トラックバック

JUGEMはテンプレートを色々いじることができますね。

自分なりにあれこれカスタマイズしています。

楽天のブログもきれいにリンク欄を作ることができました。

さて、色々なところで「kamiesu」なんて入力して検索してみますと、思ったより多くの方が私のブログを読んで記事を書いてくださっていることに気づくのですが、読み落としている場合も少なくありませんでした。

JUGEMは楽天よりもリンクしている方の動きが見えにくいですので、さらに見落としやすい気もします。

そこで「トラックバック」の機能をONにしてみました。

楽天のときは業者系のトラックバックが度々入り、トラックバックはクローズしていたのですが、こちらは一旦こちらで受け取れるので、安心かなと思います。

よろしかったらトラックバックしてください。


ところで、「トラックバックをするときのルール」なんていうのは存在するのでしょうか。

いきなりトラックバックしてよいのでしょうか?

それとも一旦許可を取るのでしょうか?

私的には、今まで交流があった人ならば、いきなりのトラックバックも何とも思いませんがが、初めて見る名前の方から、事前も事後も連絡なしでポツンとトラックバックされると、気になるような気がします。

ですので、今までコメント等で交流のある方は連絡なしで、トラックバックさせていただくと思いますが、あまり交流のなかった方にはトラックバックしてから、コメントでも入れようかと考えています。

よろしくお願いいたします。


This is a pen.は導入としては不向き

「This is a pen.」から英語を導入するのはどう考えてもよくない。

最近は色んなアプローチからの導入が見られるが、多くは「コミュニケーション」の初歩からの導入である。それは英語の「文構造」や「be動詞の意味」の理解を助けるものではない。私は第二言語として外国語を学習するのであれば、「文構造」などの「理屈」での理解を積極的に助けながら指導するのがよいと考える。そういった意味で、私は「be動詞の文」から導入するのは悪くないと思っている。「一般動詞現在形の文」よりはずっといいと思う。

かつて「This is a pen.」から英語が導入されたのは、用いる単語がイージーだったからだろうと思う。

日本の英語学習は「読み」と「書き」を同時に学習させる「読み書き同習」が基本となってきた。「読み書き同習」は英語学習の導入時の「文構造」や「be動詞」の理解助けるメソッドではない。むしろそれを妨げる要因になっている。とにかく書けなければならないので、「理解」が後回しになりやすい。「書くこと」をマスターするのは容易ではない。だから「理解」することよりも、ピリオドが抜けていないかとか、単語を間違いなく書けたか、といったことが優先されてしまうのである。

その中で数多くの練習問題をこなし、中には「文構造」や「be動詞の意味」のいくらかを理解する子も出てくるが、それはその子達の「生命力」が逞しいだけで、教師がその理解を積極的に助けたわけではない。教師は当然「文構造」も「be動詞の意味」も説明するのであるが、「言葉」だけで説明されたものは生徒の「体得」になっていない場合が私も含めてほとんどではないかと思う。

This is a pen.が英語の導入の最初の文として、向かないと私が考える一つ目の理由は主語が「代名詞」であるということだ。

最初の導入文の主語が「これ」であるのはいただけない。抽象的だし、文法にうとい小学生上がりには「主語」であることすら認識しにくい。導入文の主語は「トム」とか「メアリー」などの明確な「名詞」の方がずっとすっきりするだろう。

また、「This is a pen.」にはいきなり学習する内容が数多く詰め込まれていて、被学習者にはハードルが高すぎる。名詞に冠詞「a」をつけることは英語を初めて習う子には大変なことであるのに、「be動詞の文」と一緒に一度に学習に学習するべきではないと思う。「冠詞をつけること」は、文を教える前の単語の学習時から行っておくとよい。

「一度に大切なことを複数教えてはいけない」。これはは分かりやすい授業の鉄則である。「学習ステップ」の組み立て方こそが分かりやすい授業を練り上げることだと思う。

そういったことを色々考えて、今年は英語の導入時に名詞を教える最初の授業から、冠詞を教えた。「冠詞」ということは「a」だけではない。「the」も教えたのである。(theの導入に関してはいずれ別に述べたい)

さて、「be動詞の文」の導入に関して、私は色々と考えて、今年はこのようにやってみた。私はおもむろに「数式」を板書し始めた。

1+1=2
2+3=5
4+2=6
7+1=8
9+1=10

Tom     a doctor

The notebook   yellow

Mary    a nurse

Jim   a policeman


なるほどと思われた方も、それじゃあ駄目だよとご批判がおありの方もおられようが、私は現状のThis is a pen.からの導入よりもずっとよいと思い、このようにした。

(いずれつづくかも…)

私の言葉を受け継ぐという君へ

楽天ブログに「先生の言葉を受け継ぐ者」という名前で書き込んでくれた教え子が誰だか分かった。

その子から、明日後期で試験を受けるので、気合いを入れてほしいと電話がかかってきたのである。

精一杯の言葉を尽くし、言葉を贈った。

「いいか、文字通り『人事を尽くして天命を待つ』ってやつだ。月曜日全力でやって駄目だったら、もう一年頑張ってもう一度東大を受けろっていうことだ。阪大に受かったら、それは神様が阪大で何かをしろって言ってるってことだろう。だから全力を尽くすことだけ考えて、もう身を任せてしまえ。」

そんな感じのことを話した。

3年間音信のなかった子なのに、このタイミングで連絡があるなんてことは「塾講師冥利」につきる。ましてや「先生の言葉を受け継ぐ者」なんて本当に嬉しい。

彼へのエールと同時に、ちょっと自慢したいという思いもあって書いていたりする。(すみません)

皆がよい未来を手に入れますように。



「おことわり」と「お願い」

楽天ブログの記事の中から、気に入ったものや、加筆したくなったものなどを転載することがこれからありますが、読んでいただけましたら幸いです。

中学入学シーズンを控え、「部活動の選び方」とか「中学入学の心構え」なんていうのもタイムリーですので載せていきたいと思います。

よろしくお願いします。

『守・破・離』

「個性の教育」などという。誠に結構であるが、「個性」を身につけさせたいから、子どもに「自由」にさせるというのはどうにも短絡的であると思う。

実のところ、どうやって子どもを個性的に育てるのかというメソッドなどは確立されていいないのが実情でで、巷に溢れる「個性の教育」論はほとんどが思いつきの意見なのである。思いつきの意見であるから、無責任で、千差万別である。それを真面目に聞いた親が子育てに迷う。これは悲劇である。

「好きにやっていいのよ」

「やりたいようにやりなさい」


こんなもので子どもは個性的に育つことはない。強烈に「我侭」になるか、何もできずに固まってしまうのがオチではないか。先に私は確立された個性を伸ばすメソッドなどは存在しないと書いたが、それは「現代教育」の話で、実は「個性を伸ばす教育」は存在する。しかも磨きぬかれた実証済みのメソッドである。「個性を伸ばす教育」、それは「芸事」、特に「伝統芸能」の世界に存在していたのである。

昔の人々は弟子にどうやって個性を身につけさせていたのか。

それは『守・破・離』という言葉に凝縮される。『守・破・離』こそが、芸事の修行の鉄則という。これが先人の方法であった。

『守』とは師匠の教えを守ること。自分自身を一度捨て、何から何まで師匠の言われた通りにすること。師匠の技を真似ること。師匠のクセまでも真似なければならない。

『破』とは基本を身につけた後、師匠の教えを破り、自分の技を模索すること。

『離』とは師匠から離れ、自分自身の技を確立すること。

何と「個性の確立」の第一歩は「個性を捨てること」にあるという。このやり方で、落語も、三味線も、歌舞伎も、弟子を育ててきた。数百年の時をくぐり抜けてきた実践である。「個性の教育」の薄っぺらい提言などとは比べものにならない確かさがある。

考えてみると「個性」には核が必要だ。その「核」とは、人間として大切な常識であったり、マナーであったり、正義であったり、美学だ。これが『守』であろう。これはたたき込まなければならない。「あなたの好きにしていいのよ」はない。

この『守』の甘さが今の教育の歪みを生んでいるのは恐らく間違いない。

拠り所を持たぬ「核」の無い子ども達が「個性」を持つことを強要され、どうしていいか分からなくなったあげくに何とかしようと思えば、行き着くところは「外見」でしかない。

もう5年ほど前のことになろうか、私が大阪のアメリカ村を歩いていたときのことである。

通称アメ村は若者達の街だ。様々なファッションの若者が我が者顔で歩いている。

狭い歩道を歩いていると、向こうから一組のカップルが歩いてくる。高校生くらいか。凄まじい格好だ。男がチェックのスカートをはいていて、髪はツンツン、化粧をしていた。女は全身黒ずくめで唇が紫色だ。二人とも表情がなく、不気味だ。

近づくと二人の口から何かが出ている。よく見ると、二人の唇のピアスに電話のコードのような、あのくるくるとした細いヒモがついていたのである。

二人めいめいにではない。なんと一本のピンクのヒモで二人はつながっていたのである。

狭い歩道は3人が並ぶほどの幅はない。よけなければならない。私が端へ避けようとしたその瞬間、二人は道の両側へ避けた。片側にではない。両側へである。

両側へよけたそのカップルの間にはぴよーんと伸びたピンクのヒモが揺れていた…

お、俺はこのヒモをくぐるのか、と呆然としたその瞬間、さすがにカップルは片方へよけてくれた。

この若者達をこんなふうにしたのは誰か。それは「人は個性的であらねばならない」と教育しておきながら、「核」をたたき込まなかった現代教育に他ならない。

「個性なんかいらんいらん、人間として大切なことをしっかり学んだらそれでええんや」

それくらいのことを言って、若者を抑圧(?)する中から生まれてきたものこそが「個性」であろう。「ロック」も抑圧された若者の心の中から生まれたのである。「好きにしていいのよ」と言われてしまってはロックも形無しだ。

「守」で耐え抜き、ときに「抑圧」され、内に秘めた「エネルギー」が「破」という段階で解き放たれる。地中で幾年も過ごした「サナギ」が「蝶」になり羽ばたく。そんな中で、様々な人の影響を受け、「自分自身」が創り上げられていく。その「ブレンド具合」こそが、その人の「個性」なのではあるまいか。

小学生や中学生を教えるとき、自分自身のなすべきことの大部分が「守」の部分であると私は考えている。

(楽天ブログから転載。大幅加筆訂正)