テストになるとできない子(1)

テストというのは生徒の学力を測るためのものであるのだが、必ずしも学力はテストに反映されない。普段よくできているのに、「テストになるとできない」子はいるものだ。

テストで解答できないということは、学習内容を理解、習得していないということではないのかと仰りたい方もおられるだろうが、そうではない。教える側から見ても、なんでこの子は授業であれだけ理解しているし、問題も解けているのにテストになるとできないんだろうと、首をひねりたくなる子はいるのである。現場の先生ならご理解いただけるはずだ。

なぜそんなことが起こるのか。私の見解はこうだ。英語で一例を示してみる。

【問】(  )にあてはまる前置詞を入れよ。
   John invited his friends, Jack and Betty ( ) his birthday party.

この問題はinvite 人 to 〜が分かっていればそう難しくない。(この問題にはちょっと仕掛けがしてあるのでそれでも難しいが。)

しかし、この問題の正答率を三分の一以下に落とす方法がある。この問題が単独の独立した問題で出さずに、長文問題の中の一文の中から出題すればよい。長文問題の問題文の中にこの一文があり、後の問いで問題として出題すれば正答率は軽くそれくらいは落ちるだろう。

入試問題、あるいは定期試験などの「テスト」は幅広い範囲から数多くの問題が出題される。一問だけを見つめていたなら出来た子でも、テスト形式で数多くの問題を目の前にすると、一問一問への集中がしにくくなる。一問あたりに配分される集中力が低下してしまう。

「時間内に解けなかったらどうしよう」「この後の問題で難しいのがあったらどうしよう」「周りの子がガツガツ解いてる〜」「このテスト90点以上取れないとヤバイ」、彼らはそんなことを考えながらテストに立ち向かっている。

そして焦った挙句、時間がないからと彼らは時折とんでもない答えを書く。ちなみに上記の問題、焦った生徒が一番書いてしまう誤答は、間違いなく on である。(何故 on になるかは考えていただきたい。)もうまともに問題を読めていないし、問題に向き合えていないのである。こういうのがクセになっている子は少なくない。これはうっかりミスなどという生易しいものではない。

このクセこそが「テストになるとできない」の一番の原因だと私は思っている。

試験で解けなかった問題、テストが終わって見直したら簡単にできた、と悔しがっている声を生徒達からよく聞くことがあるが、これはたまたまの出来事ではない。(テストが終わって、焦っていない状態だからこそ、問題が「見える」のである!)「惜しかった」などと言って悔しがっている場合ではないのである。この問題点を「矯正」しない限り、いつまでも同じことで苦しむことになる。

「テスト」で点数を取るには、問題を解く「力」に加え、「テスト」で自分の力を出し切るという別の「力」が必要になる。

さて、どういう子が「テストになるとできない子」になり、どうすればそういう子がテストで点数を取れるようになるのか。次にそれについて書いてみたい。

つづく



新しい試み

小学生のカリキュラムに、現在行っている「詩歌」の暗唱の加え、「名言」暗唱を取り入れようかなと思っている。(「名文」暗唱ではない。)

(あるいは「名言」ノートでもいい。)

歴史上の偉人や作家、あるいは各界の著名人などが残した「名言」を集め、編集し、生徒達に暗唱させたい。

私は子ども達に「生きる力」を育みたい。自分の人生をポジティブに堂々と生き抜いていく逞しい人間を育てたいと思う。仮に、先生である私自身が、そのように生きることができていないとしても、私が教えた生徒達には、師を超え、逞しい生き方をしてほしい。

「名言」は無理やり暗唱させられたときには、その言葉の意味が分からないだろう。しかし、彼らが大人になり、悩んだとき、あるいは苦しいとき、困難が立ちはだかったとき、つまり、「その時」が来たら、きっと彼らの心の中にいくつもの名言が自動起動し、彼らの道を照らすことだろう。

ゆとり教育の影響で、あるいは彼らを取り巻く環境の変化で、今の子ども達には、昔とは違う新たな取り組みをやっていく必要があると強く感じている。社会が変化すれば教育は変化しなければならない。

今の生徒達には、今まで「前提」であったことを一から説明しなければならなかったり、「基本」を一から教えなければならなかったりすることも多い。学力が低いと嘆いているわけにはいかない。教える側は何をするべきかを考え、行動しなければならない。

学力的なことは目に見えやすいので、まだ指導も考えやすい。時間との兼ね合いがあるので易しいことはないが、「問題点が見える」ということは解決の糸口も見える。しかし、現代の子どもに「逞しさ」や「ガッツ」を叩き込むのはとても難しいことだと思う。

そういえばお年寄りは褒めるときや叱るとき、昔話をするとき、すらすらと格言や詩を諳んじてくれた。そういう教育があったのだろう。そういうのを少し現代的に整え、形にしていけたらいい。

それで今、「名言」をぼちぼちと集めつつある。品のいい、いかにも教育的なものだけでなく、少し毒を含んだものや、洒落のきいたもの、色気のあるものも選んでいる。そういう「独断と偏見」具合こそが教育に鮮やかな色を与えるのだと思っている。



JUGEMテーマ:学問・学校


極意も極意

再び、猫ギター先生のブログから引用させていただく。軽い興奮状態。(『ノートとグラウンド』より)

演習の効果は、もう1つある。
演習時間が長ければ、「できる子」に退屈な時間を与えなくてすむのだ。

学校でも塾でも一方通行の授業を聞かされたら、「できる子」はたまったものではない。「できる子」にはどんどん演習してもらって、ノルマを達成したら、先の難しい問題をガンガン解いてもらえばいい。

「できる子」を退屈させれば、せっかくの才能が死ぬ。才能を殺したら教育機関ではない。「できる子」は簡単すぎる学校の授業に飽き飽きしている。だからこそ塾では刺激を与えたい。演習は「できる子」に自発的な勉強を覚えさせるきっかけにもなる。
「できる子」が「できない子」を待っている時間は、できる子に退屈どころか孤独を味わせてしまう。


教室内に存在する個々の生徒の学力差を埋め、各々の生徒の活動させ、学習効果を高めさせる「私の方法」の一番のポイントはまさにここの部分だ。生徒に「空白の時間」を作らせない「お膳立て」こそが全員を動かし、伸ばす極意中の極意だと私は思っている。

スポーツのコーチは、選手が身体を動かしている時間に、あれこれ声をかける。たとえばバッティングだったら「おい、グリップ下がってるぞ!」「軸足がぶれてる。もっと踏み込め!」と、選手の動きを追いながら注意を与えていく。

勉強の教え方も一方的な板書ではなく、演習時間をふんだんに取り入れ、スポーツのコーチみたいに、生徒の演習中のノートを見ながら適宜アドバイスを与えていく方法が望ましいのではないか。

スポーツの練習は身体を動かし、勉強の授業は頭を働かせる。勉強ではノートこそが、スポーツのグラウンドに相当する。


猫ギター先生、持った湯のみをバッタと落とし、小膝叩いて、にっこり笑った後、半泣きになってしまうくらい同意です。素晴らしい文章をありがとうございます。この文章は若手の塾講師の生涯賃金を跳ね上げるくらいの内容が詰まっている文章だと思います。






それは極意の一つだと思います

猫ギター先生のこのブログのこの部分、

子供の成績を伸ばしている塾は、授業中生徒に演習させる時間が多い。説明は簡潔に短く、演習は長めに。手抜きのように思われるかもしれないが、授業中生徒に頭を働かせる時間を作るには、演習時間を長く取るのがベストだ。

これは一斉授業で生徒の学力を伸ばすのにとても重要なポイントだと思う。このブログで猫ギター先生の仰りたいことの芯の部分ではないのだろうが思わず引用してしまった。また、ロカビリー先生も以前同様にこのことを書いてらしたように記憶している。

どうやったら確実に生徒の学力を伸ばせるかということを考え抜いていくと、「授業中生徒に演習をさせる」というところに行き着く。しかしながら演習を多く取ると、手抜きと思われるのが嫌なのか、解説ばかりしている塾も少なくない。

一時期、私は「授業時間の中で生徒が考えている時間」というのがどれくらいあるかというのを考察し、測ったことがある。自分の授業も他人の授業も測ってみた。

一番酷い授業で「生徒が考える時間は25秒」という授業があった。先生がしゃべりまくっていて、ほとんどが、生徒は話を聞いているか、板書を写しているか、という状態であった。

唯一、生徒が考える時間を持てたのは、授業の中でその先生が「発問」し、生徒を指名して答えさせた間の「25秒」だけだったのである。

では私の授業はどうだったのかと、さすがに「25秒」ということはなかったが、ビデオで授業を撮って測ってみて、愕然としてしまうような結果であった。

「授業は考えながら聞きなさい。」なんていう先生もいる。しかし考えながら授業を聞かせることは、原則として生徒に要求することではなく、先生の工夫によってなされるべきだ。

コンパクトな導入の後にすぐさま「演習」があれば、生徒は自然と授業に集中する。導入をしっかり聞かないと「演習」のときに困るからだ。授業を考えながら聞かせるなら、「話術」や「説明」を上手くするだけではなく、そういう「仕組み」から構築しなければならない。

そしてその「仕組み」とは、生徒の学力を伸ばすという目的にのみ沿って構築されるべきで、つまりは「体裁」とか「こうあるべき」といった無意味な慣習などは排除しなければならない。手垢にまみれるということを忌むことからすべては始まるのである。






「場」の磁力

Sayo先生のSORAへのファーストインプレッションを読んで気づいたことだが、やはり私が塾運営の一番の核にしているのは「場作り」であるとあらためて思う。

こなした授業の数や、主任として指導した生徒の数、あるいは何千回とこなした三者懇談の数で言えば、つまりは『経験値』ということで語れば、私は全国の塾講師の中でも結構上位にランクするのではないかと思う。(ああ嫌な言い方だ。でも別に自慢でもなんでもない。)

そういうことは「はったり」としてはよい塾の宣伝になるとは思うし、確かに多少はチラシにもそんなことを書いてはみたが、そんなことよりも、SORAという「場」で勉強できるということの方がずっと値打ちがあると思っている。

私はSORAを開くときに、「勉強に集中できる空間」を作り上げることに相当のエネルギーを注いだ。厳しいが不快ではない、緊張とリラックスがいい塩梅でブレンドされたやる気の起きる「場」、そこにいて淡々と通い続けるだけで、少しずつ「やる気」が育っていく「場」、つまり『教室の教育力』を作り上げることに全身全霊を注いだ。

もちろん講師陣も全力で生徒を教えてきたが、進学塾SORAの『教室の教育力』は数多くの生徒の学力を伸ばしてきた。

力んでこういうことを書いても、それは私自身のこだわりであって、そういうことはなかなかわかってもらえないのだろうけれど、SORAで一番自慢したいことなのである。

SORAに吹いた新しい風達がそういうことを私に再認識させてくれた。






黙々とやらせてみる

4月から本格的に小5の授業が始まっている。大人しい子、賑やかな子、真面目な子、そうでない子(笑)、笑わない子、よく笑う子など様々な個性の集まり。面白い。楽しくなってくる。

同じ教室に集まった子をあらゆる角度から観察する。お話をしながら、ノートに字を書かせながら、一人ひとりをじっと見つめる。「観察」は私の指導の「核」だ。「授業」にこだわりを持つ先生は多い。もちろんそれは大切なことである。しかし、わかりやすい授業だけでは全員を伸ばすことはできない。「観察」することによって一人ひとりの伸ばす方向性を見つけ出すことが大切だ。

小5の生徒達に「アルファベット」を書かせる。ほぼエンドレスで書かせてみる。字をたくさん書く練習をさせ、「書く力」を鍛えておかないと勉強が遅れていくというのもあるが、エンドレスで練習をさせてみて、一人ひとりの「黙々とやり続ける力」を確認したのである。

案の定、途中で手が止まる子がいる。「どうしたの?」と聞くと、「もう書きました。」なんて答える。「やり続けなさいと言ったでしょう?」と言うと、またやり始める。またしばらくすると手が痛くなったことをしきりにアピールするために、手を止めて、これ見よがしに手をブラブラ振り始める(笑)

エンドレスで書かせてみる、といっても1時間それをさせるわけではなく、15分くらいなのであるが、「今から15分間、書く練習をします」と先に言わないところがミソで、そうすると一人ひとりの集中力や真面目さ、丁寧さなどが見えてくる。例えて言うなら、「内田クレペリン」みたいな感じか。

一年間指導した小6達とは作業能力も集中力も雲泥の差があり、小5生も落ち着いて、時の経つのも忘れるくらい密度の濃い集中ができるように、これから鍛えていかなければならない。

今は勉強ができるようになるための「基礎づくり」の、そのまた前段階の「下拵え」の時期。一人ひとりの「よいところ」を保ったまま、勉強ができるようになるための「必要条件」を少しずつ、しかし確実に身につけさせたいと思う。








初授業〜黄金の三日間〜

今日は新中1新入塾クラスの第一回の英語の授業があった。授業が終わり、疲労困憊状態である。

色んなところから集まった「ただの集団」を「クラス」にしていくためには、最初の働きかけが最も大切で、最初の3回くらいの授業で一年間のおおよその方向性が決まってしまうといっても過言ではない。うまくやれれば一年間うまくいくし、下手を打てば立て直すのに相当の苦労が必要となるクラスになってしまう。

二年ほど前、SORAを開塾する数ヶ月前の頃、私はこんなブログを書いていた。引用してみる。

「黄金の三日間」とは何か。

新しいクラスは最初の三日間で一年の流れが決まってしまう。一年のクラス設計の多くを決める大切な「三日間」ということである。

若い先生に、最初は生徒に優しくしますか、それとも厳しくしますかと尋ねると、大抵「最初は優しくします」と答える。人間関係の構築がまず第一と思っているようだ。優しくするのはまこと結構なのだが、「優しい」と「甘い」をほんのわずかでも取り違えると取り返しのつかないことになる。

集団授業をするのであれば、個々の人間関係の構築よりも、クラスを組織することの方が大切だと私は思う。個々との人間関係があれば、クラスも組織できると考えるのは間違いだ。子どもに限らず、人は誰でも、場所によって自分のキャラクターを使い分ける。場所によってマナーを使い分けるのである。だからこそ彼らの過ごすクラスをまず作り上げなければならないのである。

生徒を受け入れて最初の3日間は塾のルール、教室のルールを徹底させなければならない。

一番やってはいけないのは、ある子に許可したことをある子に禁止するようなことである。これをやるといっぺんに子どもが混乱をする。全体のルールはびしっと統一していなければならない。あるときはOKで、あるときは叱られた、なんていうのはまずい。先生の言うことを聞かなくなる。居心地の悪い教室ができる。学級崩壊の入口なんてほとんどがそんなところだ。

遅刻欠席をしないこと、発言の仕方、宿題を忘れたとき、約束の重さ、など、どうすればよいのか、どうしなければならないかをきちんと伝え、ルール化しなければならない。そして何より、今自分がいる場所がどういう場所かということを確実に分からせなければならない。

例えば、最初の授業で、肘をつきながら授業を聞いている生徒に、「肘をつかないで聞きなさい」と、優しく、きっぱりと言えば、教室中の姿勢がピンとする。子どもは思う。「ああ、ここはそういう場所なんだな」と。以後明らかに学校とは違う態度になる。塾のルールの中で子どもは過ごすことになるのだ。

厳しすぎて、しんどいということはない。ルールや振る舞いの仕方が分かっていたら、それさえ守ればよい。その方が楽なのだ。授業中の冗談、ツッコミも上手に「秩序」の中で言うようになる。

「最初」というのは、よいものであれ、悪いものであれ、瞬く間に「刷り込み」がなされてしまう。しかも後で「書き換え」するのは途方もないくらい大変だ。厳しくしてから優しくするのはいくらでもできるが、甘くしてから厳しくすることはできない。

受験直前も大切な時期であるが、出会いの時期は同じくらい大切だと私は思う。


というわけで、今日は中3の合格発表もあり、出会いの日でもあり、とてつもなく大変な一日であったというわけである。