人は苦しみの中からしか学べない考(1)

mixiを通じて、ブログの読者の方からメッセージを頂戴した。

その方を仮にAさんとするが、Aさんは娘さんの高校受験のことを色々調べているうちに私のブログにたどり着いたらしい。

最初にお読みくださるようになったのは、Aさんのご主人の方で、Aさんはご主人に勧められて読んでくださるようになり、毎日のようにご夫婦で読んで下さっているということである。

まことに有り難く、嬉しい話である。

Aさんがメッセージを下さったのは私に質問があってのことだった。

原文をそのままアップするわけにもいかないので、かいつまんで言うとこんな感じである。



前略 〜 私は勉強とは苦しいもので、それを乗り越えるから人は成長できる、そのために勉強するのだと思って、娘にそういう話をしておりましたら、主人は「いやそうじゃあないだろう。お前はkamiesu先生のブログを読んでそう言ってるのだろうが、それはお前の読み違いだ」と言うのです。少し主人とそのことで言い合い(喧嘩じゃないですよ)になっていたら、主人は「なら先生にメールをして確かめてみろ」と言います。そんな失礼なことできないと私が言いましたら、主人は「いやkamiesu先生はそんなことで失礼とは言わないだろう。というよりそのメール、とても感謝してもらえるかもしれないぞ」と言うのです。その後もあれやこれや主人と話をして結局私がメールを書くことになりました。先生は勉強を「苦しみ」だと考えておられますか。それともそうではないと考えておられますか。先生がどう考えておられるのかどうしても知りたくなりました。(主人にしたり顔で否定されたのも少し腹が立っています(笑))突然のメールで失礼なのを承知ですが教えていただければ幸いです。〜 後略



私はメッセージを一読して唸ってしまった。

つづく

技術と愛情

森川先生が今朝撮った愛娘の写真。

DSC_0550
Nikon D40 SIGMA30mm/f1.4

素晴らしい写真だ。

この写真はレンズもいいが、実は様々な技術が駆使して撮影されている。たとえば、明るいレンズの絞り開放で撮影しているにもかかわらず、赤ん坊の目にきっちりとピントがきている。ブレも出ていない。写真の基本、それができているので、それだけで本当に素晴らしい写真になっている。

しかし、森川先生はここでさらに技術を駆使している。大胆にも母親の顔を構図から外したのである。このことによって、この写真を見る人の目は赤ん坊にいく。母親の顔が入っていると、主役が二人になってしまう。もちろん主役が二人になる写真があってもよいが、森川先生は赤ん坊にフォーカスした写真を採ったのである。

しかしながら、隠れているとはいうものの、口元を残してあるので、母親の表情は分かる。母親は赤ん坊を見て笑っている。逆に目の表情をカットしてあることで、見る人は創造力を働かせてしまう。そして、主役の赤ん坊は笑いながら、私たちが見ることができないその母親の目をじっと見つめているのである。

また、この写真には、技術というものを越え、何よりも森川先生の家族への愛情が溢れている。それこそが素晴らしい。二人の表情をベストタイミングで捉えているのは森川先生がご家族を見つめ続けているからに他ならない。

私はこれは技術と愛情が見事に融合した写真だと思う。いや、というよりも愛情を技術で見事に際立たせた写真というべきか。

「技術」というものはけっして過信してはならない。いくらレベルが高くとも、それは単体ではとてもひ弱なものである。しかし「技術」が「哲学」や「愛情」と共にあるとき、それは大きな力を発揮する。「技術」は、「愛情」を際立てることすらあるのだ。

この一枚の写真はそんなことを改めて考えさせてくれる。






 

幼稚園を義務教育化したらいい

政権も変わり、教育行政がどのように変わっていくのか、注目しておきたいところである。

(ところで民主党に今回投票した人のどれくらいが社民党と連立してほしいと思っていたのだろうか?ましてや入閣??)

高校教育の無償化なんて話も出ているが、どうもピンとこない。家庭の経済力の差で学びのチャンスに差が生まれてしまうことは国として何とかしたいところではある。しかしそれは奨学金を充実させることで対応できる問題だと思う。それよりも日本の国力を維持するために日本人の学力を高めることに力を注いでもらいたい。

私は幼稚園を義務教育化するのはどうだろうなんて思っている。劇的に日本の教育力を上げられる可能性を秘めている。

学力低下が叫ばれているが、小学校1年生の授業が成り立たなくなっていることもその理由のひとつであるのは間違いない。小学校1年の授業を成り立たせるには、それ以前の子どもたちへの働きかけの部分が大きい。最初のところの遅れ、停滞が後に大きな問題を生んでいるように思えてならない。席に就けない子、指示が聞けない子が小学校で相当増えている。一番楽に、しかも早く効果を出すには、入口のところを改善するのが一番だ。

幼稚園を義務教育化しなくても、今でも幼稚園や保育園にはほとんどの子が通っているという意見もあるだろう。しかし、幼稚園は義務教育でないがゆえに、幼稚園教育と小学校教育の連結が悪い。つまり小学校教育は幼稚園に通って、何かを習っている、あるいは習得しているということを前提にカリキュラムを組むことができない。

文字の学習開始は小学校1年ということになっている。私は文字習得の開始時期は小学校1年では遅いと思う。習い始めは4歳くらいまでだと思う。そのあたりが適齢期だ。小1は適齢期を外している。遅れれば遅れるほど習得は難しくなる。カリキュラムが脳の発達にリンクしていないのである。(私だけが言っているのではない。論文等も発表されているだろう。)幼稚園を義務教育化しておくと、幼児虐待などの問題もチェックしやすい。こういうメリットは計り知れない。

とにかく子どもは日本の宝だと思って、国を挙げて支援し、教育を施す。知っている人は知っているが、実は幼稚園や保育園の教育方針は園によってバラバラである。子どもに通わせる幼稚園を熱心に調べ上げた親は別だが、たまたま選んだ幼稚園で学力の差が生まれてしまっているのである。小学校1年の教室で、どの子がどの幼稚園から来たかはざっと見たらわかるという意見はよく聞かれる。そういうことはよいことではない。

念のため言っておくと、私は早期からの詰め込み教育を勧めているのではない。小学校1年からの本格的な学習の前に、「返事をする」「あいさつをする」「はきものをそろえる」「言われたとおりに行動する」「ぞうきんをしぼる」「そろえてならべる」「ものをたたむ」などの基本的なことをしっかり学ばせておくということを言っているのである。

仮に家庭教育に問題があっても、幼稚園のところで精一杯フォローしておけば、そこから先の教育の成果が違ってくる。どこまでできるかという問題はあるが、国としてのベストを尽くせば育つ人材の数は変わってくるだろう。

日本の底力というのはエリートが支えたのではなく、「普通の人」の能力の高さによるものだった。日本人全体の能力や基礎学力が下がるということはそのまま日本の国力が下がるということなのである。

「勉強しなさい」を言うより大切なこと

昨日、小学生の保護者会があり、生徒と保護者を前にして話をした。

小学生は家庭教育が何より大切な時期であるから、保護者会においても家庭教育の指針について話をすることが多い。

昨日の保護者会では、色んなことを質問させていただいて、親御さんに手を挙げてもらった。

ひとつ気になったのは夜更かしをする子が多かったことである。

「(親御さんへ)ウチの子は夜更かしです、という方、ちょっと手を挙げてもらえますでしょうか?」の問いにけっこうたくさんの方が手を挙げられた。

夜更かしをする子は学校や塾で、必ずといっていいほど、だるそうにしたり、眠そうにしたり、あるいは実際に居眠りをしていたりする。

見た感じも、どこかしゃっきとしていない。(目に力がない感じになる)

当然、そんな状態なので、授業の内容も習得しにくくなる。

テストにおいても、問題に集中しづらいので、調子のよいときと悪いときで点数がバラけてしまう。

しかも怖いのは、本人は自分が集中できていなかったり、眠かったり、だるかったりすることの自覚がないことである。

勉強できる子に我が子を育てたいなら、「勉強しなさい」とガミガミ言うより、まずは生活習慣を整え、規則正しい生活をさせ、特に睡眠時間はしっかりと確保させたい。

中学受験をする子でも、睡眠時間はできるだけ確保するように努めた方がいい。

夜更かしをさせず、規則正しい生活を送らせ、睡眠時間を確保することは「やっておいた方がいい」ことではなくて、「やっておかなければならない」ことなのである。








リズム・オブ・ザ・セインツ

私は生徒が勉強しているときに、その子の「リズム」と「テンポ」を見るようにしている。

何の世界でもそうだが、熟練者というのは「リズム」と「テンポ」がいい。寿司職人でも大工さんでも流れ作業の中、部品を組み立てている工員さんでも、素人が見ていても分かる心地よい「リズム」と「テンポ」がある。

勉強ができる子もやはり「リズム」と「テンポ」がいい。問題集の丸うちが終わり、右手でノートを閉じたとき、左手はすでに次に勉強する教材に伸びている。使い終わった教材はトントンっと揃えられ、かばんの中に仕舞われていく。一連の動作に淀みがないのだ。すばやく動いているわりには机の上のものをあまり落としたりするようなこともない。

逆に勉強のできない子、あるいは気持ちの乗っていない子は、動作が緩慢で、一つの動作とその次の動作の間にいらぬ「間」がある。その余計な「間」がその子の体と心をギクシャクさせ、なおのこと気持ちの乗りを悪くしている(ような気がする)。

よい仕事をしているプロによい「リズム」と「テンポ」があるということは、よい仕事にはよい「リズム」と「テンポ」が必要だということだ。それならば、いい勉強をしたいなら、勉強の中でよい「リズム」や「テンポ」を作り出していけばよい。(プロはそうすれば仕事がはかどることを知っている。)

まずは、勉強を始めるときに何を勉強していくかということを具体的に3つ先までくらいは決めておかなければならない。そうでないと、いい「リズム」は生まれない。机に向かったときに何をするのかを考え出すのでは遅い。それでは「淀み」が生まれる。勉強を始める前に頭の中で既に組み立てておくか、計画表や何かで既に決まっている状態にしているのがいい。

「テンポ」と「リズム」を作っていくために、勉強開始は英語の音読だとか、漢字の練習だとか、計算練習だとか、手や口を動かすようなシンプルなものから入るのがいい。勉強の開始10分はルーティンワークをやると決めておくと、それが勉強の「スイッチ」になって入り込みやすくなる。

一つのことが片付くと、小さく「よしできた」とか「オッケー」とかつぶやいてみたりするのもいい。「合いの手」は気持ちを盛り上がるものだ。「はいはいはいはいどんどんいきますよ〜」なんておどけてつぶやくのもいいかもしれない。片付けたり、出したりする動作は機敏にしてチャッチャとする。体の動きに気持ちはついていくものだからだ。自分なりの盛り上がれる工夫をどんどん取り入れていくのがいい。

どうせやらなければならない勉強だ。自分なりの工夫をこらして盛り上がるのがいいに決まっている。





この一週間の忙しさと特色選抜入試

何とも忙しい一週間が過ぎた。一週間もブログを放置したのは初めてだ。

チラシの原稿書き、中3の特色選抜入試、中1、中2の期末試験の対策などやることだらけでキリキリ舞いしていた。

チラシは何とか完成させて業者の方に渡すことができた。杉山先生が「九州みかみ塾」のチラシを頑張って作っているのでこちらも負けていられない。忙しいけれど皆がイキイキと働いている。それはとても大切なことだと思う。

そして特色選抜入試。塾の中には特色選抜入試を受けさせるのに消極的なところもあるらしいと聞いたことがあるが、私はむしろ積極的に受けさせている方かもしれない。今年も多くの子が受けた。

今年は全部で7人合格した。これはかなり多い。そこまで合格すると思っていなかったのでびっくりした。やはりチャンスは積極的に生かしていった方がよいと思う。チャンスを生かすからこそ合格をつかみとることができたのだ。

特色選抜を受けさせないという方針の塾は「不合格になると気持ちが揺れてしまって勉強が…」と心配をされてるのだろう。(それ以外に受けさせない理由は考えられない。)しかしながら、そういうのはまったくもってよけいなお世話で、本人が受けたいというなら当然受けさせるべきである。

少なくとも「受けさせない」と強制するのは許されない。先生としては極めて合理的に作戦を立てておられるのだと思うが、「合理化」は必ずしもあらゆる場面で「正しいこと」ではないのだ。

教育にはどこか非合理的な部分がなければならない。教育活動のすべてに「意味」や「目的」を考えていくことはとても大切なことであるが、すべての部分がそうできるわけではない。そうできると思ってしまうのは「思い上がり」だ。説明のつかない「非合理的」なことが実は子どもを成長させているということはある。それを教育する側の思いつきや浅知恵で削り取ってはならない。

先日、テレビで美味しい味噌を作っている工場のことを放映しているのをたまたま見た。その美味しい味噌は、工場はすっかり清潔で近代的な建物なのに、肝心の味噌は巨大な木の樽で作られていて、しかも味噌の樽に乗せてある「重し」は何と「石」だった。なんと非合理的なことだろうか。

しかし、その味噌を作っている人たちは、それでないと美味しい味噌はできないと信じている。彼らにとっては木の樽と石の重しはどんなに工場を近代化し、合理化しても、美味しい味噌を作るには必要不可欠なものなのだ。

木の樽と石の重しの何が原因で味噌が美味しくなるのかは分かっていないが、それが味噌を美味しくしているということだけは分かっている。だからやり続ける。

教育にもそんなところがある。味噌は味が落ちるので、それが必要だったとすぐ分かるが、教育はすぐにその変化が分からない。だから怖い。だからこそ、思い上がらずに、謙虚に慎重に取り組まなければならないのだと思う。

残るは公立高校一般選抜入試。先生と生徒が一丸となって最後までベストを尽くしたい。








先生の専制政治

自習室で生徒達が勉強しているとき、私は彼らに机の上に飲料のボトルを置いてはいけないといつも言っている。お茶のペットボトルなどが机の上にあると、私は自習室の雰囲気が緩むような気がするのだ。

もちろん、別に机の上にペットボトルがあったり、パンを食いながら勉強している子がいたからといって引き締まった緊張感溢れる自習室が作れないかというと、そういうことは決してない。これは単に私の好みの問題で、私はきりりと引き締まった自習室が好きなのでそう指導をしているというだけのことである。

「こんな感じで塾生が勉強に燃えていて、そしてあんな感じで休み時間には和気藹々とし・・・」、全国津々浦々、学習塾、特に個人塾の塾長には、その脳内に、きっと一つの「世界」があって、その「世界」を塾内で具現化しようと日々努力されているのだろうと私は思う。

私の頭の中の「自習室」には机の上にペットボトルは置いていない。だから置くなと言うのである。一見無意味なもののように思えても、そういうディテールの積み重ねが「世界」を作っていく。教育にはそういう「イメージ」が不可欠だと思う。よいノートとはどんなノートか。言葉ではなく、まず「イメージ」があることが大切だ。「イメージ」があってこそ、具体的な指導が生まれてくる。

だからその指導の核を作っている「イメージ」を曖昧にしたり、濁らせるようなことはできるだけ避けなければならない。そうしないと指導の軸がてきめんに狂う。それは生徒達のムードにもすぐ表れる。だからこそ、一見どうでもよいような部分と思える部分でも、有無を言わさず守らせるということはとても大切なことなのだ。「細部」が全体を「構築」するのである。