教えています」なんてセリフをよく塾のチラシなんかで見ることがあるが、たいていは先生が口頭でやり方を解説したり、せいぜいレジュメを配布して一通りの解説を行ってすませていることが多い。そういうのを「勉強のやり方を教えている」と言っている。

しかしながら、そんなことで生徒たちはその勉強のやり方を身につけることはほとんどない。クラスで一番まじめな子が一人できるかできないかというところではないか。言っても言っても(全員が)やるようにはならないので、ある程度のところで先生はあきらめて言うのをやめてしまう。

そうなってしまうのは指導の方法が生徒を変えることができない「イマイチの方法」に他ならないからである。少なくとも指導する側はそう思って、どうやったら生徒達ができるようになるか工夫をしなければならない。

生徒達に「勉強のやり方を工夫しろ」といいつつ、先生の側が教える工夫を怠っていたら生徒はついてこない。

生徒たちに勉強のやり方を身につけさせる一番の方法は先生の目の前でひととおりのことをやらせることだ。それより勉強のやり方が身に付く方法は無い。(あったら是非教えていただきたい。頭を垂れて謙虚に学ばせていただきたい。)

『やってみせ、いって聞かせて、させてみて、褒めてやらねば人は動かじ』と言ったのは山本五十六だが、「勉強のやり方」に関しては「させてみる」という指導が学校や塾の現場では非常に少ないように思う。せいぜい「やっておけ」どまりになっている。

問題集の問題をノートに解かせる。問題集別にノートを作らせる。ノートはゆったりと使わせる。日付を書く。問題番号を記入させる(こういうことすらやらない子が最初はいる)。間違えた問題に(問題集の方に)印をつける。

こんなことから始まる「勉強のやり方」を先生の目の前で、時間をとってしっかりとやらせてみる。一度だけでは駄目で、何回もやらせてみる。生徒達の集中力は家と授業では倍以上違う。授業の時間でひととおりやらせてみると、身につき方がまったく違う。特に勉強ができない子の身につけるまでの期間が圧倒的に違う。

勉強のやり方について「させてみる」指導が少ないのは、あるいはその発想自体が出てこないのは、おそらく指導の時間が足りないからだろうと思う。やりたいのはやまやまだが、時間がないので・・・ということはたくさんある。しかし、現場はいつも時間が足りないものである。ない時間を工夫し、時間をそのことにかけるからこそ重要視しているといえる。

限られた時間の中で、その先生が、あるいはその塾が時間をかけたことこそが、その塾の「大切にしていること」なのである。

現在完了の導入


《板書》

母と子の会話

母:  あんた、宿題やったんか

子:  うん、もうやったで。


《発問》

お母さんのこのセリフ、お母さんが知りたいのは「今」のことですか、「過去」のことですか。




新中3の英語はそろそろ受動態が終わり、次は現在完了に入る。10年以上前から現在完了の導入はずっとこれ。お母さんの知りたいのは「今」のことだと分かる生徒はいいセンスをしている。この発問をする時点で、できるだけそう答えられるよう鍛えておきたい。本人のセンスまかせにしてはいけないのである。(この話、昔書いたかな?もう忘れた。)



英作文特訓

中1生に冬から英作文特訓を行なっていて、一枚20問の英作文プリントを何枚もやらせている。

1.この花はとても美しいです。
2.あなたは上手に日本語を話しません。
3.私には2人の娘と1人の息子がいます。
4.私は学校で英語を習っています。
5.メアリーはかわいい犬を飼っています。
6.私たちの学校は9時に始まります。
7.彼女は毎日お母さんを手伝っていますか。
8.あの女の子はときどき友達に手紙を書きます。
9.彼らは日本人ですか、それとも中国人ですか。
10.彼のお父さんは日曜日に早起きをします。
11.トムのおばさんは毎年京都に行きます。
12.彼はあの店で鉛筆を買います。
13.佐藤先生は高校で数学を教えています。
14.私の姉はいつもカバンの中にカメラを持っています。
15.彼の弟はたいてい9時間寝ます。
16.私の子どもはたいてい9時に寝ます。
17.私は毎日晩ご飯の前に宿題をします。
18.あなたはカバンと時計が欲しいのですか。
19.ここではあまり雪は多く降りません。
20.あの少年は時々ベンチに座って本を読んでいる。


とうとうやってきた老眼に悩みながらも英作文教材にはうるさい私である(笑)

be動詞の文、一般動詞の文、疑問文、否定文、肯定文、副詞句から頻度の副詞までアトランダムに容赦なく並べてある。これが「初級編」で、ここからさらに高度になる。

その都度に習ったことをクリアしていても、全体が理解できるかというとそうではない。だから今まで習ったことをすべて網羅してやらせることが大切だ。例えば、一般動詞の文だけ勉強しているときはそれができてもbe動詞の文が混在し出すと、「Are you play tennis?」なんて文がとたんに出始める。

学習内容の習得には、 崕得」→◆嵎未里海箸鮟得」→「混乱」→ぁ崟依」→ァ屐碧榲の)習得」のような流れがある。ここのうち、の「混乱」を避けるように教えてしまう先生は少なくない。「できるだけ生徒達がややこしくならないように」との配慮なのだろう。

しかしその「できるだけややこしくならないように」というのは、結局、自分が教えている教室内では、ということに過ぎない。そんなのはその先生の「ご都合主義」と言ってもいい。生徒達はどこかで必ず「混乱」するからだ。それならば、その「混乱」はできる限り先生の前で起こった方がいい。そういった狙いのプリントである。

「混乱」→「整理」の後の本当の意味での「習得」のためには生徒達は練習を繰り返さなければならない。いかにわかりやすく教えても最後の習得は本人の努力が不可欠だ。私はこのプリントのテストの不合格者は原則「満点合格」ということにしている。

何度も何度も再テストということになると、うんざりすることだろうが、合格できたときは本当に皆いい顔をする。「2時間も勉強してきた」とか「ノート10ページ使った」なんて言ってくれる子もいる。満点を取る子は満点を取る覚悟をした子達ばかりだ。いつまでも顔を背けていては絶対に満点は取れない。

教える側がなすべきことは教える工夫と顔を背けさせない指導と工夫。後者の方が難易度がはるか高い。











テストになるとできない子(4)

昨日、授業で生徒達の中間試験の勉強用のワークをチェックしていたら、解答集の答えを写している子がいた。私はこういうのを見つけるのが上手い。「ずる」や「ごまかし」をすると驚くほど学力が伸びなくなる。まるで「勉強の神様」がバチをあてたかのように伸びなくなる。これは長年の経験で確信していることだ。

私は常々「いいかげんにやって期日に間に合わせるのなら、真面目にやって半分しかできていない方が100倍まし」と口を酸っぱく言っている。にもかかわらず、こういうことをやってしまうのは、「切羽詰って」やったのではなく、最初から「楽をしたい」という気持ちが心の中にデンと居座ってしまっているのではないか。普段の心持ちはあらゆることに表出してくる。勉強ができるようになるには普段の心がけがとても大切なのである。

私の塾は、原則として遅刻と欠席を禁止している。それは真面目に授業に出るための努力を積み重ねることで「心」を創ってほしいと思うからである。遅刻や欠席が多い子はやはり学力を伸ばしにくいのである。

さて、話を「テストになるとできない子」に絞る。

「テストになるとできない子」は答えを出せない自分を認めたくなくて、「早く解答欄を埋めないと大変なことになる!!」と思い込んでいるので、そこを解消してやらないといけない。そのための方法を二つほど挙げてみる。

 。毅以のテスト時間なら倍の100分与える

入試問題などの過去問に関して制限時間が50分なら、その倍の時間を与えて解かせてみる。「倍の時間があるのだから、とにかくゆっくり解け」と指示を出す。こうすることによって問題とじっくり向き合うことの大切さに気づいてもらう。こんなことかと思われるかもしれないが、けっこう効果が高い。

◆。毅以で解かせて解答用紙を回収した後、もう一回同じ問題を50分で解かせる。

一見無駄のようなことに思えるが、これも効果的な方法である。なんといっても二回目はかなり冷静に問題が見える。「見直し」と違い、もう一度、一から解答を作らないといけないので、多くのことに気づくことができる。覚えている答えを諳んじて書くことを禁止し、もう一度全問解き直すように言うのが肝心。二つの答案を本人に返し、自分で応え合わせをさせることが大切。生徒は数々の発見をする。

実は、この方法は「自宅で一人」のシチュエーションではなかなかやりずらい。集団の教育力の力を借り、クラスの中で一斉に行なわないと気が入りにくいのである。集団指導だからこそできる手法である。

ちなみに、上記の方法がベストだとは私も思っていない。しかし、「もっと問題をよく読んで」「しっかり見直しをして」等の、言葉による指導の力はこういう場合とても弱い。生徒に気づかせる「仕込み」をした指導の方が格段に効果的であると思っている。言葉だけで彼らを変えようとしてはいけない。彼ら自身の気づきこそが、彼らを変えていく最大の原動力だ。「言う」のではなく、「アドバイスをする」のではなく、どうしたら彼らが「気づく」のかを考えに考え、「気づき」をもたらすシナリオを探すことが大切なのだ。もちろんそれが彼らの指導全般に渡って大切なことであるのは言うまでもない。

テストになるとできない子(3)

ずっと「テストになるとできない子」と書いてきたが、「できない」という「症状」が本当にテストでだけ現れているかと言えば、実はそうではない。一事は万事でその子の特徴が細部に浮き出てくるものだ。

授業中に問題を解かせる。例えば計算問題、あるいは簡単な英作文。「テストになるとできない子」の多くは自分の答えが書けるとその一瞬、隣の子の答えを横目でチェックをする。この「チラ見」が慣れた動きになっていて淀みがない、つまりこういう行動が習慣化してしまっているのである。

もちろんテストではないので不正行為ではない。「テストになるとできない子」は自分の答えが正しいかどうかを、自分で行なう「見直し」ではなく、隣の子の答えで確認してしまうのである。「見直し」がまどろっこしいのか、それとも自分に自信がないのか。私は前者だと思っている。自分で確かめる「こらえ」がきいていないのだと思う。

このクセを持つ子は普段の勉強でも「答え」をチラ見しながら勉強をしていることが多い。答えを写すのではない。考えの途中や「ファイナルアンサー」を出す手前で答えをこらえきれず見てしまうのである。試験本番では隣の子の答えを確認するわけにも解答集をチラ見するわけにもいかないので、試験本番の「おさまりの悪さ」「勝手の違い」はかなり大きいはずである。

また、授業中問題を解かせているときに、一人ひとりのノートを指導者がチェックして回る。先生が間違いを見つけ、指摘してやると、中には言われるやいなや、その部分をあっと言う間に消しゴムで「消去」してしまう子がいる。こういう子もテストになると点数が出ない場合が多い。「間違い」が許せないにもかかわらず(だからすぐ消す)、思慮が足りず(足りていればすぐに消すことはない)、衝動的に行動する(衝動的に解答を作っている場合が多い)のである。

テストになると点数が取れないという「状態」は最初、あくまでも「状態」なのだが、テストのときだけでなく、普段の学習においても同じような行動パターンを取り続けると、やがてそれは「習慣」となってしまう。「固定化」されてしまうのである。ますます問題は深刻化する。

問い: アメリカの行政府の長は、国民によって選挙され、議会からは独立している。この役職を何というか。
答え: 直接選挙


最初は、問題を最後まで読む「こらえ」がきかなかった子が、やがてそういう行動を習慣化してしまい、こういう答えを書いてしまう。おそらく、「アメリカ」「行政府の長」「国民によって選挙され」のフレーズ部分のみを一瞬でチェックし、解答を作ってしまうのだろう。決して問題文は読んでいないはずである。

さて問題はこういう子をどうやって点数を取れるようにもっていくかということである。次はそれについて述べたい。

テストになるとできない子(2)

昨日、中2のクラスで行なった「不定詞と動名詞」のまとめテストの中にこんな誤答があった。

道路を渡るときは左右を見なさい。
Look both ways before (   ) the street.

答えは crossing になるのであるが、3人ほど seeing と誤答する子がいた。けっして勉強ができない子ではなく、普段よくできる子の中にもこの誤答をする子がいたのである。

私はこの問題に対して、「seeing と書いた人?」「何も書けなかった人?」というふうに分類して確認をした。何も書けなかった子は、渡る=cross が出なかった子と思っていい。白紙ではあるが、seeing と書いた子よりはまだ高級な間違いだと言ってもいいかもしれない。

seeing と書く子は問題をほとんど読んでいない。こういうトホホな誤答と塾講師はいつも戦っている(笑)。「問題をよく読みなさい」なんていうセリフをいつもいつもお題目のようにくり返していてもこういう解答はなかなか減らない。

なぜこのような「問題文を読まずに解答する子」がいるのだろうか。なぜその子たちは「問題を読まずにでたらめな解答」をしてしまうのだろうか。

長くこのことを考えてきて私が出した結論は、そういう子は「待てない」体質になっているということだ。彼らは「答えが出せない自分」と向き合うことが辛くて、あるいはじっくり最後まで考えるのが辛くて、とりあえず解答欄を埋めてホッとしている。本当は解答欄を埋めることが大切なのではなくて、正解することが大切なのだけれど、本質から外れて埋めることで安心しようとしている。そういうクセがついてしまっているのである。一種の「逃避衝動」にも似た行動だと私は思う。

つまり彼らは「答えを出せないこと」を恐れ、怖がっているのだ。その感情を理解しないとこういうクセの改善はできない。

跳び箱を跳べない子は99パーセントは「筋力」やあるいは「動作の連結の能力」に問題があるわけではない。跳び箱を跳べない子に筋力トレーニングを課してもしょうがない。跳び箱を跳べない子は前方へ跳んでいく自分の体を腕だけで支える「未知の感覚」を恐怖しているから跳べないのである。

跳び箱を跳べない子に「もっといきおいをつけて」とか「もっと力強く」なんていうアドバイスで飛べるようにはならない。跳ぶことの障害になっている「恐怖」を取り除いていないからである。

ところで私は「テストになるとできない子」になりやすい子を授業の中で見つけ出すことができる。そういう子にはある特徴というか、クセがあるのだ。

つづく