学力低下の原因と塾の組み立て

赤虎先生のこのブログは素晴らしい。

特に「はさみ」の部分は、先生の類稀なる観察眼と学んでこられたことの総量の大きさが伝わってくる。PCの画面を凝視したまま唸ってしまった。あ〜凄い。

赤虎先生の仰るとおり、今の小学生、中学生に足りないのは、定着を確実にするための「演習量」だ。「分かりやすく教わること」ではない。分かりにくく教えられるよりは分かりやすく教えられた方がいいに決まっているけれど、それだけで学力は上がってはいかない。欠けたものを欠けたままにしておいて学力を伸ばすのは困難なのである。

もっとも、このことに気づいている人は塾の先生の中でも少なくはない。それくらいのことは多くの人が気づいているはずだ。問題はそこからだ。今のそんな子ども達をどうやって伸ばすかという具体的な方法を示せるかということである。

「今の子は演習が足りない」→「演習量を増やそう」→「演習用に宿題をたくさん出す」、というのは一番ダメダメな方法だ。工夫が足りなさ過ぎる。それはプロの方法ではない。それでは伸びない子が多く出てしまう。

今の小中学生を伸ばすためには、なぜ今の子たちが「演習量」が少なくなったのかという原因から考えていかねばならない。

今の子ども達の習得のための演習量が落ちたことの原因の一つは「端折られ過ぎ」にあると私は思っている。誰が「端折った」のか、それは学校教師と塾講師である。学校教師も塾講師も端折らざるを得なかったのである。端折ったゆえに大切なことが日本の教育から落ちてしまった。落とさずにきちんとした先生もいるだろうが、大きな制限がかかってしまったのである。だからこそ、大部分の先生が落としてしまった。しかもその大事に多くの人が気づいていない。

本来は私はこのことを年明けの新年度の自塾の生徒募集チラシで書こうと思っていたのだけれど、あまりに赤虎先生が端的にそこを突くブログを書かれたので、つい書いてしまった。だから、ちょっとここら辺で止めておくことにする。(ほとんどのヒントは書いた)

私は次の指導要領で、教える内容の増加や難化があることを見越して塾を作った。ある意味、私の思惑の通り(いや、それよりも早く)に事は進んでいっている。この段階的な指導要領改訂の先行実施は私の塾の生徒には大変有利なこととなるだろうなと思っている。(そんなことをチラシで書こうとしていた)

私が塾に通う生徒をできるだけ確実に伸ばすにはどうすればよいかを考え抜いて塾を作ったから、有利になるのは当然だ。それを二の次、三の次にして、効率を優先して作られた塾は当然厳しくなる。まあそれは「生徒を伸ばす」という意味では厳しくなるということであって、お金儲けはまた別のことなのだけれど。



満足しない

自分の教え子にはいつも「不満」を持っていたい

確かに、彼らのことが好きであったり、凄いなと思える部分はもちろんある

しかしそういうことはできるだけストイックに心に秘めておき

彼らに対してイライラしているくらいがちょうどいい

彼らにはちっぽけな私など、さっさと越えて大きく成長してもらいたい

先生が教え子に満足したら何かが駄目になる

そう思っている



弾けないところをいつまでも弾かない

最近、短い時間でもいいから毎日ギターを弾くようにしている。学生の頃弾いていたバッハの曲をもう一回弾いてみようとちょっと思い立ったのだ。

学生のときに使っていたクラシックギターは糸巻きのところが壊れていて使えなかったが、香芝にあるギター修理工房に持っていって直してもらった。昔はギターを「調整する」という発想もなかったが、長年弾いているうちに知恵もついてきて、弦高を下げたりするなどの調整をして弾きやすくしてもらう。

修理から返ってきて、弾いてみるとあまりいい音が出ない。何と言っても久しぶりに弾くのだから、ギターも寝こけている。それでも小一時間弾いていると段々と鳴るようになってきた。ギターは弾いているといい音が出るようになるのである。

さて、久しぶりに弾くバッハは運指をすっかり忘れてしまっていて、一からやり直し。また、あの頃は手を付けなかった曲もちょっとやってみようと、2曲ほど取り掛かってみる。バロックの曲は低音と高音がそれぞれ別の旋律を持つのでギターでこれを弾くのはかなりやっかい。四苦八苦している。

ただ何度も弾いていると、ふと20年前の指運びを思い出すときがある。何も考えないで弾いていたときにそうなりやすい。何も考えないときは潜在意識にリンクしやすいのだろう。そういうときはとても嬉しくなる。20年前の自分に再会したような気分だ。

少し弾けるようになってくると、クラシックギターの音に酔える。やっぱりいい音だ。それで、難局のところはいつまで経っても手をつけないで、弾けるところばかり何度も弾いて自己満足に浸るのである。ちょっと難しいところを練習してみて上手くいかず、また気持ちよく弾けるところに戻る。そんなことのくりかえしだ。

思えば、生徒達の勉強もそうなのだろうなと思う。できるところを何度もやり、自分ができない、乗り越えなければならないところを最後の最後まで放ったらかし。そういうことは本当に多いにちがいない。できないことをできるようにするのは骨が折れる。誰だってやりたくない。

いかにわかりやすく教えてもらっても、身につけるのは自分である。自分自身が「体得」しないかぎりできるようにはならない。仮に私が今ギターの先生、それも超一流の先生についたとしてもバッハは弾けるようにはならない。

習い始めの「いろは」は先生に習ったほうがいい。そしてまた表現力その他を身につけるにも先生の指導を受けた方がいい。しかし先生にはどうにもできない、そこだけは自分で何とかしないといけないというところがある。それは楽器演奏でも、勉強でも変わりがない。

「勉強のやり方がわからない」という子のほとんどは、自分自身で身につけなければならない部分をスルッと上手くやり過ごせる「魔法」を探している。でもそんな魔法はない。王道とは極めて退屈な道である。そこを覚悟するかどうかでその子の伸び方は変わってくるのだ。

勉強できる子はどこかいいかげんさを持っている

「完璧主義」というのはどこか危うさを持っている。だから私は生徒に「完璧、完璧」とあんまり口うるさくは言わないことにしている。

学習において、「基本事項」を身につける場合などには、徹底的に繰り返し、完璧にしておかなければならないことは言うまでもない。そういうことに関しては私も口うるさく言う。しかし、だからといって、何にでも「完璧」を過度に要求することは、薬にもなれば毒にもなる、処方箋を間違ってはいけない劇薬なのである。

たとえば、生活全般に関することや、勉強の計画などに生徒自身が「完璧主義」であったり、あるいは指導者の側がそれを生徒に要求するのはよくないことである。完璧を求めすぎると、力みすぎてしまい、どこかに無理が来る。破綻しやすい。生徒自身が、「うまくいかないとき」をうまく乗り切れなくなってしまうのである。

勉強が出来る子というのは、どこかに「いいかげんさ」を持っている。真面目さといいかげんさのバランスがいい。勉強できる子には「あ〜、ここまでやってできなかったら、そりゃもうしゃあないわ」と開き直れる子が多い。それは一種の「サーモスタット」といってもいい。間違いなくそれは「強さ」であると私は思う。

こういういいかげんさを持っているのは、圧倒的に男子に多い。「受験直前には男子がぐいぐいと伸びてくる」なんて言われるのは、受験直前の、やらなければいけないことが山ほどあるプレッシャーの中で、男子が「いいかげん」で逞しく突っ走ることができるからだろう。

「あれも、これも、どれも全部完璧」というわけにはいかないときはある。勉強においても、人生においても間違いなくそういうときは存在する。そういう「キツイところ」は何とかのらりくらりと乗り切って、一息つけるところを待ったり、自分が成長するのを待ったりするのも方法だ。そういうことができるのは「長所」なのである。真正面からぶつかり続けるだけが「正しいあり方」ではない。

苦しいときを上手く乗り越えられる開き直り方やいいかげんになる方法というのも、生徒達には少しずつ学ばせたい。



On the way

私のブログによくコメントくださる「まるみ」さんが、数日前のコメントに、「猫ギター先生のブログがホントの意味で(私のブログ、もしくは教育観?と)リンクしてるな・・・って感じます。」と書いてくださった。

たしかに猫ギター先生とは教育観やら、哲学が似通うところがある(と勝手に思っている)。読んでいて心強い思いをさせていただくことが多い。ただ、先生の文章の表現力やら力強さは常人の何十倍とあるので、時折その力の差に落ち込んでしまうことがあるのが辛いところである(笑)

昨日の先生のブログ。『中1が「塾生」に変わる瞬間』。SORAの生徒達が読んだら、「これってkamiesu先生が書いたんじゃないの?」と言うのではないか。それくらい私の指導ポリシーと重なる。

猫ギター先生のこの実践は「試し」「観察し」「気づかせ」「体感させる」ことに重点をおいている。この指導は、生徒のもっていき方にコツは要るが、驚くほど効果が高い。ほとんど同じ手法をとる私もその効果はよく分かっている。

多くの指導者は「真面目に勉強すること」を言葉で説き、「説得」しようとするか、あるいは「命令」によって「強制」しようとしてしまう。確かにそれでも生徒は動く。しかし、前者だと生徒の動きはとても鈍く、後者だと、その指導の精度を上げようとすると歪みが出てしまいやすい。指導の精度を上げるとはつまり「強制」の締め付けを強くするということだ。これをやると伸びる子も増えるが、伸びない子がやたらと出てしまう。また「言われないとなかなか勉強ができない集団」になりやすい。言われないと勉強ができないのは「伸びる子」も例外ではない。

あるところまで「強制」し、その子に勉強する習慣がついたら、少しずつ手を離そうとする指導者もいる。しかし、勉強する習慣がついたという見極めが難しい上、手を離せるのはよほどの覚悟のできた指導者だけではないか。

塾の指導というのは、合格実績などの狭いゾーンの「結果」を、短期間で出そうとして、どうしても「教え過ぎ」「与え過ぎ」「構い過ぎ」になりやすい。そういう指導を受けると自分では動けない子ができやすいのは誰が考えても分かる。特に指導者の力量が低いとそうなりやすい。

SORAは『結果』を出している塾だと思っているが、その手法の根本は教材やカリキュラムではなく、「教え過ぎ」「与え過ぎ」「構い過ぎ」を排したことだと思っている。もちろん教材やカリキュラムや授業の質が悪いと生徒の学力は伸ばせないが、質の高いものを提供していれば、「教え過ぎ」「与え過ぎ」「構い過ぎ」を排することで、生徒の「自ら学ぼうとする力」や「バイタリティ」を引き出し、「強制」されてやる子よりも確実に高く、早く学力を伸ばすことができる。私はそう信じて日々の指導を行っている。

もちろん指導方法は様々だ。この方法でないと伸ばせないということはない。(やってはいけない方法というのはあるだろうが)また、この方法でよいと安心し「進化」を止めてしまってもいけない。だから、よりよい「何か」を常に探し続けることになる。

しかも「(手垢にまみれた)従来の手法」や「教育の世界に何となく存在する常識」を常に疑うようにしているので、時折気持ちが孤独になる。そんな「道の途中」で、同じような実践を行なっている力量のある人に出会えると、暗闇の中でそっと道を照らしてもらったような気持ちになれるのである。














それが私の本当の仕事

ある子(中2)が書いた今回の中間試験のふりかえりの文章。

私は前回のテストの点数から今回のテストの点数がすごく高くなったことが分かった瞬間、信じられませんでした。本当に嬉しかったです。勉強する時に「今回は絶対にこのクラスの目標点数を超えてやろう」と思っていました。このクラスの平均点を下げたくないからとかそういうのではなく、自分自身で、頭がよくなりたい、早く他の子みたいないい点数を取りたいと思っていたからです。

○ワークや、●ワークをやっている時、ほぼ同じ事が問題に出ている部分などがあったり、学校で教えてもらって重要だといわれた事が出ていたりしていました。今回はそういう所を一つももらさないように自分でくり返して口に出して読んだり、確認したりしました。そうしている内に段々、楽しくなってきて、自分の頭の中で自分だけの問題集を作っているようでした。やはり、そういう事をしていると、テストのときにもすごい安心感があるし、大切な事だなと思いました。

テストの時、私がまず気を付けようと思ったことは『時間配分』です。私がテストをしていて他の子より差が開くことは、問題を解くのがすごくおそいという事です。その点を直すことによってだいぶちがうと思います。だから直そうと頑張りました。しかし、国語だけが間に合いませんでした。次は全部の時間配分を完ぺきにします。

次に気を付けようと思った事は問題文、又は問題をしっかり理解することです。これは特に英語です。大文字で答えるところを小文字で答えたりすることが、出来なかったです。しかし、また、Anywayの所でやってしまいました。すごくくやしかったです。それも次は直します。今回399点でうれしいけどあと1点の所で400点になっていたらと思うと本当にくやしいです。上のことを気を付けていれば400点はいけていたと思います。だから次の私自身の目標は5教科で420点をいけるように、頑張りたいと思います。


短い時間で急いで書かせた文章なので読みにくいところがあり、文がおかしいところも少しあるが、妙に迫力がある文になっている。本人が冒頭で点数が上がったと書いているが、それがなくても、多くの方は、これは伸びる子の書いた文だなと感じていただけたのではないだろうか。実際、この子は今回の試験で80点以上点数を伸ばしている。

この子は「言われたことをやる」だけでなく、自分でこういう点をこうしよう、あそこはこうやろうという、勉強に対する工夫があり、そして、それを実行し、結果を見つめ、反省点を示している。書かされたから書いているのではなく、自分を見つめ、具体的なことを綴り、具体的な次回への目標を提示している。それが文に迫力を生んでいる。つまりこの子の「嘘」の無さと、「本気」が伝わってくるのだ。

伸びる子には「変化のポイント」というのがある。ピクリとも動かなかったものが、あるところでぐっと大きな変化する。まるで化学反応での起こしたかのように、爆発的に、そして鮮やかに変化をする。本当はその「変化」を生徒の心に起こさせることこそが私達の仕事なのだ。もちろん、それはそう簡単にはいかない。でも「伸ばす」というのはそういうことのはずだ。

私はこの子の文章を何度も何度も読んだ。入塾してきたときとはまるで別人のようなこの子の成長が嬉しくてたまらなかった。この仕事をしていて本当に良かったと思う瞬間である。



出席簿3

「通知表の英語の評価が4から5になったね、よかったね。」という言い方は、正確に言うと、言葉の使い方が間違っている。


こういうときは「評価」ではなく、「評定」と言わねばならない。「評価」を数値化したものを「評定」というのである。


といっても私も、そういつも正確に使っているわけではないが。



私がこの話で違和感を感じたのはこういう場面で「評定」を用いることにある。



しかもそれが「2段階評定」。「がんばっている」か「がんばっていないか」のどちらかであり、「結果を出しているか」「結果を出していないか」のどちらか。



生徒達だけでなく、我々も含んだ人間というのはそんな単純な存在ではない。



スイッチがオンやオフになったりするように頑張ったり、頑張らなかったりというはない。


色んな「気持ち」を行ったり来たりしている複雑で豊かな存在だ。



それを理解するのに「二段階」の「評定」を使うのは私の哲学で言えば「間違い」なのだ。生徒をデジタルに評価し、それを評定にしていくことも嫌だし、そんなことを誰かにされることを考えるともっと嫌だ。




「評定」というのは元々仕方なく、お手軽に使われるものなのである。




何より「本質」を正確に表現するものではない。だから心ある学校教師は生徒達に「評定」をつけるときに絶対に悩んでいるはずである。


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GR Digital



Photoshopで「二段階階調」に加工

生徒を知り、理解することは私達の仕事の大きな柱の一つのはず。そこはお手軽にしたり、形式的にしてはいけないと私は思っている。

生徒の情報を得たかったら、マメにスタッフ間で生徒の話をいっぱいすればいい。口角泡飛ばし、誰彼がこうだった、ああだったと言えばいい。飯を食いながら、酒を飲みながら、教育の話をしながら、馬鹿話をしながら、生徒の話もいっぱいする。そのほうが絶対に情報は共有できる。

それが時間的に、物理的に無理というなら、出席簿(名簿)には「評定」ではなく、「評価」を綴るべきだ。「評定」の何倍も生徒が分かるはずである。

今回、出席簿の大きさをB5からA4に変更した。サイズを一回り大きくしたのである。1クラスがせいぜい20人の塾であるからA4の出席簿には色々書き込める。

新しい年度に向け、大きいことから小さいことまで、よりよい塾を作るための努力はできるだけしておきたいのである。