これでいいのだ

赤塚不二夫の告別式でのタモリの弔辞に泣いた。

タモリという人が、普段、あまり自分自身の思想や考えを表に出さず、テレビの中では、タレント「タモリ」であろうとしていた人であったからよけいに泣けた。

あれほどの芸能界の大物になってしまった人が「私もあなたの数多くの作品のひとつです」と言う。「数多くの」というところに、偉大なる赤塚へのタモリの深い思いと謙虚さが汲みとれて、泣けた。

あなたの考えは、すべての出来事、存在をあるがままに、前向きに肯定し、受け入れることです。それによって人間は重苦しい陰の世界から解放され、軽やかになり、また時間は 前後関係を断ち放たれて、その時その場が異様に明るく感じられます。この考えをあなたは見事に一言で言い表しています。すなわち『これでいいのだ』と。

「赤塚不二夫」という人物を、その生き様をを見事に切り取り、表現したこの部分にも泣けた。

そして今日、youtubeで実際にタモリが弔辞を読んでいるところを映像で見、感情を表に出さず、淡々と読むその姿にタモリの色々な感情が逆に見えてきて、さらに泣けた。

あの弔辞を白紙の紙を見ながらアドリブでタモリは話したのではという噂が飛び交っているが、私はそれは違うと思う。あれは練りに練られた見事な「文章」である。一点の隙もない完璧な文章だ。選び抜かれた言葉の完璧さにも泣けた。

今日で前半戦が終了し、明日から合宿なのだが今日はこんなことを書いている。

でも、これでいいのだ。

(私が小2のときに人生で初めて出したファンレターは赤塚不二夫宛だった。)

人は毎日生まれ変わる

進学塾SORAを開いたとき、私には「狂気」があった。「狂気」と言ってもいいくらいの「思い」がそこにはあり、自らの理想を、妥協を限りなく排して塾を作り上げていくのだという決意があった。

塾を開いて2年近くが経ち、生徒が増えてくる。経営的にも安定してくるようになると、どうしても「狂気」とも言えるほどのあの「思い」を保つのは難しくなる。どうしても「保守的」に流れていきそうになってしまうのである。

「独りよがり」とは、主に何かを戒めるために用いられる言葉であるが、そんな言葉に引っかかっていると、当たり障りのないつまらないものしか出来上がらない。独善的に自分自身の理想を追求する姿勢こそを忘れてはいけないと思う。

そう生きていきたいし、そういうスタンスで塾を作っていきたいという私の決意の宣言である。



どこから書こうか

3月29日〜31日の日程で広島、山口の塾行脚に出かけた。猫ギター先生のUS塾とみかみ塾が旅の目的地だ。

塾を開業する前に私はこの二つの塾を訪問させていただいた。そこで得たたくさんのものは私の宝物になっていて、自分の塾を開く際の大いなる刺激になった。

SORAを開いてもう二年近くが経つ。自分の思考を深めるためと、さらなる刺激を得、学びを求めるために、猫ギター先生やみかみ先生、ホンダ先生にご無理を言って再び訪問させていただくことにしたのである。

今回は4月から我が塾で働いてくれる社員も「遊びに行くか?」と言って連れて行った。彼らは4月からの勤務なので、強要はできなかったが、大喜びでこの旅に同行してくれた。

私とっては、自己や自塾を見つめなおし、学びを求める旅であったが、彼らにとっても驚きと大いなる学びのある旅となった。

(つづく)





西へ向かうぞニンニキニキニキニン

最近ブログの更新が少なくなっています。きっとリセット期間であり、インプット期間なのだと思います。

塾は今日から3日間春期休講をいただいています。研修を目的に広島と山口に行ってまいります。本を読むことも勉強ですが、人に会うことも「場」を感じることもまた勉強です。大いに勉強してこようと思います。

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RICOH R8 とうとう最近は塾のHPにまで自分の撮った写真をUPしています。

受験結果追記

SORAは『奈良・畝傍・郡山高校を目指す塾』と看板にも記載している塾であるから、それらの学校にどれくらいの生徒を合格させたかということは、とても大切なことだと思う。

昨日、高校受験がすべて終わったので、私立・公立共すべての受験結果を塾のHPに掲載した。私のブログからリンクを貼ってはいなかったのにもかかわらず、アクセス数は一日で300を超えてしまっていた。

難関校への「合格実績」がその塾の実力だと一般には考えられているからだろうか、「合格実績」というのは世間が注目しているものなのだと改めて思う。

ただ、塾の実力というものは「一人ひとりの生徒をどれだけ伸ばしたか」ということに尽きると私は思う。

進学塾SORAは、この高校入試を終えた中3の生徒達全員の学力を伸ばした。そう思っている。おそらく私がこう断言しても、生徒達も、その親御さんもそれを否定はなさらないだろうと思う。それくらい確実に彼ら全員の学力は伸びた。

今年は生徒の4割が奈良・畝傍・郡山に合格したが、そのことよりも、全員の学力を伸ばせたことの方がずっと私にとっては胸を張りたいことなのである。










焼鳥屋の片隅で

先程まで焼鳥屋の片隅で呑んでいた。

先のテーブルの5人で呑んでいる青年達を見ると、その中に昔の教え子が一人いた。

私は教え子を見かけても、視線があったりしないかぎり、自分からは声をかけないことにしている。

特に理由があるわけではないが、何となくそうしている。

気持ちよく酔い、家内の話に頷きながら、かつての教え子が仲間と酒を呑む様子を見ていた。

目立たぬ子で、それほど勉強ができたわけでもないが、真面目で礼儀正しい良い子だった。

酔った頭で数えると、もう24歳になるはずだ。

仲間ときっと馬鹿話をしているのだろう、とても楽しそうだ。

ジョッキを持った腕にぐっと筋肉の筋が張る。

とても男らしくなった。

なによりとてもいい顔なのだ。

あんな顔で酒を呑むのだ。

不幸せではないだろう。

何となく嬉しくて、いつもより酒が進んだ。

(BGM:野風僧 河島英吾)

ほんの少しだけ美しくなれるかもしれない

「不完全な」人間が「不完全な」人間を指導し、育てる。教育の本質はそういう「危うさ」を含んでいる。

それだからこそ私達は日々努力して研鑽し、自分を磨いておかなければならない。教える側が自分を磨く努力を怠れば、その人が放つオーラは淀み、力を失う。指導者が「力」を失えば、「言葉」は生徒に届かなくなる。

「自分磨き」は自己のためならず。「他者」のために自己を磨き、それが最終的に自己のためになる。自己救済のためにまず自己を捨てる。なにやら宗教みたいだが、そういう心構えでいることが大切だ。傲慢な人間である私はそう思っていないと道を踏み外すと思っているのだ。

「常識」や「権威」を常に疑い、子どもが変わっていく「事実」だけを見据える「力」を持つべく日々修業する。そういう心がけでいると、人間ができていない私は「似非」なものをどうしても憎んでしまう(口にはしないが)。ちょっとした「修業」の副作用か。

そういえば、「不完全な」人間が「不完全な」人間を指導し、育てる。だからこそ人間の素晴らしさが際立つ、そんな瞬間もある。そういうものを垣間見たときは、ほんの少し美しくなれたような気がしてしまう。だからこの仕事がやめられない。